現在⑨
誰かに背中を押された感触があった。
「え……」少年の口から小さな声が零れ落ちた。
少年の目前には電車が迫っていた。駅のホームに立っていたところを線路に突き落とされたらしかった。
目に映るすべての映像がスローモーションになっている。死に
誰かに恨まれていたのだろうか──しかしすぐに、いや、殺されるほどの恨みを買った覚えはない、と否定した。
ふと、とあるニュースを思い出した。最近、日本全国で赤の他人を突き落として電車に轢かせる遊びが、一部の若者たちの間で流行していると伝えていた。
自分もそのターゲットになってしまったのかもしれない。この推測を否定する材料はなかった。
まぁ積極的に肯定する材料もないんだけどね──心でつぶやいた。
もうどうにもならない状況だからだろう、怒りではなく諦念が湧いていた。こうなってしまっては腹を立てて無駄に疲れるよりも穏やかに受け入れたほうが楽だと無意識的に判断したのかもしれない。
電車に触れた。そして、少年は無惨で汚らしい
──なるはずだったのだが、なぜかカフェのテラス席で冷たいシトラスティーを飲んでいた。仄かな甘さと果実のさわやかな風味がとてもおいしい。今までで一番かもしれない。
「どうして僕はまだ生きてるの?」少年は向かい側に座る虹色の髪の女性に尋ねた。どんなセンスをしてたらその髪色にしようと思うのだろう、という疑問は心の裡にとどめておく。
「死んでますよ」虹色髪の女性は淡々とした口調で答えた。「今のあなたは精神だけの存在です」
「スピリチュアル的な?」
「そうです、そんな感じです」虹色髪の女性はうなずいた。「スピってるんです」
「へー」本当かなぁ、と疑いつつ首を回して辺りを見ると、自分と虹色髪の女性以外誰もいないことに気がついた。
ビルや信号機のある街中なのに人の姿がまったく見当たらない。物音もしない。
うへぇ、ガチっぽいよ──少年は顔をしかめた。嫌な予感がしていた。きっとこの女性は、「察しているとは思いますが、わたしは神です」などと言ってくるのだ。で、こちらの意思なんてお構いなしに、「世界を救ってくれ」とか、「わたしの代理人として戦え」とか言うに決まっている。そういう物語を見たことがあった。自分もそのケースに当たってしまったのだろう、と嘆く。
「察しているとは思いますが──」少年の予想どおりの言葉を虹色髪の女性は発した。「わたしは神です」
「……そうなんだ、大変だね」気のない相づちを打ち、ストローを吸った。やっぱりすごくおいしい。
「いえ、別に大変ということはありません」
「あ、そう」
「けれど、退屈ではあります。なので、あなたには別の世界に行ってもらいます」虹色髪の女性は断定的に言った。
「ああ、そういうあれね」
人間を別の世界に送り、その人間が戸惑い、苦しむ様を眺めて暇潰しをしようというのだろう。そのパターンの物語も少年は知っていた。
「ええ、そういうあれです」
それから、神を自称する頭のおかしい髪色の女性は、此度の憑依・転生の仕様を語った──少年はシトラスティーを飲みながらぼんやりと聞いていた。チートは掲示板能力だけらしかった。
「──以上で説明は終了です」
グラスが空になったころ、虹色髪の女性はそう言って話を締めくくった。
憑依・転生のすべてがランダムで決まるという。ガチャ運には自信ないんだよなぁ、と不安になっていると、
「おかわりはいりませんか」
虹色髪の女性が温かみを感じさせない語調で聞いてきた。その手には薄茶色の液体の入ったグラスがあった。さっきまではなかったはずだが、魔法か何かを使ったのかもしれない。
「欲しい」少年は欲望に従った。神製だからか、非常に美味なのだ。もっと飲みたい、早く早く、と魂がシュプレヒコールしていた。
「どうぞ」虹色髪の女性はグラスを差し出した。氷が動き、涼やかな音を鳴らした。
「ありがとう」少年は早速ストローに口を付け、ちゅーちゅーと蚊のように液体を吸った。
「おいしいですか」虹色髪の女性の顔色は、髪色とは対照的に無色透明だった。
少年はストローから口を離し、「おいしい」と答えた──そこで異変を感じた。頭の奥が軋むように痛んだのだ。視界が歪んでいた。吐き気も込み上げてきた。
何が起きてるの……?
