弐拾弐)不器用な父、娘の死に気づきし事5
家の一階の奥、台所の横の部屋。
その和室が母の部屋だった。
正確には夫婦の寝室だった部屋だけど、父は工場の方に自分の仕事部屋を持っていて、自分の物は基本的にそっちに置いていた。なので、ここはほとんど母の部屋だった。
鏡台やミシン、衣装ダンス……母のいた匂いがまだするような気がした。
鏡台の上には、ホコリが今も一切積もっていない。
「ホントにキレイになってる」
化粧品の瓶は、残しておいてもしょうがないだろう。
長い間放置すれば劣化して品質が下がる。捨ててもいいのかもしれないけど、これを捨てたら――母親の思い出の一部を自ら切り離すようで怖い。
たぶんそれは、父も同じだったのかもしれない。
裁縫道具もタンスも。
キレイにはなっているが、そのままだ。
しかし、片づけているなら、なおさら疑問は募る。
「なんで、家を売るなんて……」
哀しくて仕方がない。
母の服。
母の本。
母の香り。
それが残っている家なのに。
あの人は、何がしたいんだろう。
「何が……」
考えるとイライラしてくる。
悲しいとか、悔しいとか、そんな感情のすべてを吹き飛ばすような怒りが再燃する。こんなことでは眠れる気がしない。少し落ち着かないといけないみたいだ。
でも、家出だけじゃ足りないような気もしてくる。
「おーい、キョーカ~」
「待て。オマエ」
台所の方からバタバタと足音がする。
大きいのは沖田さんの足音で、マタさんの足音はほとんどしない。
「京香は、感傷に――」
「大丈夫だよ、沖田さん」
「?」
「ちょっと今は怒ってるし、時間的にもおなかが減ってきた。さっさと何か食べて寝ちゃおうよ」
「……そうですね。そうしましょう」
沖田さんは少し困った顔になったけど、私と一緒に普通にご飯を食べた。
ご飯といっても、マタさんが他の家から拝借してきた(マタさん談)果物やお菓子を食べただけなんだけど。
「さあ、寝るか。あ、でも、京香はシャワーとかするのか?」
「シャワーは浴びたいけど……なにか問題があるの?」
「そう言えば、ガスを確認してないなと思って。ちょっとやってみてくれ」
「分かった。みてくるよ」
ガスのボンベと給湯器を確認する。
無事に火が付き、お湯が沸いた。
問題ないみたいだ。
軽くシャワーを浴びて(さすがに石鹸とかシャンプーはなかった……)戻ると、台所から2人の姿は消えていた。
……あれ?
「どこ行ったんだろ」
2人を探してみる。
ふと廊下の奥、居間に小さくマメ球がついているのに気付いた。
さっきまでは消えていたのに。
「マタさん。沖田さん。いるの?」
あ。
私は、2人を見つけた。
彼ら2人が「い」の文字を書くように眠っていた。
そっとして、眠らせておこう。
2人は私を心配してくれた。
とても感謝してる。
「私も寝よう」
□□□
いつの間にか、夜の12時を回った。
久しぶりの自分の家、自分の部屋なのに……。
「眠れない」
さっきからベッドの上でモゾモゾ。
何度も寝返りを打っても、眠くならない。
ベッドとはいえ、マットレスしかないけれど。枕もないし。
とても心地よく眠れる装備ではないよね。
「何か飲み物とかあったかな」
私は静かに階段を降りて、台所に向かった。
途中で居間を覗いて見たが、2人は向かい合ってぐっすり眠っていた。
台所にはお茶っ葉の缶があった。急須もある。
お茶を飲もうと、お湯を沸かす。
やかんがガスの火の上でカタカタと震えた。細い注ぎ口から白い湯気が吹き出す。
沸騰した熱いお湯を、そっと茶葉の入った急須へと注ぐ。
甘い緑茶の香りが部屋中に広がった。
私は、それを母の部屋に持って行く。
部屋の灯りをつけ、母の持ち物を眺めながらお茶を啜る。すると、さっきは思い出せなかった母との思い出が徐々に思い浮かんでくる。母が私の名前を呼ぶ声も、私を叱る声も、褒める声も全てが鮮明に思い出されていく。
寂しい。とても。
でも、私は幸福だった。
私は、お母さんの子どもで良かった。
心の底から言える。
「京香」
母の声が聞こえた気がした。
キレイで、優しい声。
そして、それをかき消すように――
「京香!」
