落下の君

絵空こそら

落下の君

 田雲さんが死んだ。

 その時僕は塾で夏休み最後の授業を受けていた。今夜は夏祭りだし、明日から学校なのになあと気乗りせず、シャーペンを回すばかりであまり集中できなかったのを覚えている。

 死因は転落死だったそうだ。葬儀の時、棺は開けられなかったから、本当に中に彼女がいるのか疑いたくなった。今にも、お坊さんの読経を邪魔しないようそっと部屋に入ってきて、小声で「やってんねー」などと言って、僕の隣に座りそうだった。

 参列した人はみんな泣いていた。当然だ。田雲さんは誰からも好かれていた。そして彼女は、誰のことも好きではなかった。どうでもよかったのだ。それを知っていたのはただ僕と、もう一人。そのもう一人は、葬儀に呼ばれなかったし、来なかった。

 学校が始まったけれど、僕はなんだか気の抜けたまま日々を過ごした。屋上に行ってももちろん彼女はいない。不思議で仕方なかった。もともと現実感のない人だったけど、いなくなってもなお現実感がない。もしかして本当は存在していなかったんじゃないか。そんな空想がまかり通るくらい、彼女の残した印象は薄い。彼女のことが大好きだったはずのクラスメイトも、思いのほか早く悲しみから立ち直っていた。


 翌年の命日、僕は花を供えに行った。彼女が落下した場所には、新しく頑丈なフェンスが設置されていた。何も知らない子供たちが、フェンスの隙間から、花火が上がるのを今か今かと待っている。

 人混みから少し離れたところにその人はいた。嬉野陽子。田雲さんの親友。田雲さんと真逆の人。田雲さんと最期に一緒にいた人。

 彼女は僕の視線に気づくと、動じることなく睨み返した。その鋭さは記憶の中の彼女そのままだ。僕もじっと彼女を見つめた。花火が上がった。


「安直な感想ね」

「こちら、嬉野陽子」と田雲さんに紹介された時の第一印象は、「嬉しそうでも陽気でもなさそうな人」だった。もちろん、そんなこと一言も漏らさなかったが、嬉野さんは切れ味のいいナイフみたいな目をしてそう言った。

「何も言ってませんが」

「もう何百回も言われたから知ってる。嬉しそうでも陽気でもないって言いたいんでしょう。悪かったわね、栞との昼食を邪魔して」

 悪かったなんてひとつも思ってなさそうな声だ。なぜこんなに傲慢な言い方をするのだろう。苦手なタイプだと思った。

 僕は自己紹介をするのも嫌で、黙っていた。そんな険悪な僕らを田雲さんは興味深そうに眺めて、「こっちはトオル」と軽く紹介した。

 僕と田雲さんはいつも屋上で一緒に昼食をとっていた。彼女とお昼ごはんを食べたがる友達はいっぱいいたのに、なぜか彼女は僕を選んだ。彼女が屋上から下の植え込みを撮影しているとき、投身自殺と勘違いした僕が、必死に彼女を止めたことがきっかけだった。

 彼女は授業中以外はいつも小型のカメラをぶら下げていた。撮るのは高所から見下ろした地面の写真ばかり。その写真は、彼女の「落ちる」場所候補だった。といっても、前述したように、彼女に自殺願望はない。

 幼いころ、彼女は旅行先でヘリコプターから落下した。4歳のときだ。背中が海面に叩きつけられるまでの一瞬に彼女は恋をした。手を伸ばしても空気しか掴めない虚しさ、鼓膜を揺さぶるごうごうという音、胃の腑の浮くような感覚、遠ざかる青空の美しさ。幸い後遺症はなかった。彼女はつるりと綺麗な身体のまま、人間としての感覚が一つ、抜け落ちていた。

 だから彼女には人間臭さがなかった。僕らの時代にありがちな、承認欲求や、反抗的な態度、スクールカーストに関連する計算、それを隠そうとする作り笑いすらも、彼女にはなかった。その純粋な明るさにみんなが恋をした。でも、そんなこと、彼女にはどうでもいいことだった。

 彼女はあの時の空気の手触りや、頭の中で鳴った警鐘ばかりを追い求めていた。ヘリコプターの事故以降過保護になった母親は、落下する危険性のあるものを徹底的に排除し、彼女に近づけさせなかった。母親の方針に従う代わりに、彼女がいつも眺めているのは『世界の絶景100選』のような、山だの建物だのの写真集で、そこから落ちる想像ばかりしていた。カメラを持つ意味も同じだった。母親に隠れてシャッターを切るとき、彼女はそこから自分が落ちていく姿を見、あの時の震えるような感覚を呼び起こしては、にやにやと笑っていた。

「いつか高い場所で暮らそう。洗濯物を干すとき、うっかり落ちたって、後悔しない」

 いつだったか彼女はそんなことを言った。物騒な内容とは裏腹に、屈託のない笑顔だった。


 一方、嬉野陽子は、田雲さんとは真逆の人間だった。プライドが高くて、人を見下したり、攻撃したりするような言動ばかりをしていた。そんな彼女の毒気や自尊心の痛さを煙たがって、彼女に近づく人はほとんどいなかった。

 彼女らがどういう経緯で親しくなったのかは知らないが、田雲さんのことに関しては、彼女も自惚れてはいなかった。僕と同じように、たまたま彼女の目に留まっただけだということを、ちゃんと理解していた。僕らは目だけでお互いを牽制しあった。


 あの日、嬉野さんと田雲さんは連れ立って夏祭りに出かけた。眺めの良い高台まで来て、花火が上がるのを待っていた。田雲さんはおもむろにカメラを構えて、下の景色を撮ろうとした。その時、老朽化したフェンスがひっくり返ったのだという。弾みで、田雲さんはあっさりと夜の空に投げ出された。

