拾肆)猫又の、山に棲みし老人を喰らう事2
明治13年(西暦1880年)
暦も、8年前に太陽暦に変わった。
今、日本は、激動の時代を迎えている。
世は、自由民権運動の真っただ中に置かれていた。
明治初期は、侍の時代の終幕であり、民主政治の開幕の時代といえた。3年前、最後の侍・西郷隆盛が西南戦争の中で自刃、そこで真に侍の時代は終わった。
明治という時代を作ったのは、薩長土肥の侍ではあったが、彼らの実績は戦果よりも政治のほうが大きい。時代が変わり、一から政治体系を作り直さねばならなかったからだ。
自分たちで崩した国を、また10数年で変えたのは素晴らしい実績といえるだろう。
そして――
時代は日本の中心となった東京で刻一刻と動いている。
なのに、ひとつ山に入れば、時代はまったく変わっていない。
まだ木々の中に時間が封じられてしまっているみたいだ。
猫の中に猫又がいるように、山の中にはまだ怪しい息遣いが聞こえてくるようだった。
■■■
沖田は、眼を覚ました。
目覚めた瞬間には、自分がどこにいたのか分からなかったが、昨日寺で眠ってしまったことだけは思い出すことができた。畳の部屋に、布団が敷しかれていた。
あの老僧がここまで運んできてくれたのだろうか?
「久しぶりにゆっくりと眠ってしまいましたね」
沖田は頭を掻きながら、体の疲れが抜けているのを感じた。
綿の多く詰まった布団で寝たのは、それこそ10年以上前のことだった。
いつもは地面に丸くなって眠っていたせいか、すっかり固くなった背中もどこか解れたように思えた。
耳を澄ますと、僧の読経が聞こえてくる。
起き上がって声を頼りに廊下を進む。
すると、寺の中心である金堂へと辿りつく。
読経は低く深い声色で、朗々と唱えられている。
長年修行として読経していたのだろう。とてもありがたくもある。
ゆっくりと中へと入って行く。
一目見て、沖田は自分の目を疑った。
ここは、荒れ寺ではなかったか。
そこに鎮座する本尊は、金箔で彩られた見事な仏様だった。
これだけの荒れ寺にはずいぶんと似つかわしくないものだ。失礼ながら。
立派な仏師の作品だろう。
「おはようございます、沖田殿」
「おはようございます……、あの?」
老僧は、一度読経を切り止め、沖田に挨拶をする。
その顔は、とても穏やかだった。
もともと仏像のように優しげな顔立ちだが、いつも笑っているような顔で目は大きい。目尻の笑い皺がどこより深く刻まれている。
明るい所で会ってみると、不思議な目の色をしているのが分かる。
日本人の色ではない、どこか異国の人間のように、どこか青みがかっているように見えた。この人は、何者なのだろうと思えてくる。
「昨日、私はどうしてしまったんでしょう?」
「ご飯を食べた後、倒れるように眠ってしまいましたよ。なので、近くの部屋に運んで、布団を敷きました」
「それはご迷惑を……」
「いえいえ。よく眠れましたか?」
「ええ。久しぶりにぐっすりと」
「良かった」
老僧は、再び合掌の姿勢に戻る。
「少し待っていてください。もう少ししたら、一緒にご飯を食べましょう」
「分かりました」
「素振りでもしてきたらいいですよ。刀は、こちらに」
ひと振りの日本刀を沖田に押し付けると、僧は読経を再開した。
まさに無心の如ごとく、経を唱えていく。
庭に出ると、沖田は授さずかった刀を見た。
艶やかな赤漆の鞘。
黒い煌びやかな鍔。
「美しい」
そう呟いたのは、刃を引き抜いたときだ。
切っ先から刃元のほうまで、美しく波打つ刃文。
刃は鋭く。そして雪のように白い。
シュン――。
刀を振ると、綺麗な音がする。
宙を、空気を、切り裂く音だ。
なんて刀だろう。
茎を見なければ、その銘は分からないが名工のひと振りだろう。
