現在③

 途中、昼休憩を挟みつつ移動した結果、春宵病院に到着したのは午後一時を過ぎてからだった。

 臭い物には蓋をしろ、の精神なのか、都会の喧騒に疲れた患者たちのためを思ったのか、それともシンプルに土地代を出し惜しんだ結果か、春宵病院は蜂翁慈市の郊外、山の中にあった。周りは目に優しい緑で溢れている。

 正面玄関口をくぐると、長椅子の並んだ空間が広がっていた。待合室だろう。椅子の向く先には受付のカウンターがある。未だ昼休みの時間なのか、職員はのんびりとした顔をしている。

 蒼介は受付にいた事務員らしき女性に事情を話した。彼女は、「無駄だと思いますけど」と口にしつつも上司やら病棟やらに話を通してくれた。

「エレベーターを降りて通路を右に進めばすぐですよ」

 という彼女の言葉を信じて蒼介と堂坂は、清潔感のある院内を歩く。

 そして、鉄製の大きな扉に突き当たった。扉には窓が付いているが、入り口は二重構造になっていて、かつ奥の扉には窓がなく、扉と扉の間に六帖ほどの空間があるということしかわからない──病棟内の様子は窺えない。

 扉の横、通路の壁にあるインターフォンを押した。

『──はい、ただ今開けますので少々お待ちください』と若い男性の声が応えた。

 扉が開き、黒髪を流行りの毛流れセンターパートにした青年が現れた。看護師らしい。

 警察手帳を見せると青年は、「本物は初めて見ました」と愛想よく笑い、「お入りください」と促した。

 心の中で、お邪魔します、と言って蒼介は、認知症治療病棟に足を踏み入れた。

 ここに来た目的は、鳴海信司の父親、鳴海秀信ひでのぶに会うためだ。今回の事件と何らかの関係があるかもしれない、そうでなくても解決のヒントになる情報が出てくるかもしれない、という思惑だった。

 しかし、鳴海秀信は重い認知症を患っているという。

 期待はしないほうがいいだろう、と捜査本部の面々は考えているし、もちろん蒼介も無駄足になることは覚悟していた──それでも、それこそ強迫性障害の患者が行う強迫行為のように徹底して確認しなければならないのが犯罪捜査だ。

 青年は扉を閉めると──オートロックらしかった──尋ねてきた。「ええと、鳴海さんのお部屋は四人部屋なんですが、そこで大丈夫でしょうか」

 ん?──蒼介は青年の表情の裏側に後ろめたさの気配を感じた。「何かあるんですか?」

「実は」とためらうように口にし、「最近、鳴海さんあまり調子が良くなくて、やむを得ず拘束させてもらってるんですよ」

 ああ、と理解した。その四人部屋から動かしがたい状態だから事情聴取ならそこでやってくれ、と言いたいのだろう。

 堂坂が口を開いた。「同室の患者の認知機能は、どの程度残っている?」

「ああ、はい」と青年は察したような表情になり、「皆さん、新しく何かを覚えることはほとんど不可能な状態でして、会話を聞いたとしてもその直後にはもう忘れてしまいますよ」

「それなら、その四人部屋で構わない」堂坂は答え、「ちなみに」と尋ねる。「一昨日から今日この時までの間、鳴海さんはこの病棟から出ていないのか?」

「ははは」と青年は笑った。嘲笑の響きがかすかに含まれていた。「それはもちろんそうです。ここしばらくはこの病棟から一歩も出していないですよ」

 アリバイは完璧、と──蒼介は心のメモ帳に記した。

 廊下を進んでその部屋の前まで来たところで青年は、「では、わたしはナースステーションに戻ります。何かありましたら声をお掛けください」と言って去っていった。

 その四人部屋に入った。

 すべてのベッドが使用されていた。プライベートを確保するための間仕切りカーテンは引かれておらず、全員の様子が目に入った──思わず蒼介は眉をひそめた。四人全員が白いベルトのようなものでベッドに縛りつけられていたからだ。あまり気持ちのいい光景ではない。

 鳴海秀信は左奥、窓際のベッドに仰向けに横たわっていた。腕から延びる管は点滴バッグに繋がっている。

 美容外科病院のトップを務めていたころの面影は、残念ながら見受けられなかった。痩せて骨の浮き上がった腕、灰を被ったようにくすんだ白髪、茫漠とした双眸──彼は蒼介たちが近くにいるというのに天井を見つめつづけている。

