現在②
「──そして、鳴海信司はそのまま意識を取り戻すことなく帰らぬ人となり」堂坂はひと事であるかのような口調で言った。特別な感情は窺えない。「鰕西翼のほうは、命は助かったが、
「それらについては知っています」蒼介は答えた。中学生のころにウェブサイトで見かけた記憶があった。
『警察の浅慮が招いた事故』『過剰な労働時間が冷静な思考力を奪い、判断を誤らせたのではないか』『少女たちを救うことは本当にできなかったのか』『警察官僚の娘だけが救出されたというのは、いかにもメンツばかりを気にする警察らしい結末ですな』
などといった攻撃的な言葉が当時は飛び交っていたと、そのウェブサイトには記されていた。
「あの時のマスコミは、水を得た魚のようだったよ」堂坂は懐かしむように言った。「社会もそうだった。それが天命ででもあるかのように一心不乱に警察を非難していた。正義感や法感情がそうさせたのか、集団心理の危うさゆえか──メカニズムは知らないがな──恐ろしいものだよ、人間社会というやつは」
蒼介と堂坂は覆面パトカーのセダンの中で会話していた──聞き込み捜査の合間に〈埼玉連続少女誘拐殺人事件〉について断続的に教えてもらい、ようやくすべてを聞きおわったところだった。
遺体の遺棄現場の南南西やや離れた場所──次の聞き込み捜査の対象エリアに向かって蒼介はセダンを走らせている。
「公務員は──」蒼介は皮肉と自嘲を声に含ませて、「国民の皆様のサンドバッグになるのも仕事のうちですからね」
ふっ、と堂坂は失笑するように息を洩らした。「たしかにな。しかし、そのおかげで昔ほど無理な長時間勤務はしなくてよくなったのだから感謝しないとな」冷笑的な口調で言った。
昔は帳場が立てば家に帰れないのは当たり前という風潮が強かったが、マスコミの批判を受け、それでは捜査員に本来の能力を発揮させられないということを警察は認め、捜査本部に召集された捜査員にもある程度は休みを与えるようになったのだ。
以前、飲みの席で白田一課長が、「俺なんて七十連勤したこともあるんだぞ。……いや、九十連勤だったか?──ま、たいして違わねぇか」とぞっとしないことを自慢げに語っていたが、ブラック体質が改善されて本当によかったと蒼介は思っている。
程なくして対象エリアに入った。蚊守壁市の中心部に近づいたため人工物の密度が増している。住宅、店舗、会社など、すべてを回る必要がある。
初動捜査の段階で方がつけばいいんだが、と思うが、そう簡単にはいかないのが現実──有益な情報は未だ得られていなかった。
ここで何かが出てくることを祈りながら蒼介は、住宅街の一角にセダンを停めた。ふー、と息を吐き、ドアを開けようとして、ふと助手席の堂坂を振り返った。彼女の、つんとした美しい雰囲気に変化はない。ように見える。
「何だ」
堂坂に聞かれ、
「無理してないですか」
尋ねた。
「……」淡い唇が開く。「──正直、逃げ出したくて仕方ないよ。こうしてあの事件と向き合っていると、あの時の恐怖を思い出してしまうんだ。絶望が蘇ってくるんだ。手足を拘束されて男に
「……」
「なぁ、桜小路」堂坂の瞳は蒼介を映している。「もしもわたしがそうなったら軽蔑するか」
「軽蔑はしないですけど……」蒼介は慎重に言葉を選ぶ。「そういうときの適切な対応というのは、俺にはわかりません」
「そうか──ふふっ」堂坂は唐突に口元を緩めた。おかしそうに、「冗談だよ。あんまりにも気遣わしげだから少しからかってみたくなったんだ」許せ、と笑っている。
「……冗談ならいいんですが」
「──初動捜査は時間との戦いだ」そう言って堂坂は、ドアを開けた。冷たい秋風が、車内に入り込む。「ほら、早く行くぞ」
ばたん、と風が断ち切られた。