 始業式の日、嬉野さんは学校を休まなかった。それどころか卒業までの半年を、皆勤で迎えた。彼女は都内の大学に進学し、それ以降会ったことはなかった。


 花火が終わると、高台にいた人たちは徐々に姿を消していった。後には睨みあう僕らだけが残された。

「変わってませんね」

 僕は言った。出そうと思っていたものよりも、冷ややかな声だった。

「何してるんですか」

 彼女は好戦的な目のまま口の端を上げた。

「答える必要ある?」

「大学ではうまくやっているんですか」

 僕はわざと質問を続ける。彼女は目を細めて、全然違うことを言った。

「あんたもあたしが栞を殺したと思ってるのね」

 僕が黙ると、彼女は自嘲的な笑みを濃くした。

「そうよ。栞を殺したのは私。あの時、フェンスに寄っかかったのは私だもの。栞は私を助けようとして、代わりに落ちたのよ」

 詳細を知るのは初めてだった。彼女は笑みを崩さない。

「可哀想にね。栞も、ほかの人も。残念ながら生きているのは私。惜しまれながら死んだあの子じゃなくてね」

「……田雲さんはそんなこと思ってないと思いますよ」

 彼女から表情が消えた。

「なんであんたがそんなこと言えるの」

「田雲さんはあなたが好きだった」

「去年から一年多く勉強してるくせに、馬鹿になったの」

「田雲さんはあなたが好きだったんですよ」

「……だから何?」

 彼女はもう一度口の端を上げる。こんなに暴力的な笑顔を、僕は見たことがない。

「誰が死のうが関係ない。私は私一人で生きていく。私みたいなのが生き残って悪かったわね」

「嬉野さんの写真がありました」

 はっと息をのむ音がきこえた。

「田雲さんは景色以外撮りませんでした。被写体は必ず地面か建物だった。友達に頼まれても、絶対に人物は撮らなかったんですよ。彼女は死んでもいいと思える場所しか、フィルムに収めなかった。それなのに、あなたを写真に撮ったんだ」

「そんなの、誤作動か何かでしょう」

 僕は頭を振った。鞄からクリアファイルを取り出す。

「これを見ても、そう言えるんですか?」

 木の枝に引っかかって奇跡的に無事だった小型カメラ。僕はそれを、秋になってから見つけた。葉が落ち始めた細い枝に、見覚えのあるストラップが絡まっていた。僕は夢中になって木に登った。

 家のパソコンに繋ぐと、ちゃんとデータは残っていた。やはり田雲さん以外にはなんの面白味もない、足が竦みそうになる写真ばかり。最後の一枚だけ、テイストが異なっていた。

 

 嬉野陽子は震える手で写真を受け取ると、小さく息を漏らして顔を歪めた。

「盗撮じゃない」

 写真の中の彼女は、夏祭りの喧騒の中、滅多にみることのない楽し気な表情を浮かべていた。長い黒髪と制服のスカートが風に靡き、提灯のあかりが幻想的に照らして、極限に美しい一瞬がみごとに切り取られている。田雲さんは意外にも、人物を撮る才能があったのかもしれない。いや、そうではなくて、被写体が彼女だったからだろうか。

「綺麗ですね」

と、僕は言った。

「田雲さんにはあなたがこんな風に見えていたんですよ」


 勉強を教えてほしい、と頼まれた時から、変だとは感じていたのだ。

「だってハズイじゃん?今更基礎もわからんとか。トオル教えるのうまそうだし」

 なぜ一学年下の僕に勉強を教わりたいのか、よりも、なぜ彼女が突然勉強する気になったのかということが疑問だった。

「行きたい大学があるんだよね。今からじゃ無理かもしれんけど、一応頑張ってみたい」

 嬉野陽子の写真を見た瞬間、あの時の田雲さんの笑顔が蘇ってきた。照れたような笑い。

 謎が一気に解けた気がした。そして、僕の腹の中に急激に沸き上がってきたのは、今まで経験したことのないくらいの嫉妬だった。


「あなたが嫌いです。でも、田雲さんはあなたのことが好きだったんだ」

 僕はどんな顔をしているのだろう。わからないけど、睨み返す嬉野陽子の瞳は、刃こぼれしたように鋭さが鈍っていた。

「死なないでくださいよ」

 遠くで花火の音が鳴っている。違う場所でも、夏祭りをやっているのかもしれない。

「あの人のぶんまで生きろとは言いません。でも、後追いなんてやめてください。それじゃ、あの人が浮かばれません」

 彼女は黙っていた。どんどんっという花火の音だけが、微かに空気を揺らす。

「はやとちり」

 彼女はもう一度口の端を上げた。でも、無理やり引き上げたという感じは、もうしなくなっていた。

「死んだりしないわ。物心ついた時からすべてのことが気に入らないの。あの子がいない現実も、気に入らないことが一つ増えただけなのよ、私にとっては。だから平気。あんたなんかに心配されなくても、ちゃんと生きるわ」

 彼女は強い瞳をして、凛と立っている。こういうところに、田雲さんは惹かれたのかもしれない。

「これ、貰っていいの」

 彼女は両手で写真を持ったまま小さくきいた。僕は頷く。彼女は微かに笑った。

「ありがとう」


 彼女が去った後も、僕はしばらくその場に留まった。

 花を供えて、手を合わせる。顔を上げると、フェンスの向こう側には、煙った空が薄く広がっていた。祭りの余波のようなさざめきと、遠い花火の音が響いては、夜空に吸い込まれていくようだった。

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落下の君 絵空こそら @hiidurutokorono

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