拾捌)不器用な父、娘の死に気づきし事1
「ぐふっ……」
朝の5時のことだ。
体力も尽きて、京香の家のベランダに倒れる。
屋根を伝ってここまで来たが、もう限界だった。
彼女の部屋のベランダへ、受け身を取ることもなく落下した。床板を激しく打つ鈍い音がした。体も痛い。
アイツを追いかけ、一晩中走り通しだったからな。
呼び出しておいて、何も言わなかった鼎談の主催。
ソイツを追いかけて(なぜかあっちも全力で逃げたんだよな……)、やっと一言だけ吐かせはしたが。なんてことはない、普通の一言を呟いただけだった。
何という徒労。
もう眠りたい。
いつも通り、窓をノックする力もない。
4本すべてが足というのも面倒なものだ。二足歩行よりも格段に長く走っていられるけど、疲れたときには前足も自由に使えなくなるのは厄介だ。
自分の種族ながら呪いたくなる。
人のほうがいいとは言わないけど。
日本の人型の妖怪は、正直ザンネンだよな。
カッコ悪いもん……。
最後の力を振り絞り、窓のサッシを爪の先で引っ掻く。
まだ朝の早い時間だ。
京香が起きているかは分からない。
もしかすると、さっきの音で起きてないかなと淡い期待を覚えてしまう。
我慢して外では寝たくない。
できることなら、柔らかなねぐら。
ベッドで眠りたい。
贅沢だけど。
そのくらい疲れていた。
「ダメか……」
しかし、カラカラと音がする。
眠い目をこすりながら、京香が窓を開けてくれた。
5時でも外は明るくなる季節になっていたが、いつもの彼女には早すぎる時間だ。
彼女が遅くまで勉強しているのは知っている。
でも、これは緊急事態だ。
「んー、マタさん……?」
「おお、起きてたか……」
「どうしたの!」
「いや、ちょっと走りすぎてね……布団に連れてって…」
京香は、ボクの動かない体を見て眠気が冷めたのか。
すぐにボクを抱えてベッドのほうへ連れていき、フカフカのマットレスに降ろしてくれた。体の疲れが、柔らかいマットに溶け込んでいくようだった。
というか、寝る。
ワガママを言えば、正直――水も欲しい。
「京香、ちょっと寝かせて貰ってもいい?」
「いいけど。私が帰ってくるまでいてね」
「うん?……どうして」
「勝手に窓開けっぱなしにして帰ったらダメだからね」
「あー……大丈夫じゃない?」
「防犯とか、今はいろいろあるんだよ。この前だって、別の吸血鬼が現れて大変だったんだから。世間は危険がいっぱいなんだよ」
「知らないとこで、いろいろあるんだね」
本気で目蓋が重い。
ただ京香が怒っているので、寝るに寝られない。
「わかったよ~、出ない。出ないからさ~」
「ホントに?」
「だから、寝かせてくれぃ。飼い猫になったっていい……」
「分かった。寝てていいよ」
「あと、水もください……」
「じゃあ、代わりに、これを付けて」
「ん?」
顔を上げると、首輪を構えていた。
マジか。
買ったんです?
