参拾伍)人と、ヒトと猫の縁の事3
「よーし」
暗いリビング、1人の男が立ち上がった。
提督・ナポレオン
――かつて、そのような名で呼ばれた男だ。
彼は、彼の代名詞のような帽子を丁寧に頭に被り、腰のサーベルを確認した。
出陣にあたって、声が弾む。
彼は少しだけ笑みを湛える。嬉しかった。
再び大戦の指揮を執ることが。
戦争という行為が彼の精神を高ぶらせる。
「いくか」
戦争をしに向かうにしては、あまりに軽い口調。
表情は笑っている。
まるで、すべてを愉たのしむかのように。
「吾輩の辞書に不可能はない」などと言ってのけた人物は、吸血鬼になろうとあまり変わらない。
どこか少年のようなあどけなさを持つ、男だった。
🦇
ここで、ひとつ確認しておくことがある。
彼らの残存兵力のことだ。数は、重要だ。
彼らはおよそ1000の兵を率いて、欧州の港を出発した。そのとき5艘の船に分かれて乗船し、その5艘すべてが港に辿りついている。ゆえに1000の兵士がこの日本に揃っているかと言われれば、そうではない。少し前に、女王の招集に遅れ処分された者や、りゅうや沖田によって消された者も存在する。
その数が10体ほどであった。
勿論この数には、女王と5人の部下は含まれない。
では、990体とプラス6人の吸血鬼が日本に来ているのか。
この答えもNOだ。
女王は急ぐと言い、自ら船を持ち上げ、海面を蹴って飛んだ。
そのために、有り得ない速さでの開戦が実現してしまったのだが。
開戦を実現するためのスピードは、女王の力だけではない。部下の力も言うまでもないほどに必要だった。全員を運び届ける大切な目的があったのだから。
そのため彼らは、恐ろしい作戦を決行した。
黒いローブの部下・吸血鬼は、水面を蹴り、自分の身一つでの移動は可能だ。
だが、船を持ちあげ、海面を蹴り、進むことはできない。
持ち上げるという動作のうちに彼らは海に沈んでしまう。また海面を蹴って進んだ後、そのまま海面に立つことも、もう一度大きく跳躍することもできない。つまり、持ち上げて進むことは彼らにとって難しいことだった。
ならば、どうしたのか。
持ち上げる者と、飛ぶ者を変えればいいのだ。
船を高く投げ上げる者。
海面を蹴って運ぶ者
船を持ち上げる者は、すぐに日光と海水で灰となる。
船を運ぶ者は、着水の時に全身が水に沈み死ぬ。
一度の跳躍で2人の犠牲を伴う作戦。
それを決行し、日本へと辿り着いた。
5艘の舟はそれぞれ5度の跳躍で済んだが、犠牲になった吸血鬼は50にもなった。
つまり開戦時に存在していた数は、940。
数は、とても重要だ。
この数から、サン・ジェルマンたちは、100を率いて戦いに赴いた。普段から、10人ほどをラスプーチンは手駒として使っている。
女王もまた10人を手元に置いている。
940-120=820。
残りの820を使えるのは、彼しかいなかった。
国を率いて戦った英雄ナポレオン・ボナパルト――彼しかいなかった。
彼が家を出ると820もの大軍が瞬時に空に飛びあがった。暗き闇夜を、絶望的なまでに深い黒へと染そめる大軍。
本当の戦いは、ここから始まる。
🈟
ぽたり、ぽたりと血が落ちる。
「ぐ……」
痛みと苦しさに悶えながらも、急に、背筋に寒気を覚えた。
恐ろしい気配を感じて、空に目を向ける。
空を覆い尽くすような黒。黒。黒。
黒い夜を何倍も濃くしたような闇に、赤い目がいくつも瞬いている。吸血鬼の大軍が、全軍を率いて向かって来たのだと思った。どうにかしたいが、この目の前の敵を倒さぬ限りは、どうにもならない。