混乱する少年の耳に虹色髪の女性の声が入ってきた。「いい感じですね」穏やかな声だった。
「な、なにを、いって……」しゃべるのも楽ではなかった。途切れ途切れになってしまった。
「昨日読んだミステリー小説に毒殺トリックが出てきたんです」虹色髪の女性は湿度のない口調で言った。
「はぁっ、はぁっ」
「それで、わたしも毒殺というものをやってみたくなったんです」
「──っ、──っ」まともに呼吸ができなくなってきていた。少年は胸に手を押し当てた。苦しいっ、苦しいっ──。
「苦しいですか」
虹色髪の女性の声に答えてやる余裕はなかった。少年はテーブルに伏して、ただ
「苦しいですか」同じ声音、同じ速さで問われた。
「──」
「苦しそうですね」
「──」
「不満ですか」
「──」
「不満そうですね」
「──」
「次の人生はもっと苦しいといいですね」
「──」
「さようなら」
「──」
少年の精神は暗闇へと落ちていった──
──次の瞬間、少年の目の前には一人の少女がいた。セミロングの黒髪の、人形めいた美貌の少女だった。
えっ、えっ、何がどうなってるの。
目まぐるしく進む事態に少年の脳は処理落ちしたかのようだった。理解が追いつかない。
しかし、苦痛が消えているのはわかった。少しだけ安堵した。
「──それでね、みんなわたしのことを怖いって言うの」少女は無表情のままそう言った。
「な、何の話をしているの?」少年は尋ねた。深い考えがあっての問いではなく、半ば反射的に口から出てしまったものだった。
「──えっ」少女の瞳に動揺と困惑の光が宿った。
「ど、どうしたの? 大丈夫?」ここでようやく少年は気がついた──あれ、僕の声じゃない? と。
少年の声は思春期が訪れる前の幼い子供のような声になっていたのだ。しかも、少女の大きさもおかしい。まるで巨人のよう──いや、これは僕が小さいのか……?
「……」少女は眉をひそめてこちらを見ている。
「……」少年も少女から視線を逸らさない。
沈黙に支配された時の中で、少年は冷静さを取り戻していった。そうすると、現状を推測することは難しくなかった──あの
「ロカチークンなの?」不意に少女はそう口にした。「わたしのロカチークンなの?」と。
誰それ? という疑問が口から飛び出すより先に、少年の頭は情報の奔流に呑まれた。会話どころではない。強烈な頭痛に襲われ、「ぅぅ……」とうめき声が洩れ出た。
「ロカチークン?」少女の声は遠い。
「ちょっ、と、まっ、て」何とかそう答えた。
やがて頭痛が治まった時には、少年はすべてを理解していた。
自身の中にある記憶によると、少女の名前は桜小路雫由と言うようだった。
そして、少年の憑依先の存在はロカチーと言うらしい。
このロカチーだが、彼(?)は人形だった。ホラー映画に登場するうさぎ耳の殺人人形だ。全長は二十五センチほどで、実物よりは小さいらしかった。が、その身体能力は原作映画と寸分たがわず、人間を惨殺するに十分すぎる──その確信があった。
雫由は人形でしかないロカチーを友達だと思っているようだった。実際に物理現象としての言葉が返ってくることはなくとも、彼女とロカチーは毎日、会話を交わしていた。
そのロカチーが突然、空想の世界から飛び出してきて現実の世界で動き出し、声を発したのだ。雫由が動転するのも当然だろう、と少年改めロカチーは思う。
ロカチーと雫由は六帖ほどの洋室──雫由の自室にいる。ベッド、学習机、本棚のある子供部屋で、ロカチーは学習机の上に座っており、雫由は椅子に座っている。
ロカチーは立ち上がり、雫由に向かって口を開いた。「お待たせ、もう大丈夫だよ」
雫由のほうもすでに落ち着いている。彼女は柔らかそうな唇を動かす。「どういうことなの?」
「うん、じゃあ説明するね」
ロカチーは前世での轢死から今に至るまでの出来事を簡潔に説明した。雫由は静かに聞いていた。その表情は無そのものだったが、どことなく興味深げな様子だった。
