拾玖)不器用な父、娘の死に気づきし事2
食堂前の廊下から、私と父は居間に移動した。
午後8時。
居間の大きな掛け時計が、カチカチと常に等間隔の時を刻んでいる。
それ以外の音がしないくらいに、私たちの間に会話はなかった。
いつも以上に口を堅く結ぶ。
父との関係は、「ここまで」ではなかった。
母がいなくなって、変わった――と思う。
この畳張りの部屋は、居間にする前には、従業員の仮眠スペースになっていたところ。
今では、木のテーブルと母の仏壇を置き、近藤家の居間・兼父の寝室として使用している。部屋の隅には父の布団があり、夜遅くそのまま寝室になる。
父はいつも通りの席に座り、私はその対面に座った。
家族会議。普通の家でいうところの。
家族、――家族か。
それを言うには、やはり1人足りないと思えてしまう。
あれから2年。2人で家族と呼ぶためにはまだ時間が足りな過ぎる。
「率直に聞く。その手の冷たさは、なんだ?」
「……」
だが、私が口を開く前に頭を大きく振った。
何かを振り払うように。
「いや、待て。待ってくれ。普通に考えて、そんなことあり得ないだろ?なのに、そんなことって――説明できるのか?それを現実的に」
「……」
「なあ、京香。答えてくれよ。俺を安心させてくれ」
父の声のトーンが落ちる。
普段からは想像できない情けない声。
うちの父親は、結構な大柄だから。
私とは似ても似つかない体格だから、知らない人には変な顔をされる。
そんな父の情けない姿。
前にも……どこかで見たような。
「でも、きっと信じてくれないよ。ホントのことなんて」
「そんなわけないだろ。現にオマエの、その手を触ったんだから。そんなことがあり得ないのは分かるでも、それが現実に起きてるんだ。信じないわけがないだろ」
「じゃあ、『本当のこと』を言えばいい?」
「もちろんだろ」
私の覚悟と不安。
それから少しの
「ホントに? それがどんなことでも?」
「あ、ああ……」
父の顔が少し歪んだ。
でも、本当に話していいのか。本当に。
「じゃあ、ちょっと待って。まだ言ってないことのついでに、紹介したい子がいるんだ」
「へ?」
私は2階に行き、猫缶を平らげ退屈していた『彼』を連れてくる。
彼は、休憩用に買って上げたクッションの上で、眠っていた。
マタさんは、家猫になってからだいぶ油断している。
抱き上げると、チリンと私が付けた鈴が鳴った。
「うにゃ!」
「良いから、ちょっと!」
脇を抱えられ、とてもみっともない格好でだるんとぶら下がる。
無理やり私に連れ去られるという災厄に巻き込まれて、一言も言葉を発しない。
突然父親の前に連れ出されたら混乱するとは思うけど。
紹介してなかったのだからしょうがないし、元はといえば早朝に我が家へやって来たマタさんのせいだしね。
「この子なんだけど」
「猫?飼うのか?」
「いや、まあ、そうなんだけど。ちゃんと見て。尻尾、ほら」
「2本?」
普段は隠しているはずの尻尾も油断して出したままだ。
2本の尾を持つ、猫。
その姿は、やはり異質に見える。
誰が見ても。
「なんだそれ……化け物とでも言うつもりか」
「そう。この子に出会った。そして、そのときに――」
「なんだよ。そのときに、何があったんだ」
やっぱり口にはし辛いことだ。
死んだという一言が、重い。
死。
たった一文字が、なんと口を重くするんだろう。
「この猫に出会ったとき、私は地面に転んだの。そして、そこで頭を強く打った」
「…………」
父の顔は、驚いたような悲しいような、
今にも泣きそうな顔になった。
私だって、そうだから。
「頭を強く打って――」
あれは、塾の帰りだった。
少し前に、2人の友だちとは別れていた。
友人との時間は、そんなことが待ち構えているとは思うわけもない、とても幸せな時間だった。いつも通りの日常が、あれほど幸せとは思わないだろう。それが終わるまで、価値は判断できない。
命が終わるまで、何も知らない。
命が尽きるまで、何も悟らない。
死の直前、すべてを悟ったように見えた母。
それを間近で見た私も、死んだ今、少しだけ世界を理解することができる。
自分たちの知る世界が、どれだけ狭いか。
私は、知らない。
黒い風が、私の前を吹き抜けるまで。
すごい速さで目の前を通り抜けるまで。
知らなかった。
その強い風を冷静に判断する思考とは裏腹に、体は制御できないでいた。自分の体と共に、傾いていく景色。とてもゆっくりと目の端に流れていく。
止まらない。
止めることが、できない。
自分の過去が頭の中に流れては消えて行く。
走馬灯。
母の顔もある。
そして、最後に見たのは、
遠くから走ってくる1人の男。
あそこで沖田さんと出会わなければ、私はここまで『普通』に生活を続けていられなかったと思う。そういう意味では、彼に感謝もしている。
でも、同じように反対の感情もある。
直後、頭に衝撃を受けた。
意識は、すっと遠くなっていく。
感じたことのない壮絶な痛みに世界は黒く、そして白に染まっていった。
どこから花のいい香りがする。
最近、整備された道にはない、とても芳しい花の香り……
今になって思えば、あれは天国の香りだったのかもしれない。
本当にもう少しで死んでいたのだろう。
そこを猫又の彼に
「――頭を打って、そこで死んだんだ」
言葉にするのは辛い。
ただ聞いている父も辛いと思う。
顔が、引きつっている。
あの無感情で無表情な父が、ひどく焦あせっているようなだった。
