現在⑥
「……きて……ねぇ……け」
どこか遠くで誰かが何かを言っている。
「ん……」ベッドの上で蒼介は、むにゃむにゃと不確かな声を洩らした。眠いのだ。もう少し寝たい。寝返りを打って横向きになり、身体を丸めた。
「……」やかましかった声が静かになった。
ほっと一安心。これでもう少し眠れる。蒼介は安らかに無意識の海に沈んでいこうとして──、
「起きて」
という静かながらも怒気混じりの鋭い声と共に布団を剥ぎ取られた。
いったい何だというのだ──蒼介はしぶしぶとスマートフォンを確認した。まだ六時にもなっていない。アラームアプリも、「え、早くね? ボクまだオフ満喫してるんすけど。これ、もう鳴らしたほうがいい系のあれっすか?」と怪訝そうにしている。気がする。
「わかったの」声の主、義妹の雫由が言った。
わかった……?
まだ覚醒しきっていない蒼介の脳は、その意味をすぐには理解できなかった。が、かわいらしい雫由の顔がきりりとした真剣さをまとっているのを見て、察した。
「!?」蒼介は跳ねるように上半身を起こした。「推理が完成したのか?!」
「うん」どこか得意そうに雫由は、小さな顎を引いた。「ミッシングリンクも犯人もその目的も全部推理できた」
「マジか」期待していたとはいえ実際にやってのけられると愕然としてしまう。やっぱり雫由って親父の血を引いてるんじゃ……? と疑わざるを得ない。ついでに、じゃあ俺は何なんだろう? と首をひねっておく。
「説明したいから準備ができ次第リビングダイニングに来て」そう言って雫由は、くるりと背を向けて蒼介の部屋を出ようとして、しかしドアの所でぴたっと足を止めて振り返った。「パンは何枚食べる?」と尋ねられた。
蒼介の家は基本的に朝はパンだ。
「三枚」と答えた。ちなみに、八枚切りではなく六枚切りだ。
「わかった」雫由は今一度うなずいてから、「おかずは適当に用意しとくから早く来てね」といやに大人びた口調で言い、行ってしまった。
その背の幻影を目に浮かべながら蒼介は、「どっちが年上だかわかんねぇな」とぽつりとつぶやいた。
蒼介がリビングダイニングに入ると、雫由はいつもの席に座って両手で頬杖を突いていた。
テーブルには、焼き上げられた食パン、ハム入りのスクランブルエッグ、コーンスープとサラダがあり、ジャムとマーガリンが中央でスタンバっている。コーンスープからは湯気が立っている。蒼介の行動を把握しつつ適切なタイミングで盛りつけたのだろう。
インスタントコーヒーを入れて蒼介が椅子に座ると、雫由は頬杖を解いて口を開いた。「食べながら聞いて」
そして、彼女は事件の真相を語りはじめた。
まず、「もう一つのミッシングリンクは十二支だよ」と雫由の小さな口は言った。スワヒリ語とかスペイン語とかベトナムではどうとかよくわからない説明が続き、蒼介はめまいを覚え、たまらず、
「ちょっとストップ」と発していた。
「何?」雫由は小首をかしげた。
「『何?』じゃなくてだな」蒼介はげんなりしながら、「その知識はどこで身に付けたんだ? 雫由は言語学者か何かなのか? 小学生なのに?」少々混乱もしていた。
雫由はによによと含みのある笑みを口元に浮かべ、「SNSで知り合った人に教えてもらった」と供述。
「どんなSNSだよ……」蒼介は当惑した。外国語大学のサークルにでも出入りしてんのか……? やはり意味不明である。
「続き、話していい?」雫由は蒼介に尋ねた。
「あ、ああ」ひとまず最後まで聞くことにした。
「でね、犯人なんだけど」雫由は言う。「取り乱さないでね」その怜悧な視線が、蒼介の瞳の奥を見据えていた。
「? ああ、それはわかったが」と蒼介は訝りつつも肯首した。
雫由は平静な口調で言った。「犯人は堂坂千尋」
「……ん?」蒼介はパンを運ぶ手を止めた。「今、何て?」
「犯人は堂坂千尋って言ったの」雫由の声は落ち着いている。
「……」言葉が出ず、蒼介は眉間にしわを寄せるばかり。
