現在⑦

「眠そうだな」

 蚊守壁警察署の特別捜査本部にて、安手やすでなパイプ椅子に座ってうつらうつらと身体を揺らしていたところ、堂坂にそう言われた。朝の捜査会議の開始まであと十五分というところだった。

「ああ、はい、でも大丈夫です」と答えつつも寝不足による生理的欲求には抗いがたい。蒼介はあくびを噛み殺した。

「寝ていないのか?」堂坂はなおも心配そうにしている。

「ええ、まぁ、ちょっと野暮用がありまして」正直に答えるわけにもいかず、されど嘘をつくのも上手くはできない。結果、曖昧な言い方になってしまった。

 堂坂はからかうように、「彼女でもできたのか?」

「……ご想像にお任せします」やはり蒼介は質問には答えられない。

「では、危ない女に溺れているんだな、と思っておくよ」堂坂は軽く笑いながらそう言って、顔を前方に向けた。

 蒼介は胸の裡で、ほっと息をついた。追及されるとボロが出かねないからだ。

 雫由に推理を聞いた日から一週間が経過していた。その間、蒼介は宣言どおり一人で堂坂を監視していた。彼女の出勤の二時間前には彼女の自宅付近に張り付き、帰宅後も家の明かりが消えるまで見張る。そんな生活を続けている蒼介の睡眠時間は大幅に削られていた。

 しかし、自分のわがままを通しつつ新たな被害者を出さないようにするにはこうするしかなかった。これ以上甘えたことを言うわけにはいかない。

 彫像のように整った堂坂の横顔を横目に収めながら蒼介は思考する。

 ──堂坂さんの次の休みは明後日。

 その日は阿部理央の遺体が発見されてから十日目に当たる。もう、いつ次の少女を誘拐してもおかしくない時期だろう。当然、蒼介もその日は休みを貰っている。

「どうしても外せない用事があるんです」とバカ正直に頼み込む蒼介に、課長の白田は、「お、何だ、珍しいな」と訝しむ様子を見せた。が、何だかんだで甘い彼は、最終的には了承してくれた。

 座り心地が悪い気がしてもぞもぞと身じろぎすると、きしっとパイプ椅子が頼りない音を立てた。

「ふぁ」自然と口が開いた。

 取り越し苦労であればいいんだけど──まどろみかけた頭で思う。


 

 二日後、早朝五時を少し過ぎたころ、蒼介はローンの残っている青いSUV愛しのマイカーの運転席にいた。ヘアセットを普段とは違うもの──いつもは分け目を作るが今日は作っていない──にし、楕円形オーバル型伊達だて眼鏡を掛けている。いずれも尾行を覚られぬようにとの意図によるものだった。

 二月の埼玉は、本場北海道ほどではないにしろ肌に厳しい寒さだ。車の暖房もがんばってくれているのだが、あまり快適ではない。精神的なものかもしれない、と自嘲してみる。

 川寓池市の堂坂の自宅は、中流階級以上が住む住宅街にある。庭のある邸宅だ。両親は共に亡くなっており、その大きな家に堂坂は一人で暮らしているそうだ。彼女の話では、「兄も姉も結婚してそれぞれの家を持っているから金銭や動産を中心に相続したんだ。末っ子のわたしは余り物の不動産を押しつけられたというわけだ──ま、別段不満はないがな」とのこと。

 蒼介のSUVは堂坂宅の最寄りのコンビニエンスストアの駐車場に、「え? 僕ですか? 僕はありさんたちとあと何年で日本の消費税が二十五パーセントを超えるのか、とか、高齢化率が何パーセントを超えたら社会保障制度の税方式への移行に政府は本腰を入れるのかについてお話ししているだけですけど? 何か問題でも?」という何気なさそうな顔で佇んでいる。

