行こう一緒に。未来の風を求めて Let's go together. In search of the future wind.

さかき原枝都は(さかきはらえつは)

Episode1 流れる風の行き先 Where the flowing wind goes.

 「On your marks(オン ユア マークス)」

 「Set (セット)」


 パン! スターターの音が響いた。


 スターティングブロックを蹴りだし、一気に風を切る。

 ああ、今までにないくらい体が軽い。まるで風の中を自由に飛んでいるような感じだ。


 期待ができる。私の両サイドには誰もいない。

 向かう先はゴールだけだ。そこに到達することだけに集中しトラックを力強く蹴りあげる。


 ゴール……ううん。もっとその先に向かいたい。

 終わりなんて無いんだ。

 ごぉぉっと風がたなびく音だけが聞こえている。

 軽い軽い! 本当に軽い。

 いつしか風の音も聞こえなくなった。


 その時――――。


 ブチ! と体の中で何かが途切れたような感じがした。それがどこで起きているのかは、その瞬間は分からなかった。

 何かがすっぽ抜けるように、私の体は空から墜落していく。


 トラックの上をまるでゴミの塊が転がるように回転していった。

 そのあとのことは覚えていない。


 気が付けば白い天井と、ベージュのカーテンに囲まれたベッドの上にいた。

 いったい何が起こったのかその時までまったく分からなかった。


 目が覚めるとお母さんの顔が真っ先に映った。

「気が付いたのね。痛かったでしょ」

 そう、お母さんは言う。


 なんだか頭がぼうとして、いまいちはっきりとしない。

 それでもここは病院だということは認識できた。

「手術、大丈夫だって」

 手術? その言葉を聞いたとき、私の左足の感覚がないことに気が付いた。

 そこから入院生活と、リハビリの日々が始まった。


 アキレス腱断裂。及び剥離骨折。

 リハビリはかなりつらかった。腱が切れた時の痛みは正直記憶にはあまりない。


 それよりも、恐怖心が私を覆いつくしていた。

 もう走るのは怖い。

 痛かったから? リハビリが辛かったから?

 どれも違う。でももう走る事はないと思った。

 ようやく登校できるようになったけど、まだ、左足は思うようには機能してくれない。


 部活……陸上部はやめた。

 もう走ることなんて出来ないから。


 図書室の窓から、眺めるグラウンド。私がいた陸上部が練習している様子が眺められる。

 その様子を目にしながら、なぜか手を握り絞めていた。


 悔しい? もういいじゃん。

 無理なんだよ。辞めたんでしょ……陸上。

 いろんな思いが一気に私の頭の中を駆け巡る。


 そんな私の前に、一冊の本が置かれた。

 ふと見上げると、一人の男子生徒が私の横に立っていた。


 見覚えのある男子。

 確か私の一年上。三年の七井智春なないともはるさん。


 入院していた病院で何度か見かけたことがあるけど、話したことは無い。

 なのにどうしてフルネームを知っているのかって。それは彼は女子の間ではちょっとした男子ひとだからだ。女子生徒の間では彼のことを皇太子と呼んでいた。

 色白で、つるっとした肌にすっと癖なく配置された目鼻。おかっぱに似たヘアスタイルが何となく可愛さを見出している。


「どうしたんですか? これ」

「いや、なんとなく今の君に必用なんじゃないかと思って」


 私の前に置かれた本。それは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』だった。


「読んだことある?」


 う――ん「ないかも」

「なら、読んでみてよ」

 そんなこと言われても「本なんか読む気分じゃないんだけど」

「でも読んでもらいたいな。感想とかは求めていないから、ただ読んでもらえると嬉しんだけど」

 そう言って彼は立ち去った。


 初めて皇太子と話をした。ちょっと、ちょっとだけドキドキした。

 本棚に戻すのめんどくさかったから、一応借りていった。

 でもカバンにしまったままで読んではいない。


 それから数日後、図書室に本を返却に行った。その時、三年の女子が話している声を何気なく耳にした。

「皇太子入院したんだって」

「そうなんだ。またかぁ―、じゃぁしばらく見れないね」


 入院? そうか体弱いって聞いていたけど、そんなに悪かったんだ。それに病院で何度か見かけたこともあるから、相当悪いのかな。

 明日通院日なんだよね。多分さ、同じ病院だと思うけど。

 お見舞い……。迷惑? なんで私彼にお見舞いに行くことあるの?