「まぁ、だいたいこんな感じ」説明を終えたロカチーは、続けて言う。「だから、非常に申し訳ないんだけど僕は君の知るロカチーではないんだ」
廃棄処分コースだろうか。轢死(他殺)→毒殺→廃棄処分の流れはいっそ笑える。おもしろすぎてチャームポイントのうさぎ耳も、しゅんと
「うん、わかった」しかし、雫由に拒絶する様子はなかった。「これからよろしくね」
「うん?」ロカチーは目をしばたたいた。「僕を捨てないの?」
「捨てない」雫由は端的に答えた。「ロカチー君は捨てられたいの?」
「捨てられたくない」
行く当てなんてない。というより、そもそもの話、人格のある人形が存在していい世界なのか疑問だった。誰かに
「だよね」雫由は言う。「大丈夫、捨てないよ。わたしが守ってあげる」
ロカチーには雫由が女神に見えた。悪趣味な髪色の毒殺婦な毒婦とは雲泥の差だ。
「ありがとう、本当にありがとう」ロカチーは学習机に乗せられている雫由の手にすがりついた。「君に出会えてよかった」きめ細かな肌はしっとりとした冷たい熱を帯びていた。
「うん」雫由はロカチーのうさぎ耳に触れた。
ふにふにと圧迫される。痛みはないが、こそばゆさを感じる。
人形にもかかわらず触覚がある奇妙さにおかしみが湧き上がってくる。
「フ、ふフフ」笑うと不協和音じみた不気味な音がした──ん? 何だろ今の音、と訝った。数瞬後、今のって僕の声? と気づき、すぅ、と表情が消えていくのを感じた。嘘でしょ……。
「どうしたの?」雫由も真顔だ。ただし、内包する感情の種類は異なっているように思えた。どうして
「い、いや、何でもないよ」
そうしなければならない理由は特にはなかったが──強いて言えば雫由の趣味に戸惑っていることを覚られたくなかったのかもしれないが、とにかくロカチーはごまかすように笑った。肺(?)から空気が流れ出て、ギヒゃギャぎゃー、と怪鳥の断末魔の叫びのような声が発せられた。「……」
やはり笑い声がホラー映画の殺人鬼仕様になってしまったらしかった。悲しい。
憑依転生して変わったことはほかにもあった。
ただの少年だったころのロカチーはグロテスクなものやオカルトの類いが苦手だったのだが、今は雫由の横で人間が生きたまま巨大なミキサーに掛けられる映像を観ていても嫌悪感が湧かなくなっていた。それどころか、なかなか風情があるな、とか、そこはもっと時間を掛けていたぶってあげないとかわいそうだよ、などと訳のわからないことを言う声が、自分の内から聞こえてきたりもした。
こ、これがあの
虹色髪の女性は、憑依先の影響を受けることがある、といったことを話していた。ロカチーの感性や思考が変質してしまったのはそれが原因だろう。
てか、そうとしか考えられない。
ロカチーはソファに座る雫由を窺った。真剣な眼差しで映画を観ている。非常にわかりにくいが、その表情には小さな綻びがあるように見えなくもない。
テレビの中では西欧人らしき美少年が妊婦の活け造りを食べている。ぐったりとした妊婦の顔と、にこやかな笑みを張り付けた少年の顔との対比が、心の深いところをくすぐる──じゃなくて、とロカチーはかぶりを振った。うさぎ耳が揺れた。
以前の僕なら雫由にもどん引きしてたはずなんだけどなぁ。
こんなキショいB級ホラー映画を観てニヤニヤしているヤベー女児は断固としてお断りだった。
しかし、今は親愛しかない。
雫由が自身の友人として生み出した存在に憑依したからだろう、と当たりをつけていた。ロカチーの根幹にあるのは、雫由の良き理解者であろうとする思いだった。あと、殺人への興味。
こっそりと溜め息をついた──僕の人生、数奇すぎでしょ、と。
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