細い輪に、小さな鈴がついている。
鈴は彼女の手の動きに合わせ、綺麗な音を立てた。
「準備が良すぎる……」
諦めて目を閉じ、されるがまま、身を任せた。
京香は一度下に行って、ボクのための水の入った皿と猫缶の入った皿を持ってくると部屋の隅に置いた。まあ、僕の場合、普通の猫よりは聞き分けが良いから。どこに置いたって問題はない。
首輪も優しくフィットしている。
京香に飼われるなら、いいか。
「トイレは、流石に外に行ってね」
「わかった」
「まだ、お父さんには言ってないし」
「わかったってば……ねかせてぇ」
学校の鞄と着替えを持ち、部屋を出て行った。
京香が気にして出て行ったことがとてもありがたい。本当に。
そう思いながら、夢の中に入り込んで行った。
夢は、昨日のこと。
◇◇◇
主催者は、はあはあと生き荒くしている。
「――わかった。落ち着けよ」
対する、マタさんも同様に。
「なにか言う気になったのか? それなら許してやる」
「うーん。あまり言うと怒られるんだよね」
全力で走った後で、振り返った主宰者は言う。
少し困ったように。
「でも、まあ……簡単だよ」
「何がだよ!」
「キミの望みをかなえるのは、簡単。『あの子の側にいることだよ』」
「!?」
「あの子の、そばを離れないことだ」
「……」
「あの子の、そばを――絶対に」
まるで予言のように彼は告げた。
□□□
マタさんが飼い猫になって数日が経たった。
けれど、だからといって世界は一変するわけでもない。
私やモミジは、毎日ビクビクとした登下校をすることになった。
問題の発端は、もちろん例の吸血鬼騒動だった。昂作やモミジとともに出会った日から、そこまで日の経たないうちに現れた2体目の吸血鬼。
それにビビらないのも、どうにかしている。
というか、昂作だけど……。
「いやあ~、あんなのがいるなんてな」
目をキラキラと輝かせ、そんな独り言ばかり。
私とモミジは揃ってため息を吐いた。
「でも、襲われなくて済んだのはいいんじゃない?」
「まあ、代わりにあの人にも会えてないけどね」
「私も、最近見てないよ」
そう言えば、マタさんのことを沖田さんにも言わないと。
最近塾が終わってもまっすぐ帰宅することにしていた私たちは、どこか疲れがたまっている。でも、あの時のように誘拐事件のようなことは起きていない。だとすれば、そこまで気にすることではないのかもしれないけれど。
または――誰か……。
「……そんなわけは、ないか」
「ん? なにがー?」
「いや、なんでもないよ」
今日も、塾。
私たちも、今そこに向かおうと歩いてた。
だんだんと日は長くなり、塾への道のりは少しだけ心配もなくなる。
吸血鬼なら日が出ているうちは、彼らの弱点が空にあるうちは大丈夫だろう。ビクビクと道を急ぐ必要もない。
明るい道。風はなく、少しだけ蒸し暑い。
足元のアスファルトが、まだ温い空気を纏っていた。
季節は、夏になっていく。
私は、それが嬉しくもあり、寂しくもあった。
2年の前と同じ悲しい季節が、またやって来る。
「キョーカ?」
私は、モミジに呼ばれてハッとする。
「あ、ごめん。ちょっと考えごとしてた」
「そんなんだと電柱にぶつかるよ」
「大丈夫だって」
私は誤魔化すように軽く笑った。
まあ、何回か電柱にぶつかったことはあるから強くは否定できないし、少しだけ重いセンチメンタルな気分は簡単には吹き飛ばせるわけでもない。
「そう言えば、モミジ。今日、塾の課題あったっけ?」
「ん? それ、さっき学校でアタシがキョーカに見せてもらったんでしょ?」
「そだっけ?」
「アンタ、ホント大丈夫?」
ここまで、ぼんやりしたのは久しぶりかもしれない。
こういうのは、突然来るから。
「大丈夫だって」
「帰ったほうがいいよ。吉田にはいっておくし」
「でもさ」
「いや、ダメだね」
「……分かった」
「はいはい、まっすぐ帰るんですよー」
「分かってるってば」
モミジに強く言われたのもあり、私は帰ることに決めた。
昂作も手を振り「じゃーなー」と言ってる。
別にどこかが悪いわけではない。
気分がすぐれないだけだ。
どこか、あの人のことを思い出しそうで。
あの人――うちのお母さん。
2年前の夏だった。
あの暑い日、電話を貰って駆け込んだ病院は妙に涼しかった。
