拾弐)美剣士の、死の床で猫又に遭いし事4

 捕縛。

 投獄。

 尋問。

 捕まった彼を待っていたのは、そんな一連の――かつ、当時は当然の流れだった。

 いつの間にか猫又は肩から逃げていた。去り際にしっかりと情報を仕入れたら戻ってくると約束して。

 沖田が捕まった理由は、彼が堂々と走りすぎたからだ。

 刀を帯び、血相を変え、戦地に向かい走る。

 そんな捕まって当たり前の条件を満たしていては、こうなっても文句も言えない。

 新政府の人間からすれば、そんな怪しい人間を捕まえて尋問するのが仕事である。さらに自分たちに向かって牙を剥いた沖田の印象は最悪だった。

 コイツは、敵であると。

 すぐ江戸に連れ戻され、牢へ入れられた。


「名前は?」

「又兵衛」

 

 尋問を行う獄卒に、沖田は偽名を名乗った。

 だが、とっさに考えられる名前なんて、そんなものだった。


「苗字は? 武士だろ」

「猫田」


 猫又に引っ張られ過ぎた。

 単純で、完成度も何もない、名前。


「で、猫田又兵衛さんよ、どこに行く気だった?」

「会津に」

「刀を持って何を?」

「少しでも戦争の力になればと思いました」

「どっちで戦う気だった?」

「……」


 答えろと、水をかけられる。

 何度も、何度も尋ねられた。

 同じ質問を何度も。それが一日中続く。

 体力も精神も、フラフラになりながらも答え続けた。

 それでも彼は一言も大切なことは言わなかった。

 新選組のこと、自分のこと、何もかもを一切言葉にしない。


 沖田もそれが正しい道と信じつづけていた。

 捕まえた新政府の人間たちもおかしいと思いながら、決定的な証拠を掴めずにいた。

 言わなかったのは、自分のためじゃない。

 猫又に言われたからでもない。

 近藤と土方のために、だ。


「名前は?」

「猫田又兵衛」


 そんな日が2日になり、3日になる。


「何をしに行くんだ?」

「戦争」


 それが1週間になり、1か月になる。

 1か月が、半年になる。


「…………」


 8か月を越えるころ、彼は牢の中に押し込まれたままになった。

 まったくの不干渉。

 それで事態は好転もしなければ、悪化の兆しもない。

 時間だけが無駄に進んで、その流れに置き去りにされる。

 その間にも1人で逃げ出した猫又が沖田をサポートしていた。

 季節は秋になり冬になり、再び春が来る。




 明治2年4月。

 その前年9月8日、年号は慶応から明治へと変わる。正式に明治天皇が即位し「明治」へと改元されたのだ。この日より暦は、明治元年となった。明治の代になり、政治体制は新しいものへと変わろうとしていく。日本の大きな転換期だった。


 ここにも転機が訪れる。

 ひっそり忘れ去られそうになっていた彼にも。

 事実、すでに2か月ほど前から彼への食糧は限界にまで減らされていた。

 普通ならば死んでもおかしくない量にまで。

 しかし、になりすぎた彼の体が死を拒み続けている。

 

 獄吏たちは、余裕であった。

 空腹に動くこともできなかろうと、沖田への警戒を緩めていた。

 

「沖田――いや、猫田か? 死んでるか?」

 

 猫又の、声が聞こえる。

 明かり取りのための小さな窓枠、狭い格子のはまったそこから顔を出し、中で眠っていた沖田に話しかける。数か月中に放置され、風貌は丸っきり変わっている。

 今にも死にそうという顔。

 生きているのが不思議なくらい痩せている。

 尋問拷問はないが、食事のない日々が続いていた。

 空腹という地獄に晒され続けても、彼の特殊な体はまだまだ生命を保っていた。


「ぅ……。そういうのは、良いですよ。何かありました?」

「ああ。戦局が厳しく成りはじめて、さらに北に移動したって」

「移動?」


 会津からの北上。

 沖田の頭にも、それがどういうことか簡単に理解できた。


「蝦夷、ですか?」

「そう。でも、それは進むのが難しくなったってことだ。海がある」

「ですが、ここから出られないことには」


 出られたとしても沖田の状況は、よくない。

 もし土方たちが蝦夷地と呼ばれた北海道に渡っているのなら、そこに行くしかない。蝦夷までの道のりは船になり、軍艦に紛れ込むか近くの漁師から船を借りることになってしまう。そして動かすことはできても両岸を新政府の人間に囲まれては上陸も難しい。

 泳ぐという方法もなくはないが、体力が持つかどうか。

 だが、土方は生きている。

 それだけが希望だ。

 猫又は、牢へと飛び込んだ。格子の隙間を抜け、牢の柵を出て行く。

 牢には立派な錠前が下げられていて、それが開かなければ外にいけない。鍵が必要だ。

 

「鍵……、どこにあるんだ?」

「囚人が知っていたらダメでしょう」

「そりゃ、そうだな」

 

 猫又は獄吏たちの部屋を回り、鍵を持って来る。

 この日、1人の囚人が牢を抜け逃げ出した。

 深夜に逃げ出したために誰も気づかなかった。

 そして、その後も誰も騒がない。

 猫田又兵衛という男が、どこにも存在しない男だったからだ。

 いくら手を尽くして調べてみたところで、そんな人間の痕跡は見つからず、番所の者たちも又兵衛を所在不明と結論付けるしかなかった。

 自分たちの失敗だとは、認めずに。

 偶然ではない幸運が沖田を救った。


 無事に脱獄することができた彼らであったが、時間は無駄に削られた。

 そんな失敗から宿場や関所を通るような正しい道は通ることはできない。

 どれだけ時間がかかるのか。

 

「猫の脚でも急いで1週間ほどじゃないか?」

「1週間ですか……」

「でも、お前の脚は鈍ってるだろ? 20日で着けばいいほうだ」

「なら、急ぎましょう」

 

 この時、4月10日。

 戦争は止まる気配はないが、すでに幕府の侍たちは追い詰められていた。

 とても長くはもたないだろう、戦争の終わりも近いかもしれないとの噂が沖田の耳にも入って来る。

 

「土方さん、北の冬は寒くなかったですか? 俺も急いで向かいます」

 

 北の空に向かい、沖田は呟く。

 時間は、ない。

 道なき道や山の中を駆けた。

 宿場を通らず、関所を避ける。

 走り、休み、走り、休む。

 それを何度も繰り返し、青森の最北端へと辿りついた。

 とはいえ、そこには政府の人間たちがうようよと集まり、海を渡るどころの話ではない。

 ちょうど一隻の軍艦が海に出るところだった。

 船が幾度となく往来し、兵を本土から北の大地へと送り届けている。


「だが、漁船なら大丈夫でしょう。少し遠くなってしまうかもしれないけど」

「さっさと探せよ」


 沖田は、少し眉間に皺を寄せたが怒るまではしなかった。

 助けてもらった猫だという意識が、彼の中にまだあったからだ。

 半日かけて、やっと一艘の舟を見つけた。

 老人に櫂を持たせ、沖田は蝦夷地へと渡る。

 

 

 

 蝦夷地に付いたのが、5月3日。

 戦争の終わりは、いや、幕府軍の壊滅はすでに目前だった。

 土方の命もいつまで持つのか、分からない。

 沖田と猫は静かに五稜郭へと近づく。

 それから1週間、沖田は周辺をうろついた。

 土方を探すために。

 

 時に、土方は仲間の撤退に尽力していた。

 5月11日、沖田もその噂を聞きつけ、そこに走った。

 

 一本木関門。

 幕府の人間たちが通行税を取るために置いた関所であった。

 その外に打って出た仲間を逃がすため、土方は馬上で仲間に指揮を送っている。

 洋装に身を包み、刀を振る姿は副長時代そのものだった。


「土方さん!」


 その姿を目に捕え、沖田は叫び駆けだした。


「我、この柵にありて退く者を斬る」


 土方は、馬上で剣を抜き叫んだ。

 戦場の音で、向こうは聞こえてないのか?

 沖田は走る。


「土方さん!」


 叫んだ。


「土方さん!!」


 死ぬほど疲れていた。

 それでも血を吐きながらも走り、叫んだ。



 ――!

 


 轟音が鳴り響いた。

 大きな音と土煙が、すべてを覆い隠した。

 土煙がゆっくりと晴れていくと、恐ろしい景色があった。

 関所の門はなく、燃える木の柱がそこに残っているだけだった。

 沖田も猫又も、何も言葉が出なかった。

 そこに一つの影が、現れる。

 黒いなにか――人のような、獣のような。


「――」


 影は、何かの言葉を発すると消え去った。

 影がいた場所、そこに沖田は近づいて行った。

 地面をえぐったような大穴が開いている。

 門を作っていた柱が燃え盛り、千切れた馬の四肢や頭部が散らばっていた。

 まるで遠くの空から何かが降り注いだようだ。

 だが、残念なことに、穴の中に土方の姿はない。

 

「土方さん……、土方さんっっっ!!!」

 

 その名を呼んでも、返ってくるものはなかった。

 彼の体は、この世から消え去ったから。


「チッ」

 

 猫又の舌打ちと、沖田の慟哭だけが虚しく風に消えた。

 土方は、その戦争で死んだ。

 沖田の目の前で。

 そして悲しみにくれる沖田総司は、猫又の前から姿を消した。

 

 

 

 彼は、後悔していた。

 誰も救えぬ後悔を、し続ける。


「近藤さん」


 沖田は、しっかりと見た。

 無残な首を描いた瓦版で。


「土方さん」

 

 沖田は、しっかりと見た。

 大きな穴には何もなかった。

 

「救えない」

 

 誰も。何も。

 

 

 東京となった江戸の片隅に、彼はいた。

 小さな部屋で、ひっそりと慎ましやかな生活をしながら。

 名前を偽って生きていた。

 もう沖田総司ではない、一人の人間だった。

 文明開化の世の中では、侍は生きていけない。

 彼は自分の時代の終わりを知り、自ら死を決意した。

 

 沖田総司は、死んだ。

 そしてもう一度死ぬ。

 

 猫又と別れ一人で生きる日々が続いていたが、沖田の精神は限界を迎えていた。

 短い刀を手に入れて、死に装束に身を包んだ。

 この世に未練はなかった。心残りがあるとすれば、介錯がいないことだけだ。

 彼は、最期まで侍の時代に縛られたままだ。

 

「今、逝きますね」

 

 白い着物を脱ぎ、真っ白な腹部を晒す。

 短刀に手を掛け、構える。

 鋭い刃を、腹に向け――

 

「グ……」

 

 ゆっくりと左の腹から右へ。

 猛烈な痛みが、来る。

 

「……」

 

 それもすぐに終わる。

 沖田は血に染まった刀を首に当て、一気に引き抜くとそれを放り捨てた。

 ただ死を願った。 

 沖田は、眼を覚ます。

 眠っていたみたいだった。

 

「?」

 

 腹には、傷一つない。綺麗な白い肌のままだ。

 ただ着物は真っ赤に染まり、倒れていた畳にも血が付いている。

 

「これは、夢か?」

 

 いや、違う。

 時刻は夕暮れになってはいたが、確かに自分の部屋だ。

 少し離れた所に、小太刀も転がっている。

 刃は、真っ赤に染まっていた。

 沖田の血と肉片が付き、渇いていた。

 触るとボロボロと落ちる。


「なんだこれは?」


 しかし、思い出す。自分が1度死んでいたことに。

 猫又の力で2度目の人生を送っていた存在であることに。

 たぶんこの体が死を拒絶している。

 直感的に、理解した。


 そして、それは……

 沖田がいつまでも近藤と土方のもとに行くことができないということを指していた。

 それは、嫌だ。

 猫又を探すため、沖田は短刀を持ち駆け出した。

 

 数か月、東京の路地裏で猫又と出会う。

 猫又は、といえば、猫たちに仲良さそうに暮らしているようだった。

 数匹のメス猫と子分を連れて。

 沖田とともにいた時間なんて、すっかり忘れてしまっているようだ。

 

 路地裏はまだ日の高い時間でも薄暗い。

 眠い目をしたノラ猫のかっこうの休憩場所だろう。

 そこに沖田は、勢いよく飛び込んだ。

 

「どういうことだ?」

「……沖田」

 

 あれから3か月が経過していた。

 

「ん? で、何が?」

「これだ!」

 

 沖田は、おもむろに袖を捲り上げると、小太刀で腕を深く斬り裂いた。

 一度は勢いよく吹き出した真紅。

 その血潮もすぐに止まり、大きく開いた傷口はゆっくりと両端から閉じる。


「気持ち悪っ」

「うるさい。そう言うことじゃないんだよ。どういうことだ?」

「さあ?」

「『さあ』!?」

 

 猫又は本当に知らないようで、傷口の閉じる様子をしげしげと見つめている。

 

「あの、落ち着いて聞いてくれ」

 

 猫又は、前足を上に上げ、斬るなと示す。


「実はな、『跨ぐ』っていうのを使ったのは初めてなんだよ」

「つまり?」

「オマエに何が起きているのか。まったく分からない」

 

 一度も使ったことのない力。

 力がどういうものかも、猫又は理解していなかった。

 

「あれだけ自信がありそうなことを言ってたくせにか!」

「そうだよ。まったく知らん。なんで死んでねえんだ。死ねよ」

「黙れ。……ということは、解き方は?」

「知るか、そんなの」

 

 沖田は固まるしかない。

 このまま死ぬことができず永遠を生きる日々を思った。

 それは、やはり地獄だろう。

 

「じゃあ、このまま何ですか?」

「死ねない体。いいじゃないか」

「……」

 

 頭を抱えるしかない。

 いや、事実沖田は頭が痛み始めた。

 

「まあ、不死身なら不死身でいいじゃないか。気にするなよ」

 

 ハハハと笑う猫又。

 対する沖田はとうとう堪忍袋の緒が切れた。

 

「死ね! 猫又!!」

「いやいや、斬れないよ。オマエじゃ」

 

 ハハハハハハハハと笑い声は遠ざかる。

 それを追おうと沖田も全力で駆けだした。

 

 

 

 明治3年、オニごっこがスタートする。

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