拾参)猫又の、山に棲みし老人を喰らう事1
「――ということがあったんですよ」
沖田さんは、瞳をゆっくり閉じた。
懐かしいあの頃の情景を思い出しているんだと思った。
大切な二人のことを考えているのだと。
だから、私は少しだけそっとしておこうと思ったのに、
マタさんは……。
「長い」
バッサリだった。
「えっ、ちょっと――」とわたしが止める間もない。
「何ですか。そこまで喋っていたと思いませんけど。だいたい途中から来た分際で文句を言うなんて」
「いやいや、4話分くらいあったぞ。長いわ」
「?」
沖田さんもわたしも首を傾げる。
4話……当時なら4週くらいは、確かにあったが。
「――で、でも、勉強になりました。そんなことがあったんですね。さて、時間も時間ですけど、どうしますか? もうお昼ですけど……」
「いえ、お気持ちだけで」
「缶詰!」
丁寧な沖田さんに、
遠慮しないマタさん。
……で、猫缶を常備してる私も私だけど。
「ちょっと待っててください」
とわたしは立あがる。
「お茶とお菓子と、猫缶持ってきますから」
「大丈夫ですよ、すぐ帰りますので。オマエも少し遠慮したらどうですか」
「いや……ここは、もう少しゆっくりしよう。で、別の話もしたらいいだろ? その続きというか、ボクの話しないとな」
「オマエの?」
「例えば、あれだ」
「あれ?」
マタさんの話、気になる。
「山で隠居した老人に会ったときのこととか」
「ちょっと待ってて。今、持って来るから」
急いで階段を降り、2人分のお茶を淹(れる。
紅茶かなとも思ったけど、沖田さんは純和風の人だし緑茶に。
あと、先日買ったばかりの猫缶を開け、水と一緒に運んだ。
ほんの数分だったのに、部屋の外にまで聞こえるほどの大声のケンカになっている。
「どうしたんですか?」
「コイツが」
「コイツが」
と、またケンカになる。
分かった。
理由を聞いてもしょうがない。
結局、彼らは馬があらないということなんだろうから。
「マタさん、とりあえずケンカしないでさ。先を話してよ、さっきの話の」
「……。分かったよ」
マタさんは沖田さんのほうを睨みながら、ゆっくりと座った。
ちゃんと猫缶を前に座るところがちゃっかりしている。
沖田さん自身も姿勢を直した。
話が始まる。
「あれは――明治3年から走り回って10年ほど経った後のことだった」
□□□
明治13年。
猫又は、疲れていた。
体力的にではなく、精神的に。
それも沖田総司が、執拗に、いつまでも彼のことを追いかけていたせいだ。
猫が走るときの最大速度は時速約50キロメートル。
それは人間の走力を突きつめたところで、決して追いつくことができない速さである。そして、妖怪・猫又はさらにそれよりも速く走ることが可能だ。
沖田が、いや人間が、全力疾走したところで追いつけるものではない。
それでも、追いかけてくる。
まさに執念だった。
「面倒くさい……」
それでも猫又は走り続けた。
10年。
その間に、どれだけ逃げただろう。
日本を軽く3周はしている。北も南も、海をも越えた。北海道にも沖縄にも行った。
それでも走って走って走り続けた。
嫌というほど追いかけてくる沖田から逃げるために。
気付くと、深い山に入り込んでいた。
猫又は一本の木を登る。
後ろに沖田の気配はない。
もうすぐ夜になろうという黄昏時。
橙に美しく染まった木々が、ゆっくりと紫に変わっていく。
木の葉の隙間から差し込む日が、猫又の額を照らした。
風が吹き、だんだんと日が落ちる。
紫色は、藍の夜になる。
獣の声が増え、変わりに鳥は寝静まる。
そんなころ猫又は眠りに付く。
「キレイな月だ」
…………。
……。
パチパチと木が燃える音。
熱と煙が、上まで上ってくる。
「ゴホッ――煙い」
黒い煙が木の下から、猫又の寝ているところまで上ってくる。
猫又は下を見た。
ちょうど寝ていた木の下で、沖田がたき火をしている。
木の上にいる猫又に気付いている様子はない。
灯りを取るため、獣を退けるために、火を点けたようだった。
細い木の枝を何本か火にくべると、パチパチと火花が跳ねた。
「どこに行ったんだろうな? 多分こっちだと思ったのに」
「……」
こわっ……
危ないとこだった。
猫又は、その木の上でさらに丸くなる。
剣士として持っていた動物的な勘が、さらに強くなっているみたいだった。
「アイツを切ったら、こんな呪いが解けると良いんだが――どうなったんだろうな。いや、止めるべきか。――違う。まあ、やってみれば分かることか」
ブツブツと呟きながら、火を掻き回す。
たき火の音以外に何も聞こえない静かな山だった。
いや、火があるからこそ獣たちは、ここに近づこうとはしてこないのだろう。
「コイツ、怖いわ」
「!」
沖田は、火から目を上げた。
上を見る。
「何かいるのか?」
「……」
恐ろしく耳がいい。
小声だったはずなのに。
猫又は、この木の上に居続けて良かったのかと思いながら、今夜はそのままやり過ごすしかないと心に決めた。煙いのは我慢するしかないと諦め、眠りについた。
翌朝。
太陽が上るころ、猫又は目を覚ました。
眠い目を擦り、木の下を覗き見た。
消えかけのたき火の横で、沖田が丸まって眠っている。
まだ寝ているうちにと、猫又は木から飛び降りる。
