伍)海の外の鬼、人を喰い子とせし事2
時計は午後9時を回っている。
民家の灯りさえ少なくなる時間。
ポツリポツリとある街灯の光だけが道を照らしていた。
暗い夜の道には、あまりに心許ない小さな灯りだ。
そこに、音もなく現れた影。
ローブを被った人、だと思う。目深に被ったローブのフードからは、鼻から下だけだが、青白い皮膚が見て取れた。
「フー、フー」と荒い息遣いが聞こえる。
血のように赤い口は開き、寒くはないのに白い息が漏れている。
性別は、分からない。ローブのせいで、体の線を判断することはできない。
だが、開いた口からたまに男のものと思われる低い声が漏れ聞こえる。
影の性別を知る、唯一の証拠だった。
「bい◆?え◎……、b▽v★!$〇……」
何を言っているかは分からない。
影はゆっくりとこっちに近づいてくる。足音もしなければ、頭の位置がまったくぶれていない。道の上を 滑る影のような歩き方だ。
「なんだ、コイツ」
「ねえ、これ、ヤバそう……」
昂作もモミジも危険な空気を感じ取ったようだ。
逃げなきゃ。
そう思った。
これは人間じゃない。
私は2人の手を掴んで、そのまま後ろへと駆け出す。すでに冷静な判断はできていなかったと思う。影が一瞬にして私たちの前に姿を現したという事実。そのことを少しでも考えられていれば。
「ちょ――ちょっと……、京香」
「モミジ、しゃべらないで走って!」
「違う! 前!!」
そうだ。考えていれば……。
目の前が黒く染まる。
「ヒッ……」
ローブの男は、再び一瞬にして私たちの前へと姿を現した。
後ろにいた。なのに、いきなり前に。
恐るべき速さだった。
人間という生物の規模を越えた、何か。
――化け物。
目の前の影は、ローブの下の手を頭の上までゆっくりと持ち上げる。細く真っ白な腕。
血の通わない死人のような腕だった。白さのせいか、黒く濁った血管が皮膚の上にまで浮き出ている。
男は、腕を振り下して叫んだ。
「――!」
「!」
男の後ろから、4つの影が飛び出す。
私たちは、突然のことに固まって、逃げることができなかった。
影は、どれも髪をふり乱した女たち。牙を剥き、私たち目がけて飛び掛かってくる。女たちの目はどれも血走っているし、舌がダラリと口から垂れている。それを見れば、どうしても彼女たちが正気であるとは思えなかった。
しかし、町の裏路地に、逃げ場はない。
「もうダメっ……」
私は目を瞑り、諦めた。
でも、いっこうに敵が向かってくる気配はない。
恐る恐る目を開ける。
「………、ん?」
昂作とモミジは立っていた。
2人とも顔の前に通学用のバックを構え、4人の敵を防いでいる。
教科書や塾のテキストの入ったバックは通学には重すぎる。
でも、その不必要な重さと頑丈さが、丈夫な盾となってくれた。
4人の女たちはカバンの盾にぶつかって、地面に倒れ込んでいる。全力でぶつかったのか、ダメージは相当大きいようだ。全員、すぐには立ち上がれそうもない。
自業自得だろうけど。
「大丈夫か? 京香」
「……ええ」
昂作が振り返り尋ねた。
そんな彼は、とても凛々しく見え、もう一人の彼女もとても逞しく思えた。
いつもの友だちの顔とは違う。
勇敢な戦士の顔。
「モミジ」
「わかった」
昂作はモミジに鞄を放り投げる。
鞄は10キロくらい軽くあるはずなのだが、それを片手で1つずつ持つ。
そして、その2つを上手投げで、「うりゃあ」とローブの男に投げつける。
