弐拾壱)不器用な父、娘の死に気づきし事4
「どうしたんだ、キョーカ?」
「……」
目の前には病院。
白い外壁が夜の闇に浮かんで見える。
この街では、もっとも大きく、設備も整った病院だ。
朝には通院の患者が長蛇の列を作り。診察が昼までかかることもある。
ここは、母が最期に過ごした場所だった。
この場所を見るだけで、私にはいろいろなものが降り注ぐ。
「マタさん、ちょっと聞いてくれる?」
「ん?」
「お母さんの話」
「ああ」
マタさんが頷く。
それでも、私は少し言葉に詰まった。
母のことは、まだしっかりと整理できていない。
だからこそ、言葉にして整理しないといけない。
母のことを、言葉にして紡いでいかないと。
「あの窓の部屋だったんだ――最期にお母さんがいたのは」
マタさんは、黙だまって聞いていた。
眼前に広がる5階建ての病院。
その3階の窓のひとつが明るく光っている。
建物はL字型をしていて、真四角の土地の2辺に沿うように建っていた。開いた部分は広い駐車場になっている。
私たちが見上げる先にある、こちら側の2階から5階までが入院病棟となっていて、母がいた病室もそこにあった。
1番手前に、見える3階の窓。
カーテンが開いて、中から明かりが漏れていた。
蛍光灯の冷たい光が、夜を斬きり裂さくように光る。
「あそこは重病患者の病室が多いフロアでね。たぶん今日も……」
誰かが命の境界で戦っているのだ。
そこから、私は語り始めた。
ゆっくりと慎重に。
気持ちと頭を整理するように。
□□□
あの日、ここに来たのは昼だった。
2年前のとても暑い日、夏休みも近づいて浮かれ始めた学校に、1本の電話が届いた。すぐに病院に来いという電話で、私はすぐさま早退し、病院へと向かった。父親が病院にいるために、私は走って向かうしかなかった。
気温は30度を超える予報で、とても暑い。
いや、今はそんなこと関係ないのに。
要らないことばかりが頭の中に浮かぶ。
汗が滝のように流れる。
髪も服も水浴びをしたかのように濡れる。
それがどんなに気持ち悪くても、私は走り続けた。
早く病院に辿りつけるようにと。
病院に着き、母の病室の方を見上げる。
母の病室のカーテンは、いつものように少しだけ開いていた。
母はそこから外の景色を見るのが好きだった。最近はもう体を起こすこともできなくなっていて、外なんて見られなくなっていたけど。それでも、私も父も、毎日少しだけ窓を開けてあげていた。
駐車場を突っ切って、病院の中へと急ぐ。
入口をくぐると、強い冷房が吹きつけた。
汗のかいた体には、まるで真冬の北風。あっという間に汗は乾いて、体が寒いほど冷える。それでも関係ない。私はズンズン歩いて、3階の病室へと駈け上がった。
ドアの取っ手も氷のように冷たかった。
焦れば焦るほどに、
私の頭の中は冴えた。
「お母さん」
ドアをくぐる。
薬と人の臭いがした。
科学的な香りと、人が生きている臭い。混じり合って鼻から脳を揺らす。そのせいか、私は少しだけのまともさと余裕を取り戻した。
「お母さん」
呼びかけても、返ってくる言葉はない。
ここ数日は意識が混濁し、返事などできる状態ではなかったが、今日は特に静かだった。まるで、言葉を響かせる空気すら失ったみたいに。
母の周りには父も医師もいたのに、なんで今日はこんなに静かなんだろ。
たぶんそれは、人が死んだから。
人が死ぬときには、いろんなものがまとまって死んでしまうだろう。
周りにまとう空気や人の心も。
病室に飛び込んでからのことは、だんだんと記憶がなくなっていっている。
断片的なことしか、次第に思い出せなくなっていた。
まるで壊れてしまったデータのように、映像も音も飛び飛びで、取り出したい記憶も取り出せない。通常の頭では、再生できないように。
□□□
「京香」
とマタさんが呼ぶ。
「京香」
お母さんも――いや、これは幻聴だ。
でも、こんな声だったっけ……どんなのだっけ?