雫由は淡々とした口調で、堂坂だけが殺されていなかった不自然さからストックホルム症候群になっている可能性に気づいたこと、彼女は今も鳴海信司に歪んだ愛情を向けていること、彼女ならば虐待児童の情報の入手、捜査の裏をかいてのローリスクでの誘拐、足跡や精液の偽装工作のすべてが可能なこと、を説明した。
混乱する頭で蒼介は必死に否定材料を探した。しかし、皮肉なことに逆に肯定材料を見つけてしまった。
草間美空が行方不明になった日も阿部理央が行方不明になった日も、堂坂は出勤していなかった──休日を貰っていたのだ。
心臓が早鐘を打っていた。そんなまさか、と心が震えていた。
「納得した?」と雫由の
「……理屈は理解したが」と言うので精一杯だった。感情はまだ抗っていた。堂坂さんがそんなことをするはずがない、と信じようとしていた。
「じゃあ次に千尋の目的について話すね」雫由は蒼介の動揺などお構いなしという様子で話を進めようとする。
「目的?」蒼介は疑問の声を発した。「警察への復讐じゃないのか」
「メインは違う」雫由はさらりと答え、「蒼介ならわかると思う」と小さく言い足した。
どういうことだ? と心中で首をひねる蒼介だったが、事件にまつわる情報を振り返ると、すぐに雫由の言わんとすることがわかった。わかってしまった。
そして、つぶやくように言った。「堂坂さんの狙いは……雫由なのか」
よくできました、とばかりに雫由は大きくうなずいた。「そう、千尋が本当に殺したいのは、わたしなの」対岸の火事を眺めるように言う。「鳴海信司の事件を解決に導いた桜小路寛人の義理の娘であるこのわたしこそが、彼女の真のターゲット」
鳴海信司を死に追いやった名探偵への復讐──すなわち、彼と同じやり方で、寛人がかわいがっていた義理の娘を誘拐し、犯し、むごたらしく殺すことこそが、堂坂の真の目的。
蒼介は歯を食いしばった。
おそらく犯行を決意したのはVTuber殺しの時──捜査二日目、里見沙耶のマンションから大弥矢警察署に帰る車内で、〈埼玉連続少女誘拐殺人事件〉の真相を推理した名探偵が蒼介の父親であることを知った堂坂は、復讐心を燃え上がらせたのだろう。もちろん、それまでも復讐したいという思いはあったはずだ。しかし、その対象──事件を解決したという民間の協力者=名探偵──を見つけられずにいた。
それが、蒼介の発言により判明してしまった。
あの時の堂坂の驚きようは、今にして思えばたしかにクールな彼女らしからぬ大げさなものだった。あれは
俺のせいじゃねぇか、と嘆息。知らず知らず眉間に力が入っていた。
「意外と落ち着いてるね」雫由の声が、感心したように言った。「もっと荒れるかと思ってた」
「……」九歳児からそんなふうに思われる俺って……、と情けない気持ちがむくむくと膨らむ。「これでも
ミッシングリンクについてだ。
被害者少女たりうるには、雫由曰く、〈過去又は現在、家庭環境に問題がある(あった)こと〉と〈十二支を連想させる何かがあること〉の条件をクリアしなければならない。
前者に関しては、たしかに雫由はクリアしている。彼女も過去に実の父親から暴力を振るわれていたのだ。寛人と彼女の母親が再婚できたのも、虐待とDVを理由とした離婚が成立していたからだ。
しかし、十二支のほうはわからない。地球のどこら辺で使われているのか皆目見当がつかない謎言語の知識があれば、あるいは関連付けられるのかもしれないが、蒼介にそんな知識はない。
なので、素直に尋ねた、「雫由のどこに十二支要素があるんだ?」と。
「え、そんなこともわからないの」雫由は他意のない様子で言った。つまりは、蒼介の頭の鈍さに純粋に驚いているように見えるということである。
「……よかったら教えてくれ」蒼介は大人の対応をした。
「ほら、あれ」と雫由はソファのほうを指差した。
蒼介はその先に視線をやり、「あ」と気づきの声を洩らした。
「ね、わたしならミッシングリンクをクリアしてるでしょ」雫由はおもしろそうに言った。