「はじめまして」堂坂が言った。壁際に丸椅子が重ねられていたが、使ってはいない。二人とも立ったままだ。「埼玉県警の堂坂だ」

 堂坂に続き、蒼介も手帳を呈示した。意味があるかはわからない。

 鳴海秀信の瞳が堂坂を見た。すると、彼の乾燥した唇が開いた。「風呂は沸いたのか」

 うーん、こりゃあ無理そうだな──蒼介の正直な感想だった。

 鳴海秀信は、「んん? あんた誰だ?」と不思議そうに言った。

「警察ですよ」蒼介はもう一度説明してみたが、

「風呂に入らないといけない。風呂はまだなのか」鳴海秀信は繰り返した。「んん? あんたらは何してるんだ? 風呂には入ったのか?」

 蒼介は目頭を押さえた。

 無理だろ、これ。会話が成立しねぇじゃん。蒼介の心は、諦める方向に進んでいた。

「風呂ならあと少しだ」しかし、堂坂は平静なまま職務を遂行する。「それまで話をしたい」

「話?」訝るような表情を浮かべた鳴海秀信は、「どこをいじりたいんだ?」と堂坂に尋ねた。「あんたの顔は変に手を加えないほうがいいと思うがな。その顔じゃ満足できんのか?」

「よかったですね」蒼介は笑いながら言った。「元プロのお墨付きですよ」

「そんなものはいらん」堂坂はすげなく言った。

「ああ」と鳴海秀信は発した。蒼介を見ていた。「もしや整形したいのは兄さんのほうか? そうだな、あんたは多少は直したほうがいいかもしれんな。幾らまでなら出せる?」

 ぷぷ、と堂坂の笑い声が聞こえた。「よかったな。元プロが相談に乗ってくれるみたいだぞ」彼女はおもしろそうに口角を上げている。

「うるさいですよ」

 だいたい美容整形の相談をしに来たんじゃねぇんだっつーの。

 蒼介は咳払せきばらいをして、「鳴海さんは、昨日、近藤ひなたさんの遺体が発見された事件のことはご存じですか?」

「風呂は沸いたのか?」

 三度目ともなると蒼介にも動揺はない。強引に続ける。「近藤ひなたさんです。何か知りませんか?」知ってるわけねぇよなぁ、と思う。俺はいったい何をやってるんだろう……?

「近藤ひなた? そいつが風呂を沸かしてくれるのか?」鳴海秀信はよほど風呂に入りたいらしい。

「堂坂さん」蒼介は呼びかけた。仕方ない、諦めて帰ろう──そう言ってくれるのを期待していた。が、

「では、息子の鳴海信司さんについて教えていただきたい」堂坂はまだ諦めていないようだった。

 無駄じゃないかなぁ、と思って見ていると、

「……しん、じ?」鳴海秀信の様子がおかしい。顔に不穏の影が差している。何かを思い出したのだろうか。

 堂坂はこの機を逃さんとばかりに、「そうだ。あなたの息子の鳴海信司さんについて話してくれ」

「……信司」そうつぶやいて鳴海秀信は、唐突に震え出した。何かにおびえるようでもある。彼は拘束されてろくに動かせない腕をもがくように揺すった──ベッドがギシギシと音を立てた。「──許してくれ」哀れを誘う声だった。「許してくれ、わたしはただ子供たちのことが心配だっただけなんだ、それだけだ、嘘じゃない、信司を追い詰めるつもりなんてなかった、本当だ、あんなことになるなんて思っていなかったんだ、信じてくれ、わたしは悪くない、わたしは悪くないんだ──そうだろう? 二人は血の繋がった兄妹なんだ、それがあんなこと、不幸になるだけだ、わたしは間違っていない、正しいことをしたんだ、だから許してくれ、許してくれ……」

 うらぶれた老人は、「許してくれ」とひたすらに繰り返している。

「鳴海さん、わたしたちはあなたを責めているわけではありません」

 蒼介がなだめるようにそう言っても、

「許してくれ、許してくれ」と彼は目を固く閉じたまま続けるばかりだった。

 次いで堂坂が、「落ち着いてください」と何度か投げかけたが、やはりダメだった。

 ふぅ、と息をつく音。「これ以上はやめておこう」

 堂坂のその言葉を聞いて蒼介は、安堵した。そんなつもりはないが、老人をいじめているようで心苦しかったからだ。

 ナースステーションにいた、毛流れセンターパートの彼に、鳴海秀信の精神が少々不安定になっている旨を伝え、病棟を辞した。

 カツカツと靴音を響かせて廊下を歩きながら蒼介は、先ほどの鳴海秀信の言葉について堂坂に尋ねた。「『二人は血の繋がった兄妹なんだ』『不幸になるだけだ』って言ってましたよね」それってつまり、と置き、「二人には肉体関係があったということでしょうか」