「新選組にいたときでも、ここまでの刀は手に入りませんでしたよ。でも、これで猫を斬るのは気が引けますね」
再び振る。
美しい音。
それとともに、風が切れる。
「もったいない……」
「ならば、斬らねば良いのです」
「え?」
いつの間にか、金堂の正面の階段に老僧が立っていた。
気配が感じられなかった。いつの間に、彼は現れたのだろうか。
感覚が獣並となった沖田も、まったく気付かなかった。
「あの妖怪のことを忘れ、1人で自分の人生の解決方法を見つけるのもいいのではないですか。そう提案したいのですよ」
「……アナタは、何者ですか?」
「ただの僧ですよ。さあ、ご飯にしましょうか」
朝御飯は、いつの間に作られたのか。
玄米と漬物、汁物。それに精進料理のおかずが3品。
それもキレイな膳に乗せられている。
次第に、嬉しさよりも不気味ささえ感じてきた。何かに化かされているのではないかと。
朝食を食べ終え、一休み。
料理は美味い。しかし、誰が作っているのか分からないのが不気味だった。
僧もここには一人しかいないと言っていた。
では、他に何かいるということだろうか?
沖田がふとそんなことを考えていると、老僧がやってきて近くに座った。
「落ち着きましたか」
「落ち着く?何をです?」
「私の眼は、随分前に見えなくなりました。ですが、代わりに現在以外の全ての物事を見通すことができるようになりました。だから、見えるのですよ。あなたの運命も、過去も、殺意も、沖田総司殿」
「アナタは……」
「私は忠告するだけです。あの猫から離れ、他の道を探せば長い時の後に術は解けるでしょう。しかし、あの猫を追いかける道を選べば、それよりも早く術は解けます」
「なら、その方が……」
僧は、眉間に皺を作った。
不快とでも言いたげな顔だ。
「時を求めるか、人の道を求めるか?」
「え?」
「短い時間で術を解こうと猫を追いかけた場合、他の者へも迷惑をかけるでしょう。それが正しい道か。拙僧には判断できぬのです」
風が吹いた。
荒れ寺の壊れた壁板から、風が入り込んでくる。
数片の花弁と青い葉が舞う。
温かい風。穏やかな風だった。
「どうしますか?」
「少し考えます」
そう言うと、僧は離れて行った。
沖田は、庭が見える縁側に移動し、そこに座った。
あの屋敷の庭とは違い、自然の美しさを感じる。
そして、目を閉じた。
ゆっくり考える。
風の中。
自然の中にいる。
鳥の声が聞こえる。
虫の呼吸。
雲の進む音まで聞こえるようだ。
――――
――
「決めました」
僧は、境内の周りの石畳の上を箒ほうきで掃はいていた。
優しげな顔で笑っている。
沖田は僧のもとへ近づいて、足元に跪いた。
「すみません」
「やはり、ですか」
沖田は、顔を上げる。
僧の考えに反する答えをしたのだが、その顔はどこか穏やかだった。
「分かっていましたよ、すべて」
「申し訳ありません」
「いえいえ」
僧は、ゆっくりと近づき、沖田の頭に手を添える。
その手は、温かさと慈しみに満ちた手だ。沖田は、それが自分の中に流れ込んで行くのを感じていた。
きっと、何もかも知っていたのだろう。
そのすべてが見えるという目で。
「修羅の道を行くのも、仕方ないでしょう。アナタはそういう人生を歩む人だということです。行きなさい。とはいえ、運命が変わるのまでは遠いですよ」
「どのくらい――いえ、聞かないでおきます」
「それが変わろうとするときは、アナタのもとに遣いを送ります」
「はい」
「そして、あの猫又には気を付けなさい。あの妖怪は、一筋縄ではいきません。人を食う妖怪なのですから。人、特に老人を好むと言います。アナタは老いることはないでしょうが、他の人に寄りつくときは気を付けることです。では、お行きなさい」
沖田は、立ち上がった。
すぐにここを発つつもりで。
「はい、ありがとうございます。あの、アナタのお名前を……」