腹に刺さったまま剣――動くこともままならない。
「……」
ジル・ド・レの手がいやらしく刃を捻った。
ぐちゃり――と血肉が嫌な音を立てる。
「があッ!」
「フフフ……」
猛烈な痛みが走る。
足にも力が入らなくなってきていた。
が、腹に刺さった剣に、気力で立つしかない。
奴は無表情に、サディスティックに、人の傷を抉る。
かつて、聖女ジャンヌ・ダルクと共に戦った騎士でありながら、悪魔信仰に身を落とした男。そのやり口は非情さに溢れている。さっき京香を襲った手口もそうだ。物陰からの不意打ち――あれは、あまりに卑怯で、卑劣だ。
だが、この体験したことのない、痛み。
俺は、どうすることもできずにいる。
ジル・ド・レ――こいつにされるがまま、殺されるしかないのか。
しかし、例えこれに殺されずとも、空を覆わんばかりの吸血鬼に襲われては死ぬしかないだろう。目算では数えられない量の大軍に、勝てる気がしない。
どちらにしても死ぬのだ。
どうせ戦っても、無駄だ。
思考は次第に黒く染まっていく。堕ちていく。
刀を握ることも諦めてしまおうとしていた。
「諦めてんじゃねえ。それでいいのか!」
「!」
後ろから声がした。
玉城豊の剣が、俺とジルの間に振り下される。
カン――というキレイな音と共に剣は折れ、ジルは後ろに飛び退いた。
深紅の剣は、斬り口から白い灰へと変わる。
「トシ……なんで」
血がとめどなく溢れた。
ボタリと量の増した血液が地面に零れる。
「ゴフっ……」
栓になっていた剣が外れたためだ。
くらりと意識が遠くなる。
「京香は、大丈夫なのか?」
「ええ。大丈夫ですよ」
「本当か……」
「もちろん、嘘なんか吐くかよ」
その声は、力強い。
相棒の声。150年の時が経とうとも、彼は隣にいたのだ。
共に剣を取り、京へと渡った土方歳三の魂が。
「そこで休んでてくれ。これは、俺が片付ける」
「……」
「あんときは、守れなかったからな」
あのときの、情景が蘇る。
新撰組の屯所となったあの場所で、俺は投降を決めた。
それを必死に止めようとしたのが、土方だった。彼の言を無視し、俺は投降し斬首されたのだが。
だから――と彼は言った。
「ここでは俺が守るよ」
刀を抜き、ジルに斬りかかる。
血のせいか、目蓋が重い。
しっかりとは見えない。
だが、それでも見事な土方歳三の剣筋だけは見てとれた。
恐ろしい速度で繰り出される剣戟に、腹の痛みはいつしか消え、何よりも興奮が勝る。
敵は、次第に押され始めている。
片手で剣を捌くのは大変だろう。
片手で?
「――」
考えるよりも体が動いていた。
腹の傷を抑えながら、駆け出す。
「おおおおおおおおおおおおおおお!」
敵の左手、そこに赤い血の刃が生えていた。
それを、何よりもと、俺が弾き飛ばす。
同時に、豊が右手の防御を崩す。
「近藤さん!」
「トシ。今だ」
2人の刀が敵に突き刺さった。深々と。
刀剣は敵の背から突出し、瞬く間に敵を灰へと変える。
土方と近藤の戦は、ここに終わった。
「ぐ……」
倒れかける俺を、彼が抱きかかえる。
血が口からも腹からも零れる。
「大丈夫……じゃないですね。歩けますか?」
「どこに行くんだ?」
「近くの家ですよ。救急車を呼ばないと……」
「こんなのが行っても大丈夫なのか?」
俺の今の見た目は、重大事件の被害者だから。
すると、彼は変な顔をした。
「この街には、幕末の偉人の生まれ変わりが結構多いらしいですよ」
「……」
改めて、
しかし、京香。
オマエは、大丈夫だろうか?
