弐拾玖)死にし子ら、敵と出逢う事2
「斬るッ!」
沖田さんの本気。
維新の剣豪の本気は、何度見ても怖い。
ゾクゾクとした寒ささえ覚える。
その鋭くも美しい切っ先に触れたものは、すべてがスッパリと斬り落とされる。固い木の襖ですら、まるで厚紙で作られたジグソーパズルそのものだ。瞬時にただのカケラと化した。
その剣が、突きだされる。
「沖田総司?」
小舟と名乗った人物が聞き返す。
声のもとに、切先が向けられる。
「本当に?」
「ええ、その猫のせいで生き返ってしまっただけです。だからこそ、その猫が煮ようと焼かれようとどうなっても構いません。ですが、その子が、巻き込まれるのは――許しません」
「……」
「殺しますよ」
しかし、その小舟はまったく動じない。
強い男であることを知ってなお、まったく動じていない。
それどころか小舟さんの目は、より挑戦的な鋭さを帯びていく。
歴戦の猛者・沖田総司の剣を前に、異常な態度だろう。
それはこの人もまた強いということだ。
「だが」
急に打ち破られる、静寂。
横にいた神父が剣を掴んだ。
親指と人差し指だけで、日本刀の薄い刃を。
「俺を忘れるな。キサマがケンカを売ったのだ」
「クッ」
沖田さんの表情が急に強張る。
必死に剣を引き抜こうとするが、その刀はまったく動かない。
2本の指だけとは思えない、有り得ない力だった。
沖田さんが全体重をかけて引いているだろうに、刀はビクともしない。
神父姿の彼のどこに、それだけの力が詰まっているのだろう。
「キサマも騎士ならば、俺も名乗ろう。名はブラム・ヘルシング。エクソシストだ」
「騎士ではない。侍だ」
「サムライ――この国の騎士だと聞いたが……また調べ直さねば。しかし、オマエはひとつ忘れている。この俺が吸血鬼と戦う男だということだ」
「!」
沖田さんが驚いたように見えた。
その直後、彼は後ろに吹き飛んでいた。
代わりに、ブラムという人が足を振り上げて片足立ちになっている。
「な……」
何が起きたんだろう。
いや、彼の格好を見れば明白だ。
ただの蹴り。強烈なキック。
「――」
叩きつけられた沖田さんの口から空気が漏れ、ぶつかった壁にはヒビが入る。
「く……」
「素早く後ろに身を躱したか。今ので腹が破けてもおかしくなかったのだ。動きは褒めてやろう」
彼は、ゆっくりと沖田さんの方へと進む。
ゆっくりとした歩みが逆に恐ろしい。
「しかし、剣を置いて行くのは、騎士とは言えん」
「――」
剣を拾い、沖田さんに突きつける。
形勢は逆転してしまった。
「沖田!」
「猫又、覚悟してもらいますよ」
小舟さんは、着物の袂から御札を取り出していた。
不思議な紋様と小難しい漢字の描かれた呪符というものだ。陰陽師だという彼の持つ妖怪封じの札であろう。
普通ならば、何の感情も抱かなかったはずの御札に、今の体は命の恐怖を感じる。
「これで終わりです!!」
「待、て……」
沖田さんの声がする。
聞こえにくく、くぐもった声。
蹴られたせいで、お腹に力が入らないのだろう。
「その猫に……手を……出すな」
「何を言うのです」
「吸血鬼退治に来たんですよね……なら、それを殺すべきではありませんよ。その猫には価値がある……」
「どんな?」
陰陽師は、首を傾げる。
「ぐふッ……」
沖田さんの口の端から血が漏れていた、
「おい。死ぬか喋るか。はっきりしろ」
「その猫は……。吸血鬼に狙われているんですよ。それを生かしておけば……」
小舟さんは、呪符を袂に仕舞った。
彼の可愛い顔から、険しさが抜ける。
「それで、僕らを丸め込むつもりですか?」
「なん、だと……」
小舟は、笑う。
女の子のような微笑み。
「僕らはプロですよ。そんなことがなくても戦えます」
「……」
家の中が凍りついた。
沖田さんを圧倒する力。