蒼介もセダンを降り、彼女の背を追った。
しかし結局、初動捜査で犯人の手がかりは発見できなかった。
特別捜査本部は、その日のうちに蚊守壁警察署の大会議室に設置された──入り口の扉には『蚊守壁市少女誘拐殺人事件特別捜査本部』と書かれた紙が張られた。
午後十時ごろに始まった捜査会議では、まず被害者少女の身元が説明された。
少女の名前は、
のだが、彼女には多数派とは言いがたいわかりやすい特徴があった。彼女は児童養護施設で暮らしていたのだ──行方不明者届の提出もその施設の職員による。その施設や児童相談所、検察庁の刑事記録によると、実の親から虐待を受けていたらしかった。それにより左目の視力がほとんどなかったのだという。
手紙にあった『かわいそうはかわいい』とは、近藤ひなたのように虐待を受けた経験のある子供か、児童養護施設で暮らす子供を指しているのだろうとの推測がなされた。断定するのは時期尚早だが、おそらく間違ってはいないだろう、と蒼介もうなずいた。
続いて、遺体の膣内から精液らしきものが採取されたことが報告された。
これにより被疑者が特定されればよいのだが、二十三年前の事件ではそうはならなかった。それを模倣しているのならば今回の事件も同じなのではないか、精液など何の役にも立たないのではないか──そういった懸念が、大会議室に漂っているようだった。
また、現場に残されていた足跡についても言及された。
結論としては、身長約百七十センチ、体重五十から六十キロ、足のサイズ約二十六センチの男性が、近藤ひなたを遺棄した犯人だろう、ということとなったそうだ。が、これは二十三年前の事件とほとんど同じであり、該当者数を考えると犯人像としては不十分と言わざるを得なかった。
会議は進み、捜査方針として、遺棄現場や埼玉県内の児童養護施設を中心とした地取り捜査、被害者少女の関係者を中心とした鑑取り捜査、二十三年前の〈埼玉連続少女誘拐殺人事件〉の関係者への聞き込み捜査並びに精液及び足跡を調べる科学捜査を行っていくことが決定した。
そして、夜が明けて翌日の午前十時半過ぎ、蒼介と堂坂はいつものセダンを走らせて、鰕西翼の父親、鰕西
埼玉市南区に入った。もう少しで鰕西の家に着くのだが、蒼介は気が重くて仕方がなかった。眉間にしわが寄っているのがわかる。
「お前は本当にわかりやすいな」助手席の堂坂が、あきれるように言ってきた。「そんなに行きたくないか?」
「そりゃあそうですよ」
警察の捜査が間接的な引き金となって鰕西翼が身体に重大な障害を負った──この事実だけでも鰕西益雄が警察を恨むのに十分な、そして同情すべき理由になるのに、彼の場合はそれだけではなかった。
娘の翼が退院して一年ほどしたころ、妻の
さらに、もう一つ重大な事実がある。今から一年ほど前、益雄は娘の懇願により自らの手で彼女を絞殺しているのだ。いわゆる同意殺人というやつだ──嘱託があったことを証明するために鰕西翼からのメッセージの動画が撮影されており、証拠として提出された。証言台に立った彼は、娘がどれほど苦しんできたのかを、そして鳴海信司と警察への深い憎しみを語ったという。
鰕西益雄に下された判決は、懲役三年執行猶予五年というものだった。おおむね前例に則ったものと言える。
益雄は今、元妻や娘の記憶が刻まれた家に一人で暮らしている。
どんな気持ちなのだろうか。彼のような境遇に置かれたことのない蒼介には、正確なところまではわからないが、明るく楽しい生活でないことは確かだろうとは思う。
そんな彼に、昔の事件の模倣犯らしきものが発生したから事情聴取させろ、と言わなければならないのだ。まともに取り合ってくれるかもわからないし、何より、彼の心情を思うと蒼介は陰鬱にならずにはいられない。どんな顔して会えばいいんだよ、と。