□□□
私たちは走っていた。
空には、吸血鬼の大軍。
あれに襲われたらと思うと、足がすくむ。
「キョーカ、気にせず走れ」
「分かってるよ」
汗が首筋から背中に流れ込む。
ずっと走っていた。
もうどこが痛いのかも分からないし。
どこが痛くないのかも分からない。
でも、テンションは上がっている。
ランナーズ・ハイってこんなものなのかなと。
おかしな思考状態になっている。
ハハハ。
笑っちゃいそうだよ。
もう顔は、変にニヤけているはずだ。
「大丈夫か?」
「んっ、もう、余裕過ぎて――笑いそうだよ。フフフ」
「笑うの?」
「いや、楽しいね。何か走り続けるのが、本気でハッピーだよ。ランナーズ・ハイだよ」
「走りすぎておかしくなってるな。それはもうランナーズ・ハイっていうレベルじゃないよね、それ?」
そんなこんなをしている間にも、後ろの黒は近づいている。
だが、あと少しで町長の家までという距離でもある。
ラストスパートだ。
精神も身体も満身創痍だけど。
「マタさん、そんなこと言わないで。笑わせないでよ」
「もう休もうとは言えない状況だけどさ。少し落ち着いて」
「ぐっ、ぐふふ」
恐怖とハイテンションがおかしなマリア―ジュを醸し出そうとしているとき、私の後ろに一つの影が現れた。変な帽子を被った小さなオジさん。
あまりの急なことに足を止める。
「京香!」
「……」
「敵だ」
これが話にきくナポレオンだとすぐに分かった。
本当に絵の通りの外見だった。
背も、低いなー。
でも、なんだろ、急に止まったからか、苦しい。
心臓が破裂しそう。痛い。痛い気がする。
「御初に御目にかかる。我が名は、ナポレオン・ボナパルト」
「……、……」
心臓の鼓動と吐く息の音がうるさくて、しっかりと聞き取れなかった。
彼はなんと言ったのだろうか?
もう何も余裕がない。
「京香?」
「その猫、渡してもらえぬか?」
「………………」
ん? 今も、なんて言ったんだろ。
まったく、分からない。
そんなときは、こう言うのに限る。
「……ごめんなさい」
そう言うと、彼は右手を振り上げた。
後ろに控えていた闇が私たちに、波のように襲い掛かる。
「ええっ! なんで?!」
「オマエ、ヤツがなんて言ったか、聞いてた?」
「まったく」
「猫を渡せと言ったんだぞ」
それは見事な交渉決裂だったようだ。
交渉の「こ」の字もない。
だが、御蔭でこのザマだ。
「あそこに辿りつく前に、死んじゃうかな?」
「たぶん」
そう言いながら走る。
途中、2つの影を追い抜いた。
道に立ち尽くす2人。
こんな夜なのに?
一瞬、誰か分からなかったが、立ち止まり振り返る。
「!!」
知ってる姿だった。
涙があふれる。
2人とも手には、武器を持って。
「昂作! モミジ! なんで!?」
「ん? 理由はみんなと一緒だよ」
昂作は、腰に刀を差していた。
「みんな?」
「この町のミンナとだよ、キョーカ」
モミジは長い柄の持つ武器を持っている。
2人は、そこを動こうとしない。
「俺らが敵の足を止め、2人の道を作る」
「全力でね!」
「奇兵隊、2人を守れ!」
昂作の叫びと共に、私たちを先導するかのように周りに人影が現れた。
昂作の家の近所に住むオジさんやお兄さんたち。
「みんながお前を守る。だから、走れ!」
「キョーカ、頑張りなよ。まだ沖田さん、紹介してもらってないんだから」
「まだ忘れてなかったんだっ?!」
「アタシの恋もまた、戦ってね」
2人は、敵に向き直る。
昂作は、ゆっくりと手元の音楽プレーヤーを操作する。
モミジはその長い武器を軽々と振り回し、構える。
「高杉晋作が生まれ変わり、杉並昂作――参る」
「西郷隆盛が生まれ変わり、西野モミジ――参る」
2人が戦っているのだ。
私は、無事を願いながら、走り出す。
勝つために。
私は、私の戦をするしかない。
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