「素直に受け取ればそうなるだろうな」堂坂は答えた。

 だとすると、と蒼介は可能性を模索する。「鳴海信司の妹さんが、警察を逆恨みして今回の犯行に及んだという可能性も考えられますよね」

「そうだな、ただ──」と堂坂が言ったところで受付が見えてきた。

 いったん、話を中断し、受付のあの女性に一言挨拶して病院を出る。駐車場のセダンに向かって歩を進めながら話を再開した。

「『ただ』何ですか?」蒼介は先ほどの言葉の続きを促した。

 横を歩く蒼介にちらりと流し目を寄越してから堂坂は、「恋愛感情か、それに近い感情、そしてその延長線上にある復讐心が、その人間の死後二十三年間も続くだろうか、と思ってな。事を起こすならもっと早い時期にそうしていたはずだ。それにそもそも、普通の女なら相手の男が少女を犯して殺すようなクズだとわかれば冷める──というより、強く嫌悪する」

「じゃあ仮に妹の四条しじょう千乃ゆきのが犯人だとすると、ありうるのは社会に対する意趣返しのみってことですか?」

 これについては捜査会議で挙がっていた。加害者家族への誹謗中傷ひぼうちゅうしょう、そういったものを原因とした社会への復讐なのではないか、ということだ。

〈埼玉連続少女誘拐殺人事件〉の凄惨さを考えると、社会からの、正義をかさに着た攻撃も苛烈を極めたことだろう。その、逃げ場のない苦しみがやがて牙を剥いてしまった──たしかに絶対にないとは言いきれないな、と蒼介も思っている。鳴海秀信の様子もこのシナリオを裏付けているようにも解釈できる。

 なお、この場合、近藤ひなたを遺棄した人物が男性である可能性が高いことや精液の存在から、四条千乃には共犯者がいることになる。

「正直なところ、よくわからん」堂坂は小さく肩をすくめた。「実の兄に抱かれて喜ぶような女の頭の中は、普通の感性では推し量れないだろうし、四条千乃が歪んだ恋愛感情を持ちつづけていて、というのも、もしかしたらあるかもしれない──お前はどう思う?」

「近親相姦についてはよくわかりません」蒼介は言う。

 雫由は結局のところ他人でしかないし、ほかに兄弟姉妹はいない。想像しにくい事柄だった。「けど、人の恨みというのは、簡単には消えないんじゃないですかね」

 河合凛香子のことが頭に浮かんでいた。彼女は十年以上も憎しみと罪悪感を持ちつづけていた。心に刻み込まれた痛みは、永遠になくならないのかもしれない。

 堂坂が、「そうだな」と静かにうなずいたところで、セダンが見えてきた。

 次は四条千乃に会いに行く。



 四条千乃は東京都詩巫家しぶや区の眼科クリニックで眼科医をしている。大学在学中に結婚し、現在の名字になったという。年齢は四十三歳で、子供は息子が二人。十六歳の高校生と十歳の小学生だそうだ。

 要素だけを並べると上澄みの住民に見えるが、人間の本質は目に見えるものだけでは量れない。その裡に怪物を飼っていることを示すわかりやすい目印でもあればいいのに、と、そんなふうに蒼介は思う。

 四条千乃の働く眼科クリニックを訪れると、蒼介と堂坂は職員用の休憩室に案内された。

「お待たせしました」と言って現れた四条千乃を一言で表すと〈白衣の美魔女〉といったところか。アンチエイジングに力を入れているのか、肌の潤いと張りは四十代には見えない。が、しかしどこか歪な印象。年相応以上のものを求めるとどうしてもそうなってしまうのだろうか。