「……そうだな」蒼介は重々しく答えた。これからの立ち回りについて考えはじめていた。
蒼介の中の冷静な部分は、「ただちに長妻さんか白田一課長に報告すべきだ」と主張してやまないが、弱い部分──本心とでも言うべき領域は、「堂坂さんを疑いたくない」と子供のように駄々をこねていた。
それに、もしも雫由が間違っていたら、あらぬ疑いを掛けられた堂坂は更に傷ついてしまうだろう。その可能性を考えると躊躇してしまう。
しかし、と目の前のあどけない瞳を見る。雫由の推理どおりだった場合、何もしないでいると彼女を危険にさらしてしまう。最悪、その命までもが失われることとなる。それはダメだ。受け入れられるはずがない。
「ねぇ、蒼介」雫由に呼ばれた。「まだ千尋を信じてるの?」
「それは……」蒼介は言い淀んだ。
堂坂を黒と考えるべき状況証拠をこれだけ並べられると、信じている、と断言はできない。それでも信じたいのだ。都合のいい現実がどこかに落ちていないかと目を凝らしてしまう。
雫由は無表情のまま静かに、「蒼介は千尋のことが好きなんだね」と口にし、右手で頬杖を突いた。柔らかそうなほっぺたが潰れる。
「好きは好きかもしれないが、恋愛感情じゃないぞ」
「へー」と退屈そうに相づちを打って雫由は、更に言う。「でも、千尋を被疑者として報告したくはないんでしょう?」
「それは……そのとおりだが」
「じゃあどうするつもりなの?」
「……」一応、考えはなくはない。ただ、常識的にはアウトだろう、そんなやり方だ。
「考えがあるなら教えて」
こちらの心中を見透かしたかのような言葉に、蒼介は諦めの溜め息をついた。雫由には敵いそうになかった。
「……俺が個人的に堂坂さんを監視する」
「千尋が休みで蒼介が仕事の日はどうするの」雫由に驚いた様子はない。
「休みを貰う」
「それができるなら何とかなるね」
ああ、とうなずいてから、「ただ、このやり方だと雫由やほかの子たちを危険にさらしてしまう」警察官としても人としても間違っている。そう思っている。蒼介は顔をしかめていた。苦悶していた。
「ふうん、いいんじゃない」雫由のそっけない口ぶりからは、気遣いのようなものは少しも窺えなかった。本心からそう考えているようだった。
「……怖くないのか?」蒼介は尋ねた、未だに雫由の底が見えないことを少し不気味に思いながら。
「怖くないよ」やはり平静な口調で、「それならそれでやりようはあるから」と頼もしい言葉。
「どういうことだ?」
ふふ、と雫由は微笑を洩らした。少し困っているような音色にも聞こえた。「詳細は秘密」と彼女は答えた。
「?」何を考えている? と思考を巡らすも雫由の真意は推察できない。
雫由は頬から右手を離した。「わたしは大丈夫だから心配しないで」
そうはいかんだろ、と思う。雫由を一人にしておくことに不安を覚えていた。「……なぁ、しばらく京のとこで生活する気はないか」京ならば事情を話せばわかってくれるという確信があった。
「大丈夫」と雫由は繰り返した。「むしろそれはシッチャクだよ」
「シッチャク?」聞いたことのない言葉に蒼介の頭に疑問符が浮かぶ。
「悪手ってこと」雫由は淡々とした口調で言った。「囲碁はしたことないの?」
「雫由はするのか?」
「しないよ」興味ないもん、と。
「……」じゃあ何で知ってんだよ? ホラー小説とかに出てきたのか?
「とにかくわたしは大丈夫」雫由はジャムの瓶を手に取った。「わたしは一人じゃないから」と、いつか聞いた言葉。そして、瓶の蓋を開け──ようとして固まってしまった。「……開かない」
蒼介は微笑を洩らし、「子供らしいとこもあって安心するよ」
むっとしたような気配をかすかに漂わせて、「開けて」と瓶を差し出してきた。
「はいはい」
瓶を受け取って蒼介は、蓋をひねった。甘い香りが広がった。
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