現在⑧
二月十三日(火曜日)、午後七時過ぎ、桜小路雫由は自宅のリビングダイニングのソファに座り、デレビから流れてくる人間たちの楽しげな声をBGMにしながらスマートフォンをいじっていた。
最近の蒼介は雫由が起床する前に家を出て、就床した後に帰ってくるという生活を送っている。そのため、まともな会話はここ数日はほとんどしていない。
くぅ、と小さな音がした。お腹からだった。夕ごはんはまだ食べていない。
そろそろ食べようかな、とソファから降りた。靴下越しにも床の冷たさを感じる。
キッチンに行き、冷蔵庫を開けた。蒼介が作っておいてくれたおかず──れんこんつくねなど──を取り出した。電子レンジに入れて加熱する。ガスコンロに火を点けてみそ汁も温める。
雫由の小さなお茶碗にご飯をよそい、みそ汁やおかずと共にダイニングテーブルに並べた。雫由は静かに食事を開始した。
もぐもぐと顎を動かす。しゃきしゃきとしたれんこんの食感と甘しょっぱい味が口内で踊る。
ジャガ芋とわかめのみそ汁をすすった。優しい味が広がった。
蒼介は早くに母親を亡くしてしまったため子供のころから家事をこなしてきたらしい。そのせいか、雫由の母親よりも料理上手だった。世間ではお袋の味がもてはやされているが、雫由にとっては蒼介の味のほうが格上だ。
「……」蒼介はバカだ、と思う。捜査本部に報告すればほとんどノーリスクで事件を解決できるのに一時の情に流されてハイリスクな手段を選ぶなんて。
そんなに千尋が好きなのだろうか。人を好きになると正常な判断ができなくなるという現象がしばしば発生することは、知識としては知っている。が、恋などというものを経験したことのない雫由にとって、それはスクリーンの向こう側のフィクションのようなものでしかなかった。
白菜の漬物をぱくっと口に入れた。さっぱりとしていて箸休めにちょうどいい。
わたしも大概だから蒼介のことは言えないのだけれど、と思う自分もいる。
そして、この味を食べれなくなるのは嫌だな、という気持ちも、確かにあった。
しかし、すでに
「……」ふと脳裏をよぎった疑問があった。
──虹色髪の女神以外の神はいないのかな?
「……」気になる……。
後で聞いてみよう。
「わたし以外の神ですか?」虹色の髪の女性が言った。
「そう。いないの?」雫由は聞き返した。
「いますよ」
「どんな神がいるの?」
「ううん、そうですねぇ……引きこもりと金の亡者と変態ナルシストとイキりヤンキーとアル中と永久中二病患者とマザコンとロリコンとメンヘラ粘着女と淫乱クソビッチとバトルジャンキーと差別大好きショタジジイと……ええと、あとは……」
「問題児しかいないんだね」
「そうですか? 普通だと思いますけど」
「すごく納得した」
「どういうことですか?」
「わたしたち人間が狂ってるのは創造主に似たからなんだって理解したの」
「ああ、なるほど。あなたはわたしに似てなかなか賢いですね」
「ありがとう」
夢の世界がぼやけていき、やがて雫由の意識は現実を正しく認識しはじめた。
ツンとするにおいを感じた。不快なにおいだった。
まぶたを開けた。すると、髪の長い人間が雫由の足首にガムテープらしき物を巻いているところが、目に映った。
その人間が不意に手を止めた。こちらの覚醒を察したらしかった。常夜灯の薄明かりの中、顔を向けてきて、「起きたか」と言った。マスクをしていて目元以外は見えないが、雫由の耳は堂坂の声だと判断した。
次いで雫由は、おそらくはガムテープで口を塞がれていること、手を拘束されていること、自室のベッドの上にいること、床に見慣れない大型のボストンバッグがあることを理解した。
「……落ち着いているな」そう言う堂坂も落ち着いているようだった。
雫由は、抵抗しても無駄だから、と言おうとした。が、「んんんー」とくぐもった声にしかならなかったため途中でやめた。
「そのままおとなしくしていろ」
そう言って堂坂は、ガムテープを巻く作業を再開した。
言われたとおりにおとなしくしていたからか、その作業はすぐに完了したようだった。
堂坂はパジャマの上から雫由の身体を触りはじめた。不都合な物を隠し持っていないかを確認しているのだろう。くすぐったい。
それも終わるとお姫様抱っこの形で雫由を抱えた。ボストンバッグで運ぶのかな、と思っていたので、そのボストンバッグの中に入れられた時にも驚きや動揺はなかった。貴重な体験をしている、と肯定的に捉えてさえいた。
「……怖くないのか」雫由が返答できる状態ではないことを忘れてしまったのか、無意識になのか、堂坂は尋ねるような口調で言った。
「んんんんんん」もう一度しゃべろうとしてみたが、やはりそれは不可能なようだった。
「ファスナーは閉めるが、呼吸ができるように少し開けておくからそこは心配するな」
雫由が小さくうなずくと、堂坂はファスナーを閉めた。視界から光が消え──いや、ファスナーの端のところからだけは、わずかに光が侵入してきている。呼吸云々は嘘ではなかったようだ。
少ししてから浮遊感を感じた。持ち上げられたのだろう。堂坂の歩調に合わせて雫由も揺れる。
酔いそう、と少し心配になった。続いて、ガムテープで口を塞がれている今の状態で嘔吐したら窒息するかもしれないということに思い至った──それはやだな。
そんな間抜けな死に方はうれしくない。死ぬならスプラッターホラーのようなグロテスクで美しい死に方がいい、と雫由は常々思っているのだ。自分の
はぁ、と心の中で溜め息をついた。女神に祈ったら助けてくれるかな。
ちょっと考えて答えを出した──助けてくれないだろうな、と。根拠はもちろん経験則だ。