その脅威から逃げ切れるのは、マタさんだけだろう。
私も、傷を負った沖田さんにもどうすることもできない。
その代わりに、マタさんは、私の前で敵に立ち向かっている。
立ちはだかってくれている。
逃げずに、戦ってくれている。
どうにかしなくちゃ。
でも、どうすれば。
このままでは私を含めた3人が消される。
父は悲しむかもしれないけど、町は守られてハッピーエンドなんだろう。
それもまた正しい道なのかもしれない。それは、あまりに物悲しいことじゃないのかな。
私は、たしかに死んでいる。
それが正しい道に、戻るだけのことなんだ。
もう済んでしまったことだ。
終わってしまったことだ。
そうやって考えないようにしてきたけど。
でも。
でも。
押し込んできた気持ちが毀れた。
堰を切ったように溢れ出した。
「……たくない……」
「なんです?」
陰陽師が聞き返す。
「消えたくないです……」
「でも、キミはすでに死んでるのでしょう?」
「それでも、ヤです」
本当なら、もっと生きたかった。
もっと父や友達と一緒にいたかった。
私の無念。
私の後悔。
私の憧憬。
私の望み――
純粋で、当たり障りのない希望。
「もっと、生きたかった」
私は、泣いた。
どこかマタさんに遠慮してきた。
沖田さんの手前、ワガママは言えなかった。
こんな一言すら――
「死にたくなかった」
そんな言葉すら、言えなかった。
本当は口が裂けても言ってはいけないんだ。
事故の原因になったマタさんの前では。
ずっと死ねずに耐えていた沖田さんの前では。
しかし、堪えきれず溢れてしまう。
涙も。言葉も。
「もっと生きて、恋もして、仕事もして、子どもも生まれて――お母さんに負けないくらいにいい母親になって、その子が家庭を持って、孫ができて長生きして……そんな普通の人生を生きたかった。生きたかった。もっと生きたい……もっと」
「ですが、貴女は」
「そんなことは分かってるよ。運の悪い事故だって分かってる。私は、ここで何も出来ずに消されるんだって――でも、だからこそ、言いたいこともあるよ。もっと生きたかったって、そんな願いくらい……言わせてよ……」
「京香」
マタさんが振り返る。
「ゴメンな。せめて、一緒に消えてやる」
「俺もです。せめて、最期まで戦ってみせます」
「マタさん、沖田さん……」
そんな空気になっても、2人の退魔師たちの空気は微塵も緩まない。
ずっと張りつめたまま、ピリピリとして、死の臭いすらする。
さっきからそれに加わることをしないもう一人を除いて。
張りつめた空気が、居間に漂い続けている。
沖田さんの傷は回復し、刀を奪い返そうと構え、かたやマタさんも2本の尻尾を立てて威嚇する。
だが……、それを破ったのは、
――ピンポン
という玄関のチャイムだった。
一度は無視したものの、またチャイムが鳴らされる。
――ピンポン。
『……』
誰も何も言わない。
父が静かに手を上げる。
「……あの、出ても?」
「いや、ダメですよ」
小舟さんに、さすがにツッコまれる。
たしかに、こんだけピリピリしてるのにそれはない。
私の涙も引っ込んでしまう。
だが、また、ピンポンという玄関のベル。
「無視です」
ピンポン
間髪入れずに、次が鳴る。
そして、それからすぐに連打される。
ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン……
喧しいくらいの連打。
「もう……出てください」
小舟さんが折れるのに、そう時間は掛からなかった。
客を帰すように小舟さんに言われ、父は玄関へと向かう。
私たちは客に気づかれないように静かにするように命じられた。沖田さんは奪われた刀を突きつけられ、私たちは小舟さんが睨みを利かせている。どうすることもできない。声を上げたら最後、私たちは消されるだろう。