まるでボールを投げるみたいに軽々と。
2つの鞄が不意に直撃した男は、声を上げる間もなく倒れた。
「今のうちに、逃げるよ」
モミジが振り返って走り出す。
それに続くように、私と昂作も駆け出した。
駆けて、駆けた。
町の中を駆け回って、逃げ入った先は近くの廃工場だった。
開いていた窓から逃げ込んで、鍵を閉める。
昂作は、目だけを出して外を覗いている。
「まだいる?」
「いる」
上がる息を必死に抑えながら、低く呟いた。
私も覗いてみれば、外ではすでに追いかけて来ていた5つの影があり、それぞれがゾロゾロと動いているのが見て取れる。私たちは声を潜め、窓の下に隠れていた。
彼らに見つかったら、どうなるのかは分からない。
だが、良くないことが待ち構えていることだけは確かだろう。
あれが犯人だとは……
4人の女性を誘拐したという犯人。
一緒にいた女性の数も合致する。
ただ犯人は、人ではなく化け物だったみたいだ。
「大丈夫かな。私たち」
「大丈夫だろ」と他人事のように、昂作は答える。「なんとか頑張るさ」
泣き言を口走る私を、昂作の軽い態度が奮い立たせる。
少しだけ勇気も湧く。普段ならムカつくところなのに。
「ぜってー逃げ切んないとな」
昂作は、また外を覗いた。
しかし、二人ともよく機転が利く。
本当に犯人を撃退してしまう彼女もスゴイ。
「モミジも大丈夫?」
「ん、何が? あ、肩の話?」
肩じゃないんだけど。と思ったけれど、そう言えば重いバッグを投げていた。しかも、ボールのように上手投げで。
「砲丸投げ」が上に向かって押しだすような投げ方をするのは、普通の投げ方をしてしまうと肩を壊すからだ。
なのに、モミジは何ともない様子。
「……。で、でも、助かったよ。ありがと、モミジ」
「いいよ。そんなの」
「おい」
昂作が、口に人差し指を当てる。
「静かに、……様子が変だ」
昂作はずっと外の様子を見ていたようだった。
私たちは、声のボリュームをさらに落とす。
静かに窓際に集まると、揃って外を覗き見る。すると、影が1つになっていた。
いるのは、ローブの男だけ。
他にいた女の人たちが1人もいなくなっている。
なんで……?
すぐに、後ろからガタガタと音がした。
ゆっくりとした足音が聞こえ、それは次第に近づいてくる。
4人の女たちは中に入り込んできていた。こちらにはまだ気づいていないようだが、覚束ない足取りでフラフラと窓の方にやって来る。
どう見ても、ふつーではない。
「なんだろ、あれ? なんか変」と私。
「操られてる、とか……」
「どういうこと?」
昂作は笑うことなく真剣な顔のままだ。
「――いや、そう見えるなって」
4人の女は、私たちの方を向いた。
顔は、やはり生気も血気もない。
焦点の合わない目が、私たちを見つめる。明らかにそれは正常と言えない表情だった。
何故、こっちを向いたか。
それは私たちに気づいたからではないようだった。
『ドウゾ、オハイリクダサイ』
4人の女が全員、揃って声を発した。
窓の向こうの、影に向かって。
発音はカタコト。正しいイントネーションではなく聞き取りづらいものだったが、彼女たちが外の男に言ったのは間違いない。
外に向かって、彼女たちはゆったりとした動作で手招きをした。
「ヤバいかも」
「えっ?」
昂作の声に、私は聞き返すことしかできなかった。
しかし、他の2人は違っていた。
まったく分かっていないのは、私だけ?