「堂坂さんは何ともないんですか?」蒼介は尋ねた。非難するような響きが含まれている、と解釈する人がいてもおかしくはない、そういう口調だった。
「かわいそうだとは思うさ」堂坂は言う。「だが、わたしが罪悪感を覚えるべきことでもないだろう?」
正論ではあるが、そう簡単に割り切れないのが蒼介という人間だった。「堂坂さん、メンタルどうなってんですか?」強すぎません? と。
助手席で肩をすくめる気配。「神経が鉄でできているのかもな」
「鉄のお嬢様って呼んでいいっすか?」少しおどけてみた。
「お嬢様はやめろ」
「鉄の女ならいいんですか?」
「……よくはないな」
「やーい、鉄の女ー」更にふざけてみた。
「お前は小学生なのか?」堂坂は心底あきれているようだった。が、「──ま、それで気が紛れるなら付き合ってやってもいいがな」
「そういうふうに言われると、マジで自分がものすごく子供なやつに思えてくるんですけど」
「違うのか?」からかうような声。「わたしの印象では、割と甘えたがりな男だと思っていたんだが」
「そういうことは思ってても口には出さないでくださいよ」
そう言うと、鼻先で笑われてしまった。「そう思われるようなことをしなくなったらな」だそうだ。
正論すぎて返す言葉がない。
やがて目的の住宅に到着した。路上にセダンを駐め、降りた。ざり、とアスファルトから音がした。
『帰ってくれ』
インターフォンから発せられた声は、冷たく暗いものだった──予想どおり鰕西益雄は協力的ではなかった。『お前らの顔なんて見たくないんだよ』
「そういう態度は心証を悪くするぞ?」堂坂が落ち着いた口調で言った。「ニュースは見ているのだろう? 例の事件の模倣犯だよ」
『だから何だ? 俺には関係ない』
「そう言われてもな、こちらもやらないわけにはいかないんだよ」堂坂は言う。「それに、関係あるかないかは、こちらが判断することだ」
『ああ、そうかい』不愉快を投げ捨てるような言い方だった。
蒼介も口を出す。「翼さんのことはわたしたちも心を痛めておりますが、これ以上の犠牲者を出さないためにも──」
『黙れ!』先の言葉は怒れる声に叩き潰された。『加害者のくせにひと事みたいに言うな!』
「申し訳ありません、しかしそのようなつもりは──」蒼介の言葉を殴りつけるように、
『黙れと言っているだろう!』と発し、『何でもいいから、とにかく帰ってくれ!』
その言葉を最後に通話は切られてしまった。
無理やり押し入るわけにもいかない。蒼介たちはセダンに戻った。
「怪しい感じはしなかったと思うんですが、堂坂さんはどう思いますか?」蒼介は尋ねた。
「特に不自然な点はなかったとわたしも思う」と堂坂は首肯したが、「しかし、警察への怨恨は相当なようだったからな、その点、疑わしくはあるのも確かだ」
捜査本部の考えでは、鰕西益雄は重要参考人の一人だった。警察への復讐としてその威信を傷つけるために今回の事件を起こしたのではないか、と疑っているのだ。定年退職済みで時間に余裕があることも犯行には都合が良く、嫌疑を強めていた。
「でも、それなら今なお恨みつづけていることを隠そうとしませんかね」蒼介は異論を唱えた。わたしには明確な動機があります! と警察に主張する犯人はいないのではないだろうか。
「まぁな」堂坂は反論しなかった。「鰕西益雄を犯人と考えると不自然な点があるのも事実ではある」
結局のところ、鰕西益雄への嫌疑はもう少し情報を集めないことには判断しようがない、という至極当たり前の結論に着地した。
アクセルを踏み、セダンを発進させる。
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