うとうとしていたのでどのくらい時間が経ったのか正確なところはわからないが、おそらく三十分弱ほどが経過したころに雫由は
広い部屋だった。ピアノと簡素な──折りたたみ式だろう──パイプベッドがそれぞれ二台ずつある。雫由のいないほうのベッドの上には、見覚えのある人間──蒼介が手足をベッドのパイプに繋がれた状態で仰向けに
堂坂に口のガムテープを剥がされた。痛い。けど、呼吸しやすい。助かる。
「抵抗したらお前と蒼介を殺す」そんなふうに脅してきた。
雫由はパチパチと目をしばたたき、「どうやって殺すの?」と尋ねた。純粋に興味があった。
堂坂は奇妙なものを見るように眉をひそめて、「自分がどういう状況にいるかわからないのか」と困惑するように聞いた。
「わかってるよ」雫由は答えた。「監禁されるんでしょ? それで、少ししたら殺される」
「……わかっているならなぜそんなに落ち着いていられる?」何かあるのか、と堂坂は警戒の色を浮かべた。
「ないよ」雫由は穏やかに答えた。「わたしみたいな子供に何ができるって言うの? できることなんて何もないよ」表情は微動だにしていないはずだ。
「……」数秒間、堂坂はまんじりと雫由を見つめていた。不気味そうでもあった。「普通の子供はそんなふうに冷静ではいられない。おびえたり泣いたり抵抗したりするものだ」
雫由は少し変わってるんで、と蒼介の声が差し込まれた。
堂坂は雫由から視線を外さずに、「少しという範疇には収まらないと思うのだが」と独りごちるように小さく応じた。
「そうかもしれないけど──」雫由は言う。「でも、わたしが変わってるからといって千尋のやることは変わらないでしょ。それなら気にする意味はないよ」
「……」眉間にしわを寄せたまま堂坂は、蒼介に視線をやった。「どういう育ち方をしたらこうなるんだ?」助けを求めているように見えなくもないが、非難がましくも見える。
「俺にもわかりません」蒼介は沈痛な面持ちで答えた。「出会った時にはすでにこんな感じだったんです──でも悪い子じゃないですよ。斜に構えてて理屈っぽくてちょっとサイコパス入ってますけど、いい子であることは保証します」
やっぱり蒼介もわたしのことが嫌いなんだね、と思う。
「……そうか」堂坂は諦めるように力なく言った。「頭のおかしい人間というのは、どこにでもいるからな……」
千尋もわたしのことを嫌っていそうだ。
しかし、そうであったとしてもデメリットはなさそうだし、
「すまん」蒼介は言った。
「いいよ」雫由は答えた。
監禁部屋には雫由と蒼介しかいない。堂坂は雫由を蒼介と同じ状態──ベッドの上で拘束──にすると部屋から出ていったのだ。
暖房が利いていて寒くはない。しかし、喉が渇くのは少しつらい。
雫由は蒼介を見ながら、「よかったね」と口にした。
蒼介の顔がこちらを向いた。「よかった?」よくはないと思うけど、と腑に落ちない様子。
「千尋も蒼介のことが好きだから」雫由は言う。「相思相愛だね」
「……」蒼介は顔を天井に向けた。
「蒼介が生きてることが、何よりの証拠だよ。千尋にとって蒼介を生かしておくデメリットは少なくない。反撃される危険もあるし、食事や
それでも堂坂が完全には止まれないのは、感情の、相殺されない性質のせいか、あるいは憎悪が強迫観念化しているのかもしれない。
形骸化した愛憎の
「……そうだな」そうかもしれないな、と蒼介は宙に向かってささやくように言葉を発した。
その様子を見ていて雫由は、ふと思った。
「千尋と何かあったの?」具体的な根拠のある推測ではなく直感だった。
「──へぁ??」蒼介は頓狂な声を上げた。「な、何かって何だよ、何もなかったぞ」
「ふうん、あ、そ」
「お、おう」
それから程なくして雫由は、再び夢の世界へと旅立った。夜中にいきなり起こされて睡魔が力を増していたのだ。ちんまい女児であるところの雫由では、太刀打ちできる道理はなかった。
目の前に虹色髪の女性がいた。「また来ちゃったんですか?」などと言っている。
また
「退屈そうですね」
「そうじゃなくて眠いの」
「今、眠ってるじゃないですか」虹色髪の女性は不可解なものに直面した犬のような表情で言った。
「実感はまったくないよ」
「大変ですね」
「うん、おかげさまでね」
「どういたしまして」
「……せっかくだから一つ質問してもいい?」
「好きな死体はバラバラ死体ですよ」
「それはわたしも好きだけど、聞きたいのは別のこと」
はて、と虹色髪の女性は小首をかしげた。「心当たりがありませんけれど」
「女神なのに全知全能じゃないんだね」
「所詮は神ですからね」
「ふうん」それから雫由は、「前から気になってたんだけど」と前置きしてから尋ねた。「どうしてロカチー君に憑依させたの?」
「?」虹色髪の女性は質問の意味を理解していないかのような不思議そうな表情になった。「ルーレットで決まったからですよ?」
「憑依先はランダムっていうルールは嘘じゃないの?」
「嘘じゃないです」
「へぇー」
「神を疑うのは善くないですよ」
「日本では信じてる人のほうが少ないよ」
「たしかにそうですね」
「うん」
「日本人は皆殺しにしたほうがいいのかもしれませんね」
「どうせやるなら人類滅亡のほうが楽しいんじゃない?」
「そこまでいくと少しめんどうなんですよ」
「ふうん、そういう感じなんだ」
「ええ、あなたも大人になればわかりますよ」
「たぶん大人になってもわからないと思う」
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