だが、玄関の方で父は喚いている。
新聞の人だろうか? 結構ねばっている。
そんなことを考えていると、また、
「ちょっと、勝手に」
と声が聞こえてきた。
もう閉めることのできない戸襖の向こうから、見たことのある顔が覗いた。
1度だけ見たことのある、顔。
それは、あの日の――
「大変なことになってるな、冷たい嬢ちゃん」
タクシーの運転手、中田真司さんだった。
中田さんは、家に上がり込んできた。
火が付いた煙草を指に挟んだまま。
さすがの父親も煙草くらいは止めるべきだったのではないだろうか。
そして、手の中のそれも。
茶色の毛並みの彼が、尻尾を全力で揺らしているじゃないか。
「わん」
確か、りゅう君だっけ……
なんでという疑問は、口から出てこない。
あまりに急な、意外過ぎる人物の来訪に意味が分からずにいた。
ここに人質とかもいるんだけど、あまりに堂々としすぎていて、何も言うことができないように感じる。
「えっと、君らが吸血鬼退治に来た人たちだな」
「何故、それを。そんなこと、本部の人間しか……」
土御門小舟は、タクシー運転手の言葉に狼狽える。
「本部か。君は日本の人間だろ。なのに、信じるのはそれだけか? なあ、陰陽師?」
「!?」
小舟が驚いて、目を見開く。
一介のタクシー運転手に、何を知られているんだという焦りと、中田さんに正体不明の恐ろしさがあったんだと思う。小舟の手が少し震えている。
けれど、私はその気持が分かる。
私のことを一目で「冷たい」と言ったあの人は只者ではないと知っている。
「コブネ、ヤれ」
「うるさいぞ、エクソシスト。俺たちは悪魔じゃないぜ」
「キサマ……」
彼は、それをすべて見抜いていた。
「だから、ほれ」
中田さんがしゃがみながら、床に「りゅう君」を放す。
そしてテーブルの一番近い所へ、座布団を敷いて座った。勝手にではあったが、それはとても自然だった。こんな空気の悪い中で中田さんはあまりに自由すぎる。
どんな心臓をしてるんだか。
それに助けられてはいるけど。
「みんなも座れ。ここからは大切なお話だ!」
りゅうは、みんなの足元をちょこちょこと一周して、中田さんの足元に乗っかる。
そうすると、彼の手がちょうどテーブルの上に乗る高さになった。コーギーの短い前足が食卓にちょこんと乗っかる様子に、空気が少し緩む。
戦いの気配は、すぐに雲散霧消。
今までの空気は、何だったのだろう。
小舟さんとブラムさんの肩の力も、スッと抜ける。
沖田さんと父が、居間に入り着席した。
退魔師の人たちも続く。
「あなたは――」と小舟は震えている「何者ですか?」
「俺は、タクシー運転手の中田真司だ」
「タクシー運転手? そんなわけが……、そんな奴が私たちの情報を知っているわけがない」
「いやいや、俺『は』って言ったろ」
「俺は? どういうことですか」
小舟の比較的小さな拳が、机をダンと叩く。
すると、その音に次いで、
「うるさいな」
と誰かが言った。
誰だろ? と考えつつ、ここに来て喋っていない退魔師の1人の方を向く。
ここに来ても彼は一言すら発してないからだ。
私たちは彼の声を知らない。
3人の目が一斉に彼を見たが、本人は顔の前で手を振る。
「いや、違う」
その最初の一言とは、まったく違う。
彼の声はとても爽やかだが、あの声はとても可愛らしかった。
「オレだよ」
「?」
中田さんを覗く全員の首が傾くと、『彼』もまたテーブルを叩いた。
拳ではなく、さらに小さな手で叩くテーブルの音はトンという優しい音がした。
「オレだよ。テーブルを叩くんじゃないよ。ニンゲンよりは耳も良いし、耳が近いんだから」
ワン。
そう、犬が吠えた。
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