とても冷静ではいられない状況だったのに、頭の中はとても冴えていた。
何度もお見舞いに行った母親の病室は、何階の何号室で、最近は個室に移されていて、その窓からは下の駐車場がよく見えて……不必要な情報が頭の中に現れては消える。
まるで、泡のよう。
浮かんでは消えて、消えては現れて。
昨日の夕飯。
今日の学校の様子。
子供の頃、両親と行った旅行のこと。
私の夢、あの人の夢。
いらない情報も、大切な思い出で――。
「京香」
お母さんの声がした。
頭の中で声が鳴っただけ。
白昼夢。
そんなことを考えながら、病室の前に辿りつく。
病室のドアの取っ手が、恐ろしく冷たかった。
「お母さん」
大きな声で飛び込んだ病室は、人間と薬の臭いに満ちていた。
すでにお父さんが苦しそうな顔をして、ベッドの横の安っぽいパイプ椅子に座っている。
対して、お母さんはといえば――。
いくら冷房がついているとはいえ、足の先まですっぽりと布団を被っている。
暑くないのかなと思ってしまう……。
顔には、白い布がかけられているのに。
私は――。
…………
何を想ったのだろう。
一言では言い表せない、とても単純な感情。
今でもあの感情を、いつでも思い出せる。
寂しくなったとき、
哀しくなったとき、
あの風景が心に浮かぶ。
浮かんでは消え、消えては浮かんで。
情景に浮かぶのは、あの人の顔だけになってしまう。
だから、私はそっとスイッチを切るように考えを止めることを覚えた。
まだ忘れられない大切な人の死を、日常からそっと切り離すように。そっと――小さな音を頭の中に思い描く。
気付くと家の前。
家の横にある工場は、まだ灯かりが点ともっている。
いや、違う。ここは、本当の家ではない。工場の従業員用の休憩スペースだったものを改造して生活空間にしているだけ。本当の家は、また別の所にある。
私も、そして父も、あの家にまだ帰れていない。
自分たちの心も、
母の荷物も整理しきれていないから。
「ただいま」
「おっ?」
父が居間から顔を出す。
「塾の日じゃなかったか?」
「ちょっと、気分悪くて」
「そっか」
私はその脇を擦りぬけて、二階に行こうとする。
「京香」
「なに?」
「あのな。家を、売ろうと思うんだ」
「――」
振り返る。
無表情の父親が、そこには立っていた。
悲しそうでも。寂しそうでもない。お母さんが死んでも泣かなかった人だから。
私には、この人の感情が分からない。
お母さんが死んで、どう思ってるのか。
「本気で言ってるの?」
「あっちに帰ることもないなら、そうしないか?」
「……」
「……」
沈黙が、その場を包む。
「あの、勝太さん」
工場で働いている男の人が呼びに来た。
真面目で、工場のことを一番に考え、父をサポートしてる人。
工場のほうには電気が点いていたし、まだ人が残っているんだろうなと思っていたけれど。この人は、それを放り出して、自分のことをしていたのか。本気で幻滅する。
私は、何も答えずに二階へと上がった。
「京香!」
私は、父の言葉を無視した。
ご飯のときも、何も答えず黙々と料理を口に運んだ。
私が作った料理だから、失敗はしていないはず。
なのに、まったく味がしなかった。
「あのな、さっきの話だけど」
「……」
話しかけられても黙っていた。
食べるスピードをもっと速くするだけ。
さっさと自分の食器を片づけて、自分の部屋に戻ろうとする。
「京香、違うんだ」
「うるさい」
「待てって、京香!」
彼は立ち上がり、その腕を掴む。
『しまった!』
ハッと気づいたときには、遅かった。
冷たい手を、掴まれてしまった。死んでから約1ヵ月。私の体温は、外の気温とほとんど変わらない。私の手の温度は、まるで爬虫類に触れたときのようなものだ。
もちろん父のリアクションも、ヘビを掴んだときと遜色ない。
「!」
父は驚いたような顔で、その手を離した。
私の、死人の手を。
あの時の母と、同じ温度の手を。
「ス、スマン。いや、そういう問題じゃ……」
「……部屋に戻る」
「待て。ちょッ、ちょっと、落ち着いて、な」
「それは、お父さんでしょ」
「いや、分かったでもちゃんと話してくれ」
久しぶりの父との話し合いが決まった。
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