「アナリツと申す者です」
「ありがとうございます、アナリツ様――」
そう告げると、辺りが急に光と温かさに包まれた。
そして、そのまま気を失ったのだった。
…………。
「う……」
沖田が気付いたとき、彼は古びた石畳の上に身を横たえていた。
腰には、あの刀がある。
だが、それ以外はどうも様子が違う。
辺りには、先ほどと変わらない。石畳は綺麗に片付いているが、周りには人の気配がない。荒れ寺の中にも入ってみたが、誰もいない。
正面の金堂には見事な仏像などなく、床板が腐って崩れていた。
「何があったんだ」
だが、沖田はある物を見つけた。
ボロボロに崩れた境内の床下に降りてみると、ひとつの箱がそこにあった。
大人がやっと抱えられるくらいの大きさの箱ではあったが、沖田も持ち上げることはできなかった。何故なら、そこには10の石仏が入っていたからだ。
いや、正しくは10の石像だったものだ。
ひとつを除いて、9つは崩れていた。
無事であった石像をよく眺める。
「あの人に似ている」
顔立ちがあの老僧にそっくりだった。
像の足の裏に名前が刻まれていた。
『
沖田は、その像に手を合わせ、礼を言うとそこを立ち去った。
それがどこの県の、どの山であったのか。
沖田も早々に立ち去った猫又もまったく覚えていなかった。
この世のあらゆる記録にも、そんなものは記されていない。
そこからオニごっこは、再開される。猫はまたどこかに逃げていたが、すぐに沖田によって見つけられた。
逃げても逃げても、執念で、どこまでも追い掛けた。
□□
「おい」
現代。
マタさんは怒っている。
口をモグモグさせながらだけど。
「ボクの話は?結局オマエの話の続きだろうがっ!」
「でも、ホントこの後すぐの話でしょう?少しくらい待ったらどうです?」
「うるさいッ」
マタさんは、腰を上げてシャーと鳴く。
猫の威嚇のポーズを、沖田さんに向ける。
「オマエが二日ものんびりして、ボクを見つけるまでひと月ほどかかってるだろうが……、その間には僕だって、いろいろあったんだぞ?」
「いろいろ?」
「そうだ、いろいろだっ!」
でも、何度聞いても、マタさんから『いろいろ」以外の言葉が出てこない。
「いろいろって何?」
とわたしも尋ねる
「だから、いろいろだって……」
「嘘でしょう?」と沖田さん。
「嘘じゃないって。教育的な配慮からここでは言えないんだよっ」
「なんだそれ?」
「ホント何してたの、マタさん?」
わたしがもう一度聞くと、マタさんの体が一度大きく震えた。
そして、その顔もどこか青く――いや、毛があるから色は分からないけど、どこか具合が悪そうな感じだった。
本当、何があったんだろうか。
「ともかく、ボクの話をする」
「分かりました。分かりましたから」
マタさんは姿勢を崩し、クッションの上に寝そべる。
どこか眠たそうでもある。すでに猫缶はペロリと平らげられていた。
「さて、あれはその後に初めて見つかったときのことだった。ホントひと月も経っていなかったと思う。町の中で偶然の再会。ボクはとても疲れていたんだけど、全力で走って逃げた」
そう話す顔が心の底から嫌そうだった。
沖田さんは、それを黙って聞いていたけれど。
「でも、前回のことを思いだした。山の中のほうが逃げやすいと考えたんだ。そうして入り込んだ山中で、今度は一軒のあばら家を見つけた。そこには年寄りが1人で住んでいた。厭世老人が隠居していたんだと思ったよ。でも、そこである臭いを嗅いだんだ」
「臭い?」
マタさんは顔をしかめ、わたしも同じように顔をしかめる。
「猫又だけが嗅ぎとれる臭いを」
マタさんは顔を上げ、空を見ていた。
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