 冷静になると自分がストーカーになったかのような錯覚に襲われてしまうので、努めて徹夜明けのテンションで張り込みを続ける。

 動きがあったのは、午前の十時を過ぎた時だった。

 密かに堂坂の自家用車──スポーティーな黒のセダンだ──に付けておいたGPS発信機が移動しはじめたのだ。

 蒼介は気を引き締めた。少しだけおびえてもいた。

 ふー、と一度息を吐いてからアクセルを踏んだ。

 堂坂の目的地は駅近くの百貨店デパートだった。駐車場に車を駐めた彼女は、淡く白いコートを揺らしながら店内に入っていった。蒼介もその後を追う。

 三階にある小洒落た雰囲気の雑貨屋で商品を物色する堂坂を、その斜向はすむかいの子供服屋の棚の陰から窺う。何やら珍妙なデザイン──ゆるっとした鳥らしき何かが描かれたトートバッグを手に取って眺めている。かわいいとか思っているのだろうか。

 ああいうのが好きなのか……?

 蒼介は物陰で一人で驚愕していた。意外すぎる、と。もっと落ち着いたシックな物が好きなのだと思っていた。

「本日はどういった物をお探しでしょうか?」

 横から投げかけられた問いに、蒼介は動揺を露にした。「あ、いや、俺は……」とごにょごにょする。

 と、話しかけてきた店員──三十代後半ぐらいの女性──の顔に若干の不審の色がちらついた。が、それも一瞬のこと、彼女は非の打ちどころのない営業スマイルで、

「お子様の性別はどちらでしょうか?」

「お、女の子ですけど」

 女性店員は、にこっと笑みを深め、「お幾つですか?」

「小三です──」

 ここで蒼介は、はっとして雑貨屋のほうに視線をやった。すでに堂坂の姿はなかった。通路に視線を走らせるも、やはり見当たらない──ヤバ、完全に見失った。

「どうされました?」店員は心配そうに──怪訝そうに蒼介を見上げていた。

「すみません、また今度本人と買いに来ます」口早に言って子供服屋を飛び出した。

 こうなってしまったら仕方がない、駐車場で待ち伏せしよう、とエレベーターへ足先を向けた──その時だった、

「桜小路」

 と捜査一課に配属されてから毎日のように聞いてきた声に見つかってしまったのは。

 ひゅっと喉が鳴り、心臓が跳ねた──いや、まだごまかせる。そう自分を鼓舞し、蒼介は振り返って口を開いた。

「お疲れ様です、堂坂さん」なぜか、職場にいる時と同じ挨拶が出てきた。

 おもしろそうに口元を緩めた堂坂が、こちらを見ていた。香水だろうか、ふわりと甘い香りがした。

「それは伊達眼鏡か?」そう尋ねた堂坂は、今日は眼鏡を掛けていない。

「え、ええ」蒼介は目が泳いでしまわないように必死だ。「気が向いた時だけですけど、たまに掛けるんですよ」と答えた。溺れているかのように息が苦しい。

「ほう」次いで堂坂は、「髪も違うな」

「ま、まぁ休みの日は適当でいいかなって」声が震えたり上擦ったりしないように意識してもいるが、上手くいっている自信はない。

「へぇ」と意味ありげな響き。

「ど、堂坂さんも今日は巻いてるんですね」と話を逸らそうと試みる。「かわいいような、そうでもないような……?」

 堂坂は職場では基本的にストレートのロングヘア──あるいは後ろで結ぶか──だが、今日は緩くウェーブしている。

「褒めたいのか貶したいのかはっきりしろ」堂坂の口調はあきれているようではあったが、棘らしきものは、少なくとも蒼介には感じられなかった。

「褒めてますって当たり前じゃないですか嫌だなぁもう」と頭を掻いた──く、苦しい、と内心では悲鳴を上げていた。表情や口調が平常時とは明らかに違う、その自覚はあるのだ。しかし、困ったことに制御ができない。堂坂さん絶対に怪しんでるよ、と蒼介は不安でたまらない。