少しずつ記憶が曖昧になっていくみたいだ。
時間のせいか、フツーはそうなのか。
悔しくてたまらない。
「京香」
「なに?」
「泣いてるの?」
「? 泣いて――」
私は頬に手を当てる。
少しではあるが濡れていた。
「なんでだろ……」
「悲しいから、じゃないの?」
それは、そうだ。
だから、泣く。
「私は悲しいんだろうな。お母さんが、死んで」
母が家の中にいないことが辛くて。
2人で家族ということが辛くて。
父しかいないことが辛くて。
素直になれない私が嫌い。
「どんな人だった?」
「でも、もう記憶が消えかかってて……。どんな声だったかも分からなくなってきちゃってるんだよ」
「そうか」
「そんなのって普通なのかな?」
「普通だろ? だって、2年も声を聞いてないんだ。そんな人がどんな声で話をしていたかなんて忘れはじめて当然だよ。それにいつもでも声を聞けると信じてた人なら、なおさらだよ」
「……」
また涙が少し零れる。
もし天国というのがあるならば、人間はそこで会いたい人に会えるのかもしれない。
けれども、私は二度と母に会うことはない。
死ぬことはないんだから。
「死ねないって辛いんだね」
「ゴメン……」
「マタさんが悪いんじゃないよ。ちょっと気分が落ち込んでるから、悲しくなってるだけ」
「そう……か」
顔を上げる。
上げないといけない。
「私も、永遠を生きるよ。沖田さんと同じように」
永遠という時間の、本当の辛さは知らない。
でも、そうするしかないんだろうと思う。
「そっか」
「そうだよ」
突然――
「大丈夫ですか?」
違う声がした。
「うえっ!?」
「おおう!?」
2人で、変な声を上げてしまった。
暗闇から、沖田さんが顔を出す。
「なんだよ。こんな時に」
「こんな時っていうのは、こっちの方ですよ、まったく。吸血鬼がうろついてるというときに、夜に飛び出していくなんて」
「この前の鬼か?最近はまったく見てなかったのに」
「チッ……」
「何を怒ってんだよ」
「さっき戦ったから言っているんですよ」
「マジかよ」
沖田さんは、私たちをじろじろと見る。
もちろん私たちは襲われてないし無事だ。
「早く家に帰ったほうが良いでしょう。今回の吸血鬼は、たぶん明確に人を選んで襲っていますからね。恐らく俺や京香を――」
「私?!」
私を襲って、どうする気なんだろう。
マタさんは、地面に座り込んで考えこむ。
「うーん、何か目的があるのか……たしかにそうでなければ、また京香の前に現れることなんてなかっただろう。それに女王の奴が起きたんだ、何か指示をしていると考えるべきだろうな」
「指示?」
「襲ったり人質にしたりすることで、どうにかしたいんだろう」
「どうしたいのかは、分からないんだね」
「さすがにそこまでは分からないよ。まあ、ここは一旦隠れるぞ」
マタさんは歩き出す。
それに私と沖田さんが続いた。
「あんなのが何匹もこの街にいるとは考えたくないですけどね」
「確かに」
私は、深く頷く。
ふと、沖田さんが気付く。
「で、どこに行く気ですか?家に帰る道とは違うようですが」
「あ……」
私とマタさんは、固まる。
そう言えば、行くところがない。
そして沖田さんに説明するのを忘れていた。
「若い女性が、こんな時間に外出するのは良くありませんよ」
「……」
「あのな、沖田」
マタさんが会話に入って来る。
「こういう時期には、親といろいろあったりする時なんだよ。夜に家出するなんて、そういうことだってのを分かれ。ばか」
「馬っ――、何を!!」
「そんなの良いから。うるさい。というか、家出くらいするだろ」
「家出……」
「だから、帰りたくないんだってさ」
「じゃあ、どこかに隠れたらいいじゃないですか」