私はぐいと引っ張られ、そのまま脇を両側から抱えられる。
4人の女たちの方へ、後ろ向きの連れらされる。
「え? え?」
直後、轟音と共に壁が破られた。
ローブの男が工場の分厚いコンクリートの壁を破壊しながら、工場内へと飛び込んできた。人の体当たりではない。まるで、トラックか何かが飛び込んできたようだった。
「!」
呆然として声も出ない。
飛び込んでくる男を、察知した2人は何者なんだろ。
それに比べて私は。
4人の女の横をすり抜け、奥へと逃げる。
「なあ、モミジ」
「ん?」
私を抱えながら、走る2人は息を切らせることなく会話している。
こんなキャラじゃなかったはずなんだけどな。
何があったの、二人とも。
「あれは、無理だよな?」
「あのコンクリート破るような奴を? 無理でしょ?」
「だよな……」
「せめて、4人のほうじゃない?」
2人は短く笑うと、近くの部屋に飛び込んだ。
どうやら更衣室だった場所のようだ。
古い金属のロッカーがいくつも並んだままになっていて、床にもボロボロの作業着や鉄パイプなどがいくつか転がっている。ホコリっぽくて、汚い。
昂作とモミジは鉄パイプを拾うと、軽く素振りをした。
剣道の経験なんてないはずなのに、意外とかなり様になっている。
「戦うの?」
私は、震えた声で尋ねる。
「まあね」と昂作は笑う。「でも、その前に……」
2人は何も言わずに、私をロッカーの一つに押し込んだ。
「ちょっ――」
「ここに隠れててくれ。アイツら、片づけてくるよ。時間が経って戻って来なかったら、1人で逃げろ」
ロッカーのドアが閉められ、2人は勝手に行ってしまった。
すぐにドアを開けたが、2人の足音もどこかへと消えていた。
どうにかして助けたい。
でも、自分1人ではどうすることもできない。
こうして考え、悩んでしている間にも、時間はどんどん経っていくのに。
誰かがいてくれたら。
私には、何も――
「何もできない」
でも、それでも助けを呼びに行くくらいはできるはずだ。
助けなきゃ。
意を決して部屋のドアを開け、こっそりと抜け出した。
この廃工場は、あまり広くない。せいぜい学校にあるような400メートルトラックより少し小さい程度だと思う。こう言えば広く感じるかもしれないけど、今は広さが問題じゃない。
その範囲の中に、5人も敵がいる……。
敵の誰に見つかってもアウトという無理ゲー。
見つからないで脱出なんてできるんだろうか。工場の中の通路のどこに敵がいるのか分からないのに。
いいえ、違う。
私はここから逃げて助けを呼びに行く。
友だちのため。2人のために。
ドアを開けて、外を見る。
さっきは左から来たから、そっちに向かう。道を左に曲がって、さっき男が開けた大穴から出ればいいはずだ。単純な話だけど、そう考えていた。しかし、単純に考えた答えは、やはり上手くはいかない。
大穴の前、そこに女が1人いたからだ。
「ミツケ、タ……」
普通ではない発音。すぐに日本語だとは理解できなかった。
「ねえ? なんで?」
「アのヲカタにケんジョー……」
「なんで、アイツの味方をするの?」
言葉は届かず、その女が襲いかかってくる。
血走った目は、相変わらず焦点が合っていない。この人は自分が何をしているのかも分からないんじゃないだろうか。相手のことを心配している場合じゃないのに、そんなことを考えてしまう。
そのせいか、行動がワンテンポ遅れた。
逃げなきゃ。
でも、私の運動神経は良い方ではない。
『逃げないと』という思いが先走ってしまったのが失敗だった。床には先ほどの砕かれた破片が散らばっている。
その1つ、大きな破片につまづいた。
つまづいて床に転がる。落ちた所に破片がなかったことは幸いだ。
が、彼女は襲い掛かるのを止めていない。
私に飛び掛かって、くる――!
捕まる。
そう思った瞬間だった。
「 ウニャアアアアアアア!」
猫の声。
同時に、黒い影が女に突っ込んだ。
「マタさん!!」
「ふにゃああ!」
マタさんの体当たりが当たった。
彼女は崩れ落ちる。
少し大きな猫くらいのサイズしかないマタさんも、全速力となるとその速度は信じられないほどになる。全力の体当たりが当たったんだ。ダメージは相当だろう。
「マタさん! 助けに来てくれたの?」
さすがのマタさんも少し息が上がっている。
全力だったみたいだし。
「まさか、こんなことになってるとは思わなかったけどね」
それは、私だってそうだ。
まだ家にも帰ってないんだから。
「でも、助かったよ。ありがとう」
「お前の帰りが遅かったからな。ご飯がないんだ」
「素直じゃないなー」
「フンっ」
少しだけ、安心した。
でも、まだ状況は好転しない。
「2人が大変なの。どうにかなる?」
「ボクが、こんなことも想像してないと思ったか?」
「どういうこと?」
マタさんは、口に手を当ててニタニタしている。
カワイイだけだった。
「沖田の前をわざわざ素通りしてきたんだ。ヤツも追っかけてきているはずだ」
「?」
でも……、
周りを見回してみる。
どこにもいない。
「ついて来てないみたいだけど……」
「えっ!?」
沈黙が2人の間に流れる。
……。
……。
「速く、走りすぎたみたいだ」
「ええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!」
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