 ふ、と短く曖昧な吐息。そして、堂坂はそれを口にした。「わたしをつけていたな」笑みらしきものを浮かべている。

 色めいた声で、「か、勘違──」

「お前に尾行を教えたのは、わたしだ」堂坂は冷淡な語調で言う。「そのわたしがお前の拙い尾行に気づかないわけがないだろう?」

「……」何か反論しなければ、と思ってもパクパクと空気を噛むことしかできない。

「ストーカーにでもなってしまったのか?──」それとも、と堂坂はこちらの目を見つめながら、「わたしを疑っているのか?」

「い、いえ、そんなことは……」しどろもどろになりながらも何とか否定の言葉を絞り出した。

 が、明らかに無意味だ。堂坂は観察するようにこちらに視線を固定したまま、「これはお前の独断か?」

 図星を突かれ、つい目を横に逸らしてしまった。

「そうか……」堂坂は悲しげな声で言った。見れば、彼女は視線を下げていた。「皆、わたしを疑っているのだな……」

 ズキリと目に見えないどこかが痛んだ。「それは違います!」と言っていた。「俺が勝手にやってるだけです!」

「……」一、二秒の後、堂坂はくたびれたように溜め息をついた。「お前には絶対に潜入捜査はさせられないな」

「そ、そうですね……」それは今まさに痛感している。

「そうだな、どうしようか……」と堂坂は考えるようにつぶやき、やがて再び口を開いた。「うちを見てみるか?」

「えっ」と驚きの声を洩らしていた。

「気になっているんだろう?」堂坂はいつもと変わらぬ落ち着いた口調で言う。表情もリラックスしているように見える。「気のすむまで調べさせてやると言ってるんだ」

 受けるべきか、断るべきか──わずかな時間、逡巡したが、

「わかりました、お邪魔させてもらいます」と結論を出した。かくなるうえは進むしかない、そう思ったのだ。

「ああ、歓迎するよ」そう言ってから堂坂は、唇の両端を上げた。「襲わないでくれよ」

「お、襲いませんよ!」襲うわけないじゃないですか、と。

「そう強く否定されるのも、それはそれでおもしろくないな」

 お決まりの軽口を叩く堂坂は、やはりいつもと同じに見えた。

 雫由の推理が間違っているのか……?

 そんなことを思う。

 二人は駐車場へ向かう。



「人を上げるのは久しぶりだな」などど言いながら堂坂は玄関扉を開けた。

「お邪魔します」一揖いちゆうして足を踏み入れた。他人の家特有の慣れないにおいが、鼻腔を刺激した。不快というわけではない。

 靴を脱ぎ、廊下を進み、広いリビングダイニングに通された。家具はシンプルなデザインのもので統一されている。もしかしたらこれは堂坂の趣味ではなく、彼女の両親がそろえたものをそのまま使っているだけなのかもしれない。

 茶色のサイドボードの上に赤やピンクの花──薔薇ばらだろうか──があることに気がついた。堂坂さんもこういうのを飾るんだな、と意外に思っていると、

「気になるものでもあったか?」と問われた。

「薔薇が好きなのかな、と思って」

「ああ、あれか」堂坂は理解の声を発した。「特別好きというわけではないのだが、何となくな」

「へぇ」と蒼介が応じると、

「ちなみにあれは造花だぞ」

「え、あ、そうなんすか」

 目を凝らしてみると、たしかに生々しさがない──作り物っぽさがあるような気がする。「合理的ですね」と思う。

 そりゃどうも、と乾燥した相づちを打ってから堂坂は、「何か飲むか」と。

 あまりにも自然にそう言うものだから、蒼介は自分がここに来た目的を忘れそうになる。というか、堂坂が提供する物を口にするのはやめたほうがいいのではないか、と冷静な部分は主張している。しかし堂坂さんの気持ちを考えると、と悩むところでもあった。

