夕顔花魁が本当に脚抜けをしたのは、翌日の明け方だった。

 その方法はあまりにも杜撰だった。

 ただ、桜町と外部とを仕切る桜橋を、走って越えようとしたのだ。当然側にいた男衆にすぐに取り押さえられ、10分もしない内に夕顔は招福楼に引き戻されてきた。

 そのとき真澄はちょうど、買い付けてきた禿を一人卸すため、招福楼の女将の部屋にいた。女将の部屋は大正時代の洋室風にしつらえられていて、びくびくと怯える14の少女は真澄と並んで赤い天鵞絨張りのソファに腰を下し、女将と向き合っているところだった。

 「女将さん! 脚抜けです!」

 息せき切って駆けてきた手代の勝田が、閉じられた障子ごしに声をかけると、百戦錬磨の女将はただ、誰だい、とだけ低く鋭い声で訊きかえした。

 「夕顔花魁です!」

 「夕顔?」

 真澄と女将の声が重なる。女将のそれは怪訝そうで、真澄のそれは驚きに彩られていた。

 女将からしたら、妓楼一の売れっ妓であり、年季明けとてそう遠くはない上に桜町の女衒を情夫にしている夕顔が脚抜けをするなんて不思議だったのだろうし、真澄としては、ちょうど昨日、脚抜けしたら驚くかなどと戯れに問うてきた夕顔が本気で逃げたことへの驚きが大きかった。

 「それで、夕顔はどうしたんだい。」

かつては自分も招福楼で看板を張っていたと言う女将の毅然とした横顔は、年を取ってもなお凛とした気迫に照らされていた。

 「布団部屋に閉じ込めてあります。」

 「そう。じゃあ、あたしが行くまでそのままにしておきな。」

 「はい。」

 そして女将は、何事もなかったように少女と真澄の方に向き直り、にっこりと笑って見せた。その笑顔は、なぜだか真澄の背筋をぞくぞくと凍らせた。

 「真澄にはさっき言った金額を持たせるよ。びた一文値上げするつもりはない。金が欲しいならこの子をきっちり躾けて、マージンで食っていける花魁に仕上げるんだね。」

 「……はい。」

 「じゃああんた。今日からあんたは禿のこうめだよ。後で姐さんに引き合わせてやるから、しばらくここで待ってなさい。」

 「……はい。」

 真澄も少女も、女将の迫力に負け、おとなしく頷いた、

 女将は満足そうに煙管で掌をぽんぽんと打つと、ソファから腰を上げた。

 「真澄。あんたの躾けた夕顔の脚抜けだ。仕置きを手伝いに来ておくれ。」

 「……はい。」

 これまで真澄は、一度も脚抜けした女の仕置に立ち会ったことはない。師の直巳は何度かあったようだったが、そのうち嫌でも経験するんだから、とだけ言って、真澄に詳細を語ることはなかった。



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