 ふと返却した本をじっと見つめ。

「あの、その本、また借りてもいいですか?」

 と、またあの「銀河鉄道の夜」を借りていった。


 でも私はこの本を読まないだろう。

 読んでもいい気はするけど、なぜか読んではいけないような気もしている。

 ただ、持っていることで彼との接点があるということに気持ちが注がれていた。

 そう、そのためだけに借りた本。


 次の日診察を受け医師から

「うん、もうだいぶいい感じだね。また走るのかい? 陸上」

「……もう、多分走らないと思います」

「どうして? ちゃんと少しづつ慣らしていけば、前のように走れるかもしれないよ」

「もう辞めたんです。陸上……だから」

「そうか」それ以上医師は何も言わなかった。


 診察が終わり、受付で七井智春なないともはるの名を言い病室を聞いた。

 やっぱりこの病院にいた。

 教えられた病室の前に行き、そのまま足がすくんでしまった。

 病室のドアは開かれていたけど、ベッドを囲むカーテンは閉められていた。

 一歩踏みだせば、彼に会えるのに。


 その一歩が踏みだせない。


 病室の前で立っていると「何か御用?」と声をかけられた。

 ふと見るその顔は皇太子とそっくりだ。髪型まで似ている。

 皇太子のお母さん。間違いない。


「あ、えっと……」言葉に詰まっていると。

「智春、彼女がお見舞いに来たわよ!」とカーテンの中の彼に言う。


 か、彼女!! ち、違うってば!


 その声に反応するようにひょいとカーテンから、顔を出す皇太子。

「あ! 杉浦すぎうらさんだ」

 へっ! なんで私のこと……。


「来てくれたんだ。うれしいな」とにこやかに彼は私を迎えてくれた。

「ま、智春ったら、ほんとににこにこしちゃって。さ、どうぞ。ええっと」

「杉浦さんだよ。杉浦光すぎうらひかるさん。陸上部だったんだ」

「ああ、あなたが良く話してくれた子?」

「そうだよ。いつも見ていたんだ。練習風景」


 嘘! 


「来てくれてありがとう杉浦さん。この子暇もてあましていたから、話し相手になって頂戴。あ、そうだ! 冷蔵庫にプリンあるからどうぞ」

 ベッド横の棚と一体化している小型の冷蔵庫から二つのプリンを取り出し、お母さんは一つを私に手渡した。


 二人ともにこやかに私を見ている。

 いいのか。突然来て、こんなに歓迎されちゃって。

 ――――恐縮です。


 でも知らなった。彼が私が走っている所を見ていたなんて。

 恥ずかしくてまともに彼の姿を見れない。

 そんな私に彼は。

「読んでみた?」と問いかけた。


 それはあの本。彼が私の前に置いた『銀河鉄道の夜』のことだろう。

 どうしよう。嘘でも読んだといえば喜ぶかな?

 でも私の口からは「読んでないよ」とするっと出ていた。


「あはは。やっぱり。だと思ったよ」

「な、なんで読んでないって思ったの?」

「読みそうにないと思ってたから」


「じゃぁどうして勧めたの?」

「さて、どうしてでしょう?」

「わかんない」


「実はさ、僕もどうして勧めたのか分かんないんだよ。……ただ」

「ただ?」

 彼は窓に映る景色に目を向け、ぼっそりと言った。


「光ちゃんと……話がしたかった」


 ドキンと胸が高鳴った。

 そして耳の先までじんじんと熱くなった。

 これって何? ――――これは巷で噂されている。――――告白と言うものなんだろうか!!

 いやぁ――。それは違うでしょ。こんな私に皇太子が、告白するなんて、ありえない。


 私そんなに可愛くないし、無趣味だし。

 本も読まないし……よ、読んでみよっかな……。


「えへへ、言っちゃったよ。迷惑かな」

 ブルブルと思いっきり顔を振った。髪が乱れるのなんか気にしない。


 それに光ちゃん! 光ちゃんって私の名前だよね。

 ああ、名前で呼ばれてる。そ、それじゃ、私も智春さんって呼ぶのかな?

 うううっ、なんか漫画の世界が現実化したみたい。

 本は読まなくても漫画は大好きだ。


 でも私には彼のことを名前で呼ぶ勇気はなかった。

「七井先輩」そう呼ぶのが精いっぱい。

 でもそれでいいんだ。

 ……それで。


 こうして私達は、恋人……じゃないねきっと。

 友達だよ。それとも親しい先輩と後輩の関係。……かな。

 でもね、私。学校で噂されるのも、ねたまれるのも嫌だから。


 私たちはこっそりとした関係になろうと思う。

 繋がりは一冊の本だと言う事でもいいから。


 帰り道。私はお気に入りの岬公園に立ち寄った。

 ずっと火照りっぱなしの体を冷ましたかった。

 海から吹き抜ける潮風が心地いい。


 私を包み込み、そして流れ行くこの風はどこに向かうんだろう。

 耳に風を切る音がした。

 懐かしい音。ごぉうっと聞こえる。


 走らなくともこの音を聞くことが出来た。――――でも何かが違う。

 走ることはもうやめた。やめたんだ。

 好きだったことをやめる。……諦める。


 哀しみよりも、悔しさの方が先に出てくるのはなぜだろう。

 あふれ出す涙。



 風は流れく。


 私の体と心をどこか遠くへ……いざなうように。

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