 どうしよう……。

 答えに窮していると、

「まったく信用されていないんだな」と責めるような、悲しむような声色。

「いえ、そういうわけでは……」

 静かな室内に重苦しい空気が漂う。ここだけ重力が強まっているかのようだった。

 数拍後、「……ふ」と堂坂は鼻で笑って、「冗談だ」と空気を弛緩させた。「最低限の思慮深さはあるようで安心したよ」

「バカにしてますよね」いつもの調子で蒼介は返した。

 小さく肩をすくめて堂坂は、コートを脱いだ。身体のラインが浮き出るタイプの茶色のタートルネックが露になった。スタイルの良さが水際立っている。

 胸の形も良さそうだな、と思いつつも蒼介は、さっと視線をずらした。

 コートをダイニングチェアに掛けた堂坂は言う。「見たいなら見てもいいぞ」

「えっ、な、何言ってんですか、ご、誤解ですよ、そんなつもりはないですって」蒼介はうろたえながら言い訳らしきものを口にした。

「今更何を言ってるんだ」と堂坂はあきれたような表情になり、「いつもチラチラと見てきてるじゃないか──まさか気づかれていないとでも思っていたのか?」

「いや、まぁそれは……」そりゃそうなんだろうけど、とは思うが、面と向かって言われると素直に認めがたいものがある。

 堂坂はおもしろそうに目を細めて更に追い打ちを掛けてくる。「触ってみるか?」

「さ、触りませんって!」反射的に答えていた。直後にちょっと後悔したりはしていない。たぶん。

「ボディーチェックはしなくていいのか?」

「あ……」忘れていた。

 立ったまま堂坂は軽く手を広げた。「ほら、満足するまで調べていいんだぞ」

 くっ、やるしかあるまい、と覚悟を決めた。「すみません」と謝ってからポケットなど武器の隠し場所になりやすいところを中心にペタペタと、そして目で見て確認していく──危険物はないようだった。

「……はい、終わりです」頬に熱が集まっていた。

 ふふ、と妖美な、それでいて母性をも感じさせるほほえみを浮かべて、その唇は言う。「本当にわかりやすいやつだな」

 更に熱くなっていくのを感じた。完全に向こうのペースになってしまっている。それを崩そうと、

「そ、それより!」と語気を強め、「家の中を見させてもらいたいんですが、いいですか!」

「そうだな、続きはそちらを片付けてからにするか」緊張した様子もなく堂坂は言う。「どこから見たい?」

 続きって何だよ、という言葉は飲み込んで、

「では、この部屋から調べさせてもらいます」と家宅捜索を開始した。

 リビングダイニング、キッチン、浴室、洗面所、トイレと見て回ったが、ここまでで不審なところはなかった。しかし、一階だけでもまだ数部屋はありそうだ。安心はできない。

「この部屋は……?」

 と尋ねた蒼介の前には、スチール製のドアがあった。ほかは普通の木製扉なのにここだけ物々しくて少し浮いている。

「母が昔、ピアノを教えていた部屋だよ」腕組みをしたまま堂坂は答えた。「防音室になってるんだ」

「見させてもらいますよ」と声を掛けてからノブをひねった。

 重さを感じながらドアを引いた。暗い。壁のスイッチを押して電灯を点けた。

 かなり広い部屋だった。三十帖近くあるのではなかろうか。部屋の中にはグランドピアノが二台置かれている。奥の壁際には棚とごみ箱がある。窓はないようだった。埃くささは感じない。定期的に掃除しているらしかった。

 棚を確認していく。怪しいものはない。やっぱり雫由の思い違いだったのか、と心は思いたがっている。そうだったらどうやって謝ろう、と考えたその時、

 ──かちゃり、

 と背後でドアのラッチボルトが嵌まる音がした。ぞくりとして振り向いた。

「動くな」

 と声がした。銃口をこちらに向けた堂坂が立っていた。

 息を呑んだ。どうして、と、やっぱりそうだったのか、が胸の中で渦巻いていた。

「この距離では外さない」ただ事実を告げているだけというような機械的な口調で堂坂は言った。「バカなことは考えるなよ」

 彼我ひがの距離はおよそ六メートルといったところか。遮蔽物になりそうなものはピアノぐらいしかない。たしかに堂坂ならばほとんど確実に当ててくるだろう。

 堂坂から目を離してしまったことを悔いながら蒼介は、おもむろに両手を上げた。「その拳銃はどこで──」手に入れたんですか、と言いきる前に、

「お前が知る必要はない」堂坂は冷たく答えた。次いで、「その場でゆっくりと服を脱げ。全部だ」と命令。武器や不都合な道具を隠し持っているかもしれないと警戒しているに違いなかった。