「候補はあるんだが、京香が行きたくないって」
「なぜ?」
「いや、いろいろあるんだよ」
「あの……」
沖田さんは、私の声に反応しこっちを見る。
彼の顔は、とてもまじめだ。
「ひとつ、聞きたいことがあります」
「なんで、こんな時に?」
「私が、自分を見つけられるように、そして見失わないように、です」
沖田さんの顔には「?」が見えたが、構わず続けた。
「沖田さんは、150年も生きていて寂しくはなかったですか? 親しい人が先にいなくなっていくのが。私は、もうすでに忘れそうな人のことが怖い」
「俺だって、近藤さんの声や思い出がどんどん消えています。それでも生きていられるのは――」
「俺への怒り?」
マタさんがチャチャを入れる。
「それもありますが――それだけじゃないです」
「?」
「俺が近藤さんや土方さんに教えてもらったのは、覚えていることだけじゃないんですよ。記憶に残っていることだけじゃないんです。心にずっとある『もの』も、あの人たちから貰った大切なものですから」
「心に?」
「心も、剣も。教わったことは、頭で覚えてるだけじゃないでしょ?」
「……」
「分かりますか?」
「分かります。何となくですが」
沖田さんはニコリと笑い、私の頭を撫でた。
なんだか、それだけで軽くなる。
心が少し楽になる。
「まあ、この猫を恨んでもいいんですけどね」
「なんだと?」
「いや、それは止めときます」
私は、猫派だし。
それに、この人たちが好きだから。
「さて、戻って来たな」
懐かしい外観。
近藤という表札は、キレイに磨かれている。
私はマタさんの話を思い出す。
父親がこの家に戻って来ていたと。たまに掃除をしに来ている――なんて信じられない。あの
どういうことだろうか。
「ねえ、マタさん」
「ん?」
「ホントに、あの人だったの?」
「あんな人、間違うわけないだろ。それにこの家に入ってたんだ。そんなの京香の父親か、泥棒だろ?」
「それはそうだね」
「じゃあ、入ろうか?」
マタさんの言葉に躊躇いながらも頷く。
まだ、ほんの少し怖い。
「待ってろ、今玄関のドアを開けてくる」
「大丈夫、1人で?」
「任せろ」
そう言って塀に飛び乗り、屋根に飛び移り、私の部屋の窓から家の中に入って行った。
そして、少しもしないうちに玄関のほうでカチャリと音がした。
「おーい」
開いたらしい。
私と沖田さんは、一緒に中に入っていった。
玄関のドアのノブは、久しぶりでも手に馴染んでいる感じがする。
心地良い感じさえする。
ドアを開けて、玄関をくぐる。
久しぶりの家の匂いがする。
少しだけホコリっぽいけど。
「ただいま」
無意識に口に出る。
やっぱりこっちが家なんだろうな。
沖田さんも「お邪魔します」と言いながら、家に入ってきた。
「おーい」
家の奥、台所の方からマタさんの声。
私たちはそっちの方へと行ってみる。
「これだ」
マタさんは尻尾で冷蔵庫を指し示した。
「いろいろ入ってるから、勝手に食え」
「勝手に盗ってきたって言ってたくせに。良いの?」
「まあ、いいだろ。さあ、ここなら寝れるな。俺らは勝手にどこかで寝るから、京香も自分の部屋で寝ればいいよ。明日――」
私はマタさんの言葉よりも他のことがとても気になっていた。
家具の上、シンクの周り。
いろいろな所に目が行く。
「どうしたんですか?」と沖田さん。
「台所がキレイ」
「だから、言ったろ?」とマタさんが拗ねたように言う。「この家は、どこもキレイに掃除されてるよ」
私は2人を置いて、別の部屋へと向かった。
あの人の部屋に。
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