突然玄関の戸が開け放たれ、父の声が響いた。
そして、すぐに私のいる母の部屋に飛び込んできた。
声は掠れ、汗でシャツはグチャグチャに濡れている。
私を見て、彼は――目に涙を溢れさせた。
「京香ぁ!!」
「お父さん……なんで?」
グスグスと泣き崩れ、膝をつく父。
その姿はどこか情けないが、とても懐かしい。
そういえば、あの時も――
「京香、良かった無事で」
「どうしてここが分かったの?そんなに汗掻いて」
「京香が家を飛び出してから、俺も追いかけて家を出た。それでずっと走り続けていたんだ。ここに来てると思ったのは、偶然だ……ちょっと思い出したことがあってな」
目から涙を零しながら、父は少し微笑んだ。
父の笑顔なんて、久しぶりに見た。
「京香がまだ小さい頃だったよ。母さんは、その日、同窓会でいなかった。俺もその日、仕事で手を離せなくて、工場の方に京香が来ていた」
父の目は、遠くを見つめているようだ。
「京香はそこで悪戯をして、工場の仕事が止まってしまった。そのことで俺は、随分叱っちまったんだよ。仕事での焦りもあって、必要以上にな。そんなときも今日みたいに家を飛び出したのを思い出したんだ。もう忘れてるだろうけどな」
私は、じっとその言葉を聞いていた。
「あのまま、オマエがどっか行ってしまうような気さえして――自分自身も傷付いた。もう2度と悲しませたくないと思ったはずなのに。俺は、また失敗したみたいだな。京香が傷付くと思って、京香の悲しい顔が見たくなくて、悲しい思いをさせたくなくて、家を売るなんて言ってしまった……」
「お父さん……」
父に抱き着く。
ゴメン。
「ゴメンな。京香」
「お父さん」
私は、父を許ゆるす。
今の「ゴメン」という言葉で、すべてを思い出したから。
あの日の病室。
母の亡骸を前に、父は悲しみにくれていた。
顔には見せなくても、私の眼にはそう映った。
目頭を押さえ、零れ落ちそうな涙を必死にこらえていたのだろう。でも、泣かなかった。一滴の涙も落とすまいと顔をくしゃくしゃに歪めながら、私の肩を抱いてくれた。
母に2人で生きていくことを誓うように。
約束するように呟いた。
『もう京香を悲しませない。俺が家族を守る』
その手は、震えていた。
今も、同じように震えていた。
「私こそ、ゴメンナサイ」
父の肩は大きい。
私を支えてくれる。
これほど、ありがたいことはないのに。
酷いことを言った。酷いこともした。
「ごめんなさい」
「俺も、ゴメン。ごめんなあ……オマエの体――本当なんだな」
そう言って、また父は泣いた。
父の慟哭と嗚咽が家中に響いた。
「いつもゴメン……ごめんね」
「京香、俺より先に死ぬなんて――これで一人じゃないか」
2人は、家族になった。
あの日より前の、元の家族に。
「えっと……お邪魔しております」
父との大きな泣き声で起きた沖田さんが部屋に入ってきたため。
ちょっとした問題となった。
家出中の娘が、実家に男を泊めていると。
違うけど、違わないからな……。
あまり強くは言えない。
まるで子猫のように小さくなりながら、沖田さんは父の前に座った。
私は、沖田さんを弁護するように隣に座る。
……。
これではまるで結婚の挨拶に来たみたいではないか。沖田さんの弁明(は、余計にやりにくそうになってしまった
「オマエ、娘のいる家に入り込んで――何をしてるんだ」
「いや、お父さん、違うの」
「京香、まさかオマエの方が……」
さっきまでのムードは一変。
険悪な感じ。
「な、何を言ってるの、まったく。この人は、沖田さん!」
「はっ、そんなことは知らん。なんで、ここにいるんだよ」
「この前、警察に呼ばれた事件があったでしょ?あの時、助けてもらった人なの、その時の犯人が捕まってなくて心配だって言うから付いててもらってたんだよ」
「あの時の奴は、逃げて顔も見てないって――それに京香、オマエもそんなことで簡単に信じるんじゃない。男は狼だぞ」
「表現が古いって!!」
沖田さんが、混乱しながらも口を開く。
「お二人とも落ち着いてください。私は、そんなつもりではなくて、責任を取るためにこうして……」
言い方っ!