どんなに高い所からでも、うまく飛び降りることができるのは猫ならではの特性だ。
さらに猫又は、衝撃すら最小限に留めることができた。
全くの無音で、柔らかな葉の上に飛び降りる。
しかし、一歩動いた時だった。
パキッ
木の枝を、踏んだ。
その刹那、
――。
風を斬る音。
一瞬の判断で、猫又は身を伏せた。
その判断は間違っていなかった。逆に飛び退いたとしたら、腹を真っ二つに裂(さ)かれていただろう。そのくらいに体から遠いところを、白銀の刃が通り抜けて行った。
振り返る。
「やはり」
沖田は、目を覚ましていた。
「上にいたのか」
「あ、オマエ、気付いて寝たふりを……」
「死ねっ」
また刀が振り抜かれる。
でも、そのスピードはやはり遅すぎた。
刃が届くより早く猫又は駆け出していた。本当の全速力で。
「待て」
「誰が待つか」
猫の全力疾走と人の全力疾走。
先ほども言ったが、当然猫のほうが早い。
圧倒的な速度を前に、沖田は早々と諦めて足を止めた。ふと手元を見る。手に持っていたのは、「あの日」に腹を切ろうとした短刀だった。幕末に打たれた代物であったが、もう10年以上も酷使(こくし)していた。
「ボロボロだな」
それだけの月日が経っていたのもある。
しかし、それ以上に手入れを怠っていた。血を落とし、油を取り、手入れをするのが普通なのだが、短刀を日常生活にも用いていたためにしっかりとした手入れができずにいた。
沖田総司は、そこで短刀すらも失う。
「これじゃあ殺せない」
刀を捨て、ゆっくりと歩き出した。
その足取りは、誰の目からも重い。
しかし、それでもしっかりと猫又が走り去った方角へと歩みを進めていた。
猫又が辿りついたのは、荒れ寺であった。
猫又がゆっくりと近づくと、突然正面の戸が開いた。
「誰だ!」
まるで閻魔の怒号というべき大声だった。
猫又は、片足を上げたまま瞬間的にピタリと止まった。
固まった首を何とか動かして、声の主を探した。
「化け猫か?」
「!?」
大声の主は、年老いた僧だった。
禿頭の頭が、戸の隙間から覗いている。自ら剃ったのか、それとも年齢のためか分からないほど、顔に刻まれた皺は多い。
それがゆっくりと外に歩いてくる。
背筋は曲がり、微かに震えている。
黒い法衣も、灰色に汚れていた。
荒れ寺の僧だ。
新しい着物すらなく、着替えもないんだろう、と猫又は納得した。
彼からかなり離れていたにも関わらず、猫又の鼻には異臭が感じられた。
「ここには入れんぞ。悪しき妖怪めが。」
「うるさいぞ、坊主。ボクがオマエを食いに来た? そんなわけあるかよ」
「ならば、去れ。清廉な魂を地に落とす妖怪が」
猫又は首を捻った。
その僧が変なことを言うからだ。
「何を言ってる? どういうことだ?」
「去るならば去れ。そして金輪際ここにも、あの侍にも近づかないことだ」
「なんで、それを?」
「仏様の加護であろうよ。数年前、目を病んだ拙僧に現在以外のすべての物事を見る力をくださった。そして、お前は去るべきだ。ここからも、あの侍からも。そうでなければ2人とも様々なものを悲しませることになる。そして、そのためにお前たちは大変な目に合うことになるだろう」
「……」
「どうした?」
「なら、そう言ってやれよ。アイツに」
そう言って、僧は首を傾げた。
「お前も、侍から離れたいと思っていないように見えるが」
「おかしなことを言うな」
「輪廻が再び交わる時は、遠い。そして、それは不幸なだけだぞ」
「?」
「だから、去れ」
老僧は、戸をぴしゃりと閉めた。
とても強く。
大きな音が響いた。
猫は、しばらくして鐘の音がして、木魚と読経が聞こえてきた。
気持ち悪くなってきた猫又は、急ぎその場を離れ、山道を駆け抜けていった。
□□□
猫又が去った後、しばらくして沖田が顔を出した。
すでに日は沈んでおり、山の中は暗く、気味が悪かった。
足元は見えず、彼は何度も転んだ。
進むのを諦めようと決意したとき、開けた場所に寺が建っているのを発見した。
「今日は、ここに止めて貰えないだろうか」
そう口にしたとき、奥の戸が開いた。
老僧が、顔を出す
「!?」
「おや。今、着いたか。今日はもう暗い。泊まって行きなさい」
立派な漆塗りのような法衣に、金の見事な袈裟をかけている。
顔に刻まれた皺が、その老練な高僧であることを示していた。
「私が来ることを誰かに聞いていたんですか?」
「まあ、猫が一匹通りましてね。そんな予感がしていたんですよ」
沖田の眉間に皺が寄った。
「まあ、そんな顔をせず、どうです。ご飯でも?」
そこには、数多くの精進料理の品々が膳に乗って置かれていた。
どれも出来立てというように、白い湯気が立ち上っている。
「あの、ここにはあなただけですか?」
「ええ、こんな荒れ寺ですからね」
沖田の頭に少し疑問が過ったが、久しぶりのまともな料理に気持ちが躍っていた。膳の前に着き、夢中でそれを口に運ぶ。どれもとても丁寧に作られていた。
熱いままの料理を誰がという疑問は、食べるほどに消えていく。
そして満腹になると、眠気が洪水のように押し寄せ倒れた。
「今日は、眠りなさい」
そんな老僧の言葉だけが、最後に聞こえた。
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