 四条千乃はテーブルに着くと、蒼介たちよりも先に口を開いた。「模倣犯というのは本当なのですか?」

 蒼介は慌ててボイスレコーダーのスイッチを入れ、ボールペンを持った。

「似ているのは事実だ」堂坂は曖昧な答え方をした。断定には至っていない、と行間から伝えていた。

「早速ですが」蒼介が言う。「一昨日、昨日、今日の行動を教えていただけますか」

「……わたしも容疑者なんですか」四条千乃は不服そうに言った。

「申し訳ありません、鳴海信司さんの関係者ということで確認しなければならないんです」

 蒼介の弁明に、 

「……そうですか」と疲れたように応じてから四条千乃は、質問に答えた。

 十二月三日(日曜日)は、自宅から近い所にあるショッピングモールに買い物に出掛けた時以外は都内の自宅にいたという。

 四日(月曜日)は、朝に通常どおり出勤し、昼休みにコンビニエンスストアに行ったのを除けば、退勤する午後八時過ぎまでこの眼科クリニックから一歩も出ていないという。退勤後は帰りにスーパーに寄って買い物をし、帰宅。その後はやはり翌朝まで自宅にいたそうだ。

 そして、本日五日(火曜日)は、出勤後は現在──午後三時二十三分までずっとクリニックにいたという。

 すなわち、四条千乃はこの三日間は都内から出ておらず、無論、埼玉の遺棄現場には近づいてもいないということになる──彼女の言葉が真実ならば、だが。

 続いて堂坂は、「被害者の近藤ひなたさんについて何か知っているか?」と尋ねた。

「いえ、まったく知りません」四条千乃はかぶりを振った。「当然、関わりもありません」

 そうか、と静かに応じてから堂坂は、四条千乃の過去に踏み込んだ。「兄の鳴海信司さんについても伺いたい」

「……はい」四条千乃は眉間に複雑なしわを作った。「もう記憶も薄れてきていますが、答えられることには答えますよ」

「では、単刀直入に聞かせていただくが──」堂坂は言う。「鳴海信司さんと肉体関係があったというのは事実か?」

 一瞬の後、四条千乃は諦めたように息をついた。「どうやって知ったのですか」

「それは答えられない」堂坂は四条千乃を見据えたまま言った。

「……たしかにそんなこともありました」四条千乃の婉曲的えんきょくてきな言い方は、現在と過去を切り離そうとする意思の表れなのだろうか。「けれど」と彼女は続ける。「それが何だというのですか? もう終わったことです」

「いつごろからだ?」堂坂は質問を投げ返した。

「さぁ、いつだったかしら」四条千乃はわざとらしく首をかしげた。

「正直に答えていただけないと、こちらも相応の疑いを持ってあなたを見なければならなくなるが、それでもよろしいか」

 堂坂の威圧的な言葉に四条千乃は不快そうに眉をひそめた。「どうしてわたしが見ず知らずの子供を殺さなければならないのですか? そんなことするわけないでしょう」

「それを調べるのがわたしたち警察の仕事だ」堂坂は無表情のまま口だけを動かして答えた。

「……はぁ」四条千乃のその溜め息には、万感が込められているようだった。やがて、「わたしが小学四年生になって少しした辺りから北海道の大学に進学するまでのおよそ九年間、兄と通じていました」

 うわぁマジかぁ、と蒼介は頬をひくつかせた。鳴海信司は実の妹の幼い身体で少女を抱くことを覚えてしまったということだろうか。おぞましすぎだろ、と生理的嫌悪感が込み上げてくる。

 しかし、堂坂は動じずに、「大学進学までというのは、物理的に離れ離れになったことで関係が続けられなくなったということか?」

「ええ、そうですね」当時の自分を振り返っているのだろうか、四条千乃は目を伏せた。「兄にとってわたしは、ただの性欲のはけ口にすぎなかったのでしょう。会えなくても──セックスなんてしなくても今までと変わらずに優しい兄でいてくれると信じていたのですけどね、そんなのは甘い幻想でした」そして、彼女は自嘲的に笑った。

「では、しばらくは兄への未練を引きずっていたのか?」堂坂は尋ねた。

「……たしかにそうですが」と四条千乃は怪訝の光を瞳に浮かべた。なぜそんなことを聞くのか、とその目は問いかけていた。「しかし、あの事件があって恋心なんてものは完全に消え去りました──当然でしょう?」