「だから、この手にも、体にも血はまとも通ってないの。体の機能は、どこも生きていないんだ。でも、それでも生き――ううん、動けているのは、この子のおかげで。この子が私を跨いだから、こうしていられる。動いていられるの。もちろん、この力も普通じゃない力だから、問題もある。それは、永遠にこのまま生き続けるという……」
「もう、いい!」
「何が、もういいの?」
「『もう、いい』から『もう、いい』んだ。もう止めろ。そんなくだらない話」
「くだらない?何が!」
「そんな作り話をしてまで……」
――と。
頭に血が上る。
何も考えられなくなる。
「分かった。知らない」
「な、なんだよ?」
「もう、こんな家知らない」
「あ?」
「売ったらいいでしょ、勝手に。自分一人で、決めちゃえば」
マタさんを投げ捨て、私は何も持たず、着の身着のまま逃げ出した。
いつの間にか外は暗くなっていた。吸血鬼に襲われるという恐怖も、どこに行こうかという心配も、怒りによって消し飛んでしまった。ただ飛び出して道を歩く。家を、家のある地区を離れ、あのマタさんや沖田さんと出会った道に辿りつく。
新しい道。
2年と8カ月。
いや、もう9か月か。
母の死んだ季節に、開通した道。
だから、しっかりとその日付を覚えていた。
いじらしく、悲しく、記憶に刻みつけられていた。
忘れたくても、忘れられない。
「……」
振り返っても、感傷はない。
心の中に後悔もない。
私は、あの家が嫌いだったんだと思う。
お母さんのいない、あの家が。
思い返せば思い出すほどに、私は「私」が許せなくなる。2人で暮らすだけのスペースも、父が私を古傷に触るように接していたことも。
何もかも腹立たしくて、情けなくて。
そんな自分が嫌いで、嫌いで、殺したくなる。
私の体は、もう死ぬことはできないけど。
自分という存在を消したい。
「――消えたい――」
歩いて、歩いて街に出た。
駅のあるこの町の中心部。
死ねないけど、いなくなってしまいたい。
本当に、誰も知らない土地に行くしかないのか。
「あ……」
ポケットの中には、何もない。
そのままで出てきてしまっていた。
お金も、それを稼ぐために働く手立てもない。このままどこかへ行くための費用を生み出すことさえ不可能だ。しかし、諦めて家に帰って、父に気を使われるのは――もっとイヤ。
なら、父の仕事が始まった時間に行こう。
それなら、問題はないはず。
「とりあえず今日は誰か知り合いの家に……。で、明日、財布とかを取りに戻ればいいや」
でも、そうだ。
何もないから連絡もとれない。
「……」
ケータイがないのでは、問題だ。
知り合いの家に向かうにしても、一切の連絡が取れない。
勝手に行くとしても。怒られたり、嫌な顔をされたりするだろう。
しかし、じゃあ、私は今夜どうしたら。
空は黒く、星がいくつも瞬いている。
時計まで置いてきてしまったが、もう他人の家を尋ねるには不躾な時間だろう。
「どこかに、泊まれないかな」
そう考えて、行く当てもなく彷徨う。
街には、さすがにインターネットカフェのような施設はない。
あったとしても、身分を確認されたら追い出される年齢だ。
さまざまなケースを考えたが、どこか人のいない空き家に寝泊まりするしかないだろう。
恐いし、危ないかもしれないけど。
それしかない。
「見つけた!」
急に声がする。
街にほとんど歩行者の影はなくなっていた。
車が何台か通ったくらいで、人の気配はない。誰だろう。
声の主を探す。
「ここだよ」
「?」
声の方――足元を見る。
辺りが暗いので分かりにくかったが、マタさんがそこに立っていた。
黒いマタさんは、足の先の白い毛と目だけがようやく見える程度だ。
気づかずに蹴飛ばしそう……。
「マタさん」
「『マタさん』じゃないっ」
「怒ってるの?」
顔をふいっと逸らす。
「当り前だ。勝手に父親に紹介したと思ったら、今度はボクを置いて出て行くし。オカゲで気まずさったらなかったぞ。まあ、親父さんのこと許してやれよ。オマエの父も本気で困ってたからな。ボクに目を合わせて、『どうすんだ?』って聞いたくらいだもの」
「でも、戻らないよ」
「戻らないって……部屋に財布もあったし、何もないんだろ?」
マタさんは、ずばり今の状況を言い当てる。
でも私は戻りたくなかった。
「ああっ、もう、分かったよ。行くぞ」
「え、なに? というか、どこに?」
「何ってそりゃあ、野宿するんだろう。で、そのためにいいアジトを紹介するって言ってるんだよ。誰も住んでないけど、荒れても、汚れてもいないそんな家にさ」
「そんなのがあるんだ」
「まあ、そういうところを選んで住んでるんだけどな」
マタさん、流石だよ。
心の中で歓喜の舞を踊りながら、彼を抱きしめた。
「さあ、行こう。すぐ行こう」
「おお、おお! じゃあ、まず離してくれ。苦し……」
そんなことがありながら、私たちはマタさんの隠れ家だという家に向かった。
家に向かう道中、私の中でなんだか不穏な感じを覚えた。
とても歩きなれた道だったからだ。
一歩ごとに気持ちは、確信に変わる。
この道を体が覚えている。
「ほら、ここだ」
そう言って、彼が指し示した家。
「いや、これって……」
それは――
見覚えのある外観。
表札にかかった『近藤』という苗字。
見たことがあり過ぎる。
というか、
「私の家なんだけど!」
それは、どうみても私のウチだった。
私の叫びが静かな夜に響いた。
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