「……わかりました」蒼介はうなずくほかない。

 眼鏡を外して床に置いた。のろのろとした動きで服を脱いでその隣に重ねていく。寒さを感じた。暖房が点いていないのだ。

「下着もだ」堂坂は鋭く言った。

「……」無言でボクサーパンツを下ろし、床に投げ捨てた。

「後ろを向け」堂坂に油断するつもりはないようだった。

 指示どおり背を向けると、蒼介の横の床に手錠と足錠が投げられた。

「自分で掛けろ」

 素直に従い、足錠を足首に、手錠を手首に嵌めた。

 すると、ようやく堂坂は近づいてきた。「おとなしくしていろよ」そう言いながら足錠にピンを挿した。これはそれ以上締まらないように固定するためのものだ。手錠にも同じことを繰り返した。

 続いて堂坂は、留置場に被疑者を収容する時と同じように蒼介の身体を確認していった。羞恥心もあるが、それよりも悲しみのほうがずっと大きかった。

 堂坂は床にあるジーンズから蒼介のスマートフォンを取り出し、電源を落とした。そのまま衣服の確認に取りかかった。

 蒼介の口から、「どうして」と言葉が溢れ出る。「どうしてこんなことを」

 堂坂は手を止めずに、「わたしを疑っていたんだから察しはついているんじゃないか」

「……鳴海信司のためなんですか」蒼介の声には悲嘆がにじんでいた。「今でも彼を──」

「そうだ」堂坂の声にも同じものが込められているように蒼介には聞こえた。「わたしはあの日からずっと彼を愛しつづけている」

 胸に痛みを感じた。堂坂さんの言う愛は本当の愛なんかじゃない、自分の心を守るためのただの思い込みだ──そう叫びたかった。しかし、今ここでそれを言ったところで何の益もないだろう。いたずらに堂坂の心を掻き乱すだけに決まっている。その確信が言葉をき止めていた。

 すべてを確認しおわった堂坂は、こちらに顔を向けた。「何か言いたそうな顔だな」

「……」何と答えればいいのかわからなかった。

「おおかた、『そんなものは一種の病気にすぎない』『愛などではない』とでも考えているのだろう?」

「……そうです」否定しても無駄だと思い、認めた。

「そう思うのは何も知らないからだ」

 ややあってから堂坂は伏し目がちに、「あの人は、わたしと同じなんだよ」とつぶやくように言った。その様は静かに降る夜の雨を連想させた。暗く冷たい闇色の雨だ。「愚かで弱くて、寂しがり屋で……」そこで声を止め、ふ、と笑った。自嘲するようでもあった。「こんなことを話しても意味はないな。忘れてくれ」

「……」堂坂の心はすでに修復不可能なほどに壊れてしまっているのかもしれないと、漠然とだが、思ってしまった。もしかしたらもっとずっと前から──鳴海信司にさらわれるよりも前の時点ですでにボロボロだったのかもしれない。

 明確な根拠はない。しかし、苦しかったのだろうと、つらかったのだろうと、心は憐憫痛みを感じていた。まったくのずれた感情なのかもしれないということは、もちろん理解している。

 しかしそれでも蒼介は、堂坂の暗闇めいた瞳を見ていると哀れみを抱いてしまう。

「なぜお前が泣いている」

 困ったように眉根を寄せた堂坂にそう言われ、蒼介は自分が泣いていることに気づいた。

「いえ、これは……」俺はこんなに簡単に泣く人間だっただろうか、と自分自身疑問に思う。

「……」苦悩の気配を孕んだ短い沈黙の後、堂坂は観念するように小さく息をついた。そして、柔らかく笑った。「やはり蒼介は優しいな」

 彼女の指が、そっと涙に触れた。

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