 四条千乃から嘘のにおいはしない。するのは、ホワイトムスクと言ったか、石鹸せっけんのような優しい香りだけだ。

「今は兄に対して何も思うところはないのか?」堂坂は尋ねた。その鋭い視線は四条千乃を冷徹に観察している。「例えば、憎んだりもしていないのか?」

「それは……」

 この時、蒼介は、四条千乃の不自然にしわの少ない顔が、刹那、くしゃくしゃに崩れたかのように感じた。錯覚だろう。

 四条千乃は上品な声色で続ける。「憎んでいないはずがありません。あの事件があってからわたしたち家族がどんな目に遭ってきたか、警察官ならわかるでしょう?『親が悪い』『悪魔の血』『死んで償え』──ほかにもさんざん言われました。わたしの住むアパートにも腐った卵が投げ込まれたり、猫の生首が玄関に置かれていたり……玄関のドアに児童ポルノの写真が大量に張り付けられていたこともありました。母は心労がたたって精神を病んでしまいましたし、父だって院長の職を辞さなければならなくなりました」

 はぁ、と四条千乃はまた溜め息をついた。「挙げ出したら切りがありません。あの人さえ生まれてこなければ、と思わない日はありませんよ。あの人はわたしの人生の汚点なんです──事故で死んでいなければわたしの手で殺していたかもしれません。それくらい憎んでいます」

「苦労してきたんだな」堂坂にしては珍しく優しい語調。「想像以上だよ」

「けれど、もう終わったことです」四条千乃は再びそう言った。「すべては遠い昔の出来事なのです」

 だからこれ以上思い出させないでください──彼女の、年相応以上にやつれた瞳は、そう訴えかけているようだった。


 

 四条千乃の眼科クリニックを辞去してセダンに乗り込むと蒼介は、堂坂に尋ねた。「彼女が犯人っていうのは、なさそうに思えましたけど」

 キーを回した。下手をすると自分のSUVのものよりも聞き慣れているエンジン音が、元気なうなり声を上げた。

「たしかに心情的にはそう感じるが」と堂坂は猜疑的さいぎてきな様子。「事件の猟奇性や異常性を考慮すると、常識に囚われていては真実を見失うかもしれない。フラットな視点で慎重に判断すべきだろう」

 アクセルを踏み、セダンを動かす。時間貸し駐車場の出入り口に向かう。

「ところで」シリアスな空気に疲れてきた蒼介は、話題を変えようと、「堂坂さんにも兄がいますよね?」と尋ねた。

 む、とお前はどこぞの剣客かと突っ込みたくなるような厳然たる表情をして堂坂は、「それがどうした?」声もちょっとチクチクしている。

「いやぁ、堂坂さんも見かけによらずにブラコンだったりするのかなぁとか思ったり思わなかったり──」

「それはないな」

「『大きくなったらお兄ちゃんと結婚しゅるー!』とか言ってたり──」

「ないな」

「……血が繋がっててもそんなもんですかね、やっぱ」駐車料金を支払いながら言った。

「お前のとこは仲が悪いのか?」今度は堂坂が尋ねてきた。「以前お邪魔した時はそんな感じはしなかったが」

「悪くはないですよ? でも兄妹って感じじゃないですね。たぶんですけど、雫由の中での俺の位置付けって、〈ある程度は信用できる同居人〉でしかないんですよ」

 駐車場を出て、道路を進みはじめた。

「たしかに妹さんはお前のことを名前で呼んでいたな」堂坂は言った。

「そうですね。いつか、『お兄ちゃん大好きー!』とか言われてみたいですよ」

「気持ちの悪いやつだな」

「いいじゃないですか、これくらい」蒼介はふてくされた。

 助手席から微笑が聞こえた。次いで、「ん゛ん゛」と咳払いの音。すぅ、と息を吸う気配がして、「『お兄ちゃん大好きー!』」とやたらとアニメ調のロリ声。

 蒼介は危うくセダンをスピンさせるところだった。

「……何やってんすか」蒼介は真顔で聞いた。「つーか、よくそんな声出せますね」

「……せっかく薄汚い願望を叶えてやったというのに、急に素面しらふに戻るな」堂坂は頬を赤らめている。恥ずかしがっているようだ。

「まさか堂坂さんってクーデレとかいうやつなんですか」いい年してそのノリはちょっとキツいっす、と内心で続けた──しかし、おそらく顔に出ている。

 堂坂はいつもどおりの硬い口調、もとい不機嫌そうな口調で言った。「今のが最初で最後のデレだ。もう二度とやらない」

「無駄に上手かったですし、忘年会とかで披露したらそこそこ盛り上がるかもしれませんよ」

「絶対にやらん」堂坂はすねたように言った。

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