「セキニンって……どういうことだ!!」
「お父さん、何を想像してるの!そんなんじゃない!! 沖田さんもいらないこと言わないで」
そのとき、マタさんが部屋に入って来る。
猫又はホントに自由だ。
「うるさいな~。何してるんだよ、こんな時間に……」
「――ね」
お父さんの顔が固まる。
「ん? どうかした?」
「猫が喋った!!!!!!」
「お前もか。しかし、これはお約束らしいからな。しょうがない」
「……。マタさん、冷静すぎるよ」
「そうか?」
しかし、マタさんはスンスンと鼻を鳴らす。
何かを真剣に嗅いでいるようだ。
だが、私としては今がチャンスとばかりに説明する。
「ほら、化け物でしょ?猫又というの」
「……わけが分からん」
「さっき説明したとおり、私はこの子に生き返されてこうなったの。お父さん、本当に本当なんだよ」
「そうか……」
父は、だいぶ混乱しているようだった。
「まあ、でも、俺もこの力をすべて知っているわけではない。京香といっしょに能力の全容解明に努めるつもりだよ。だから、今のところはそっとしておいてほしいんだ」
「う……わかった……」
父は神妙な顔で喋る猫に頷いた。
その様子は、どこかおかしい。
「で、マタさんのこともバレたし、今度は沖田さんのことも聞いてほしい」
「ああ……もう、訳は分からなくなってるけど」
改めて、私は彼を父に紹介する。
「この人は、沖田さん。幕末の剣豪、沖田総司なの」
「よろしくお願いします」
父は笑う。
信じられないというか、バカにしたような笑い。
「いや、それこそない。見た感じ普通の人じゃないか。まるで……、どこかで会った気さえするよ」
マタさんは、ピョンと居間のテーブルに飛び乗る。
ニヤニヤと知ったような顔で。
「オマエが、それにあったことあるのは当たり前だ」
「どうしてですか?」
「?」
父も、まったく理解できない顔をしている。
私たち全員が顔を見合わせる。
分かっているのは、マタさんばかりだ。
「だって、ソイツは――近藤勇の生まれ変わりだからな」
「はっ?!」
「会ったことがあると感じるのは、当然だろ」
その場の全員が固まった。
誰も何も言わなくなって、数秒――
一番に動揺していたのは沖田さんだった。
マタさんに詰め寄る。
「どういうことですかっ!」
「いや、判別はなかなか難しいんだ。でも、ここらの人間をいろいろ見て回った結果として、たぶんそういうことだっていうことさ」
「推測じゃないですか……」
沖田さんは、ショックを受けているみたいだ。手に顔を埋める。
そんなのは父も同じだった。
ぼーっとしている。
「ほら、近づいて、向きあって名前を呼びあえよ。魂がもっとも大きく凛々しかった時の名を、さ」
二人は向かい合い名を呼んだ。
「総司?」
「近藤さん?」
父と沖田さんは、語り合う。
池田屋の事、
京都での事、
新撰組の事。
江戸での別れ。
始めは聞くだけだった父が、次第に自分も語り出す。
それは歴史を勉強したような言葉ではなく、まるで自分が本当に体験したかのような言葉の数々だった。
「今、分かった。思い出したよ」
「ええ」
父は頷き、沖田さんを抱きしめる。
沖田さんも子供のように泣いた。
この場で一匹、猫又だけが理解していた。
時が明確に進んでいることを、彼女の側で待つ意味を。
ここに、すべてが揃うその時を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます