拾壱)美剣士の、死の床で猫又に遭いし事3

 慶応四年の五月三〇日

 剣豪・沖田総司、肺結核で死去

 


 その日より、少し前の江戸。

 江戸の夏は、そこまで暑さ厳しくなく、いつもよりは少しだけ過ごしやすかった。

 梅雨が終わり、どこか近づいてきた夏の気配にセミたちも少しやかましくなってきた。

 どこかで風鈴の音がする。

 風には、うっすらと草いきれの甘い匂いが感じられた。

 だが、忙しく時代は移ろい、

 ゆっくりと時は流れていく。


 千駄ヶ谷の植木屋・植甚。

 江戸幕府はすでに滅び、江戸城も開城された。

 ひとつの時代が終わろうとしても、人の心は、ずっと何かに縛り付けられたままだ。武士という身分や慣習か、大切な何かを奪った報復か。

 もう争いは止まらない。

 

 旧幕府の者たちは、会津まで撤退し、東北の勢力も会津を残すのみになっていた。

 新選組は――いや、新選組と呼ぶにはあまりに人の減ってしまっている――副長・土方歳三の指揮のもとで奮戦していた。

 だが、戦況はひどいものだ。

 京都の鳥羽で発生した戦いも、敗北に敗北を重ね、撤退に次ぐ撤退。

 東北まで押されていたのだから、あとはさらに北に海を渡るしかない。

 その争いから取り残された男。

 沖田総司は、江戸にはいた。


 夏の暑さにも関わらず、沖田は部屋に籠り布団で眠っていた。

 ときおり病に臥せることに耐えられなくなって、縁側に座って庭を眺めた。ゴホと咳をしては、抑えた手が真っ赤に染まる。咳に混じる血が多くなっている。

 死期が迫っていた。

 大病を患い、植木屋の一室で養生している。

 とても戦争ができる体ではないと、ここに置いて行かれたのだった。

 長い髪を手入れせずに下し、隠れた顔の美しさは消え、ひどくやつれていた。

 新選組で最強の剣士の、面影はそこにはなかった。

 健康ならば今も剣を振るっていたのに。

 顔にも体にも一切の覇気がなかった。

 彼に残された時間は、もう……。

 

「にゃあ」

 塀を乗り越えて、猫又は庭に入り込んだ。

 一人の力では無理だったが、女の子に手伝ってもらっていた。

 

「猫、また来たのか」

「……」

 

 いつも黙っていた。

 言葉は分かっていても、黙っていた。

 でも、今日は違う。

 

「辛そうだな」

「……!」

 

 急に猫が喋り出したことに驚いていた。

 口をパクパクとさせ、すぐには言葉が出ずにいる。

 そこに猫又は、疑問をぶつけてみた。

 

「もうすぐ死ぬかもしれないな」

「お前が? 本当に?」

「死ぬのは、怖いか?」

「猫が喋っている……。キサマ、化け猫か?」

「猫又ってヤツさ。なあ、オマエ、死にたくないか?」

「死ぬことは、構わん。だが……」

「だが?」

 

「近藤さんと土方さんのために、死にたかった」

「近藤?土方?お前らの仲間か?」

「ああ」

「ギザギザの袖の奴らだろ?」

「うるさい。あれは俺の誇りだ。誇りの羽織なんだ。俺は、誇りのために死にたい」

 

 男は叫んだ。

 叫んだ口から赤い血が零れる。

 そうだ。彼は、二度と誰かのために死ぬことはできない。

 ここから動くこともできない体なのだから。

 

「もう、無理な話だ。自由にならぬ体だろ」

「それでも。動こうと思えば」


 男は立った。

 力も入らぬ四肢で、無理やり立ち上がった。

 そして男は、床の間の刀に手をかけ、鞘から抜き放つ。

 白刃が、空を切った。

 水平に薙ぎ払われた刀を、猫はひらりと躱す。

 

「2度目だな」

「……!」

「お前に、斬られかけるのは2度目だよ」

 

 猫は、細い刀の刃の上に立っていた。

 

「化け猫め」

「猫又だよ。一緒にすんな。というか、遅いんだよ、猫にも止まって見えるくらいだ」


 猫又は、刃の上から降りる。

 まるで小さな段差から床に降りたみたいに、何気なく。

 

「ごほ」

「重病人が……。死ぬぞ」

 

 沖田は、刀を放り捨て、床に倒れた。

 猫には、愛する少女のために、彼に死んでほしくない理由がある。

 沖田には、大切な仲間のために、ここで死ぬことができない理由があった。

 

「生きたいか?」

「生きたい」

 

 血が零れても、叫ぶ。

 

「戦いたい」

「お前を、生かすことができるかもしれない。どうする?」

 

 沖田は、少しだけ迷(まよ)った顔をする。

 でも、すぐにその迷いは消えた。


「やってください……頼みます」

「では、お前の命が尽きたとき、また来る」

「猫!」

 

 後ろで、叫び声がした。苦しそうな咳も。だが、猫又の力は、病気を治すものではない。死んだものを、再び「起き上がらせる力」だけなのだから。

 今ではない。

 哀しくても。

 どうすることもできない。



 五月三〇日。

 沖田総司、永眠。享年二四。



 顔には白い布がかけられて、遺体は今まで生活していた離れに安置された。家の者は、葬儀の準備をはじめている。その遺体は、一人静かに家の者から離れて眠っていた。

 

「沖田総司、約束を守りに来てやった」

 

 家の者が忙しく走り回っていたその日の夜、入り口から堂々と入ってきた猫に誰も気づかなかった。最近、少女の姿が見えず、塀を飛び越える方法を考えていた猫又だったが、すべて無駄になった。

 

「さて、やるか」


 猫又はトコトコと走って来て、彼の体をぴょこと跨(また)ぐ。その小さな足で、彼の体の上をピョンと飛ぶだけだ。

 それだけだ。


「たぶん」


 というのもこれをやるのは初めてだった。

 武士の時代が成立する以前に生まれた猫又も、それまであらゆる生物の誰とも深い付き合いをしてこないでいた。他の生物との繋がりは、とても希薄だった。

 誰ともそんな価値を見いだせない。

 そんな妖怪だった。

 繋がりの薄さゆえに、誰かを起き上がらせることを「したい」とは思わないで生きて来た。

 今、初めてそう思える人がいる。

 他の人間のためではあったが。

 猫又は、飛び越えて少し待った。

 でも、起き上がる気配はなく、もう無理だと諦めようと思い始めたころ――

 

「ん……?」

 沖田は、目を開けた。

 

「猫、来てたんですか。今日こそ、俺を治してくれるんですよね?」

「いや、オマエ、知ってるか? 『猫が跨ぐと死人が起き上がる』」

「あー、アレデスヨネ。ソウデス、知ッテマス」

「嘘だろ」

「……」

「まあ、いいや。オマエは今日死んだ。それを起き上がらせた」

「嘘ですよね?」

「いんや。本当だ」

「でも、こうやって動いてますよ?」

 

 猫又は、クルリと身をひるがえした。

 2本の尻尾(しっぽ)をだし、振りながら部屋を出る。

 

「誰か来る。見つかるとかなり面倒だ。外に行こう」

 

 沖田は適当な着物と刀を持ち、外へと飛び出した。

 家の中では、その後大きな騒ぎとなったのだが、遺体がなくなるという事件を外に出すことができず、後の歴史には一切残っていない。

 1人と1匹は、屋敷から離れた所で落ち合う。

 誰か沖田を知るものに見つかったらマズイと人通りの少ない道を選び、近くのお寺の影に身を潜めた。

 身をかがめ、誰かから逃げるように。

 

「で、どういうことです?」

 

 沖田の声は、少し怒りが混じっていた。

 

「オマエは死んだ。ボクが起こした。それだけだ」

「死んでるんですよ。問題以外の何物でもないでしょう?」

「?」

 

 分からない。

 なぜ、沖田が怒っているのか分からなかった。


「お前は、そうして動いているし、剣も振れる。息だって苦しくないだろ?」

「……」

 

 沖田は、剣の柄(つか)をギュッと握った。

「戦いに行ける。オマエが困ることは何もないはずだ」

「そうか……そうですね。」

 

 沖田の顔の影は晴れ、笑った。

 そうして、駆けだした。

 

「近藤さんと土方さんを追いかけます!」

 

 その先に、どんな未来が待っているとも知らずに。

 沖田を待ち受けていた未来は、辛いものだった。

 近藤はすでに死亡。板橋にて「斬首」されていた。

 武士として「切腹」することを望んでいた彼ではあったが、結果は罪人とされて処刑されることになってしまった。それを知った沖田は、一人で政府側の拠点の京都まで走り、全員を切り殺すとばかりに激高した。

 兄のように慕った人物を殺された恨み。

 強い怨念が、沖田の思考を妨げた。

 感情論では、戦いには勝てない。それは、多くの人間がすでに犠牲となったこの戦争で明らかになったことだ。反省はいつの時代も成されないものだというのを、猫又だけが知っている。

 だからこそ、猫又はそれを止めた。

 

「行っても意味はない。それに一人の力では限界があるよ」

「だが、あの人の誇りは!」

「俺は、知ってるよ。壇ノ浦で沈んだ平家の一族も、後の代まで歌われている。それに勝った源義経という男は、真に伝説として語られているじゃないか」

「……」

「いつか、この世から侍がいなくなっても、世界はその歴史を忘れないよ。だから、今はもう一人を探すことだけ考えたらいい」

 

 沖田は、踵を返し、歩いた。

 駆けた。

 まだ土方歳三がいると。



     ◆



 彼の行き先が分かったのは、数日後のことだった。

 まだ知り合いが何人もいた江戸の地で、死んだというのに顔を晒すことはできない。

 慎重に隠れながら動かざるを得なかった。

 

 情報は、マタさんが運んでくる。

 沖田は、思考する。会津までどうするか。

 

「とりあえず、オマエ。刀を捨てろ」

「何を言うんです」

「戦争なんだ。いつまでも、そんなの持ってたら目を付けられて終わりだぞ」

「これは、武士の命です」

 

 沖田の強固な姿勢に猫又は黙った。

 しかし、その頑固さは、問題となる。

 江戸を脱し、宿場を通り抜けながら会津へと向かう。

 その道中には、言わずもがな新政府側の人間が待ち構えている。沖田総司の顔を知っている者は、多くはないはずである。が、死亡説が流れ出し始めた今、あまりに危険だ。

 そして、何より沖田本人は帯刀している。

 

 刀を持っていることで目を付けられて、捕まったら元も子もない。

 そのことを沖田自身は重要視していない。早く辿りつきたいという気持ちが強くなりすぎて、危険性をすみずみまで考えられていなかった。

 問題が起きたのは、江戸を脱出し、会津までもう少しというところだった。

 

「待て」

 新政府側の人間だった。

「戦争を知らんのか」

「知るか」


 沖田は左手を刀にゆっくりと添える。

 刀を抜き放とうとする構えに、男は笛を吹き鳴らした。そして、すぐさま笛を鳴らした男は距離を詰め、沖田の剣の柄を抑え込む。

 柄頭を抑えられてしまえば、抜くことはできない。

 武器としての意味を失う。

 

「やめろ!」

 

 沖田は、怒気を込め叫んだが、相手も名うての侍。

 それくらいで恐れる者たちではない。

 

「幕府の人間だろ?」

「詳しく聞かせてもらおうか」

 と集まってきた男たちは、縄を持ちじりじりと迫る。

 

「あああああああああああああああああああああああああああああああ……」


 沖田総司は、新政府軍の人間に捕まった。

 これにより大きく進行を阻害されることになる。

 刀は奪われ、

 縄で縛られ。

 このまま捕えられれば時間の無駄どころか、命さえ危ぶまれる危険がある。

 

「なにしてんだか」

 

 猫又は、その陰で呟いた。

 物陰から飛び出して、沖田の肩に飛び乗る。

 その耳元で猫又は囁く。

 

「絶対本名を名乗るなよ。オマエが沖田だと知られるな」

 

 

 沖田総司、絶体絶命の危機であった。

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