二十三年前⑦
「五つ目のミッシングリンクは〈母親が美容整形の施術を受けていること〉」
寛人が答えを口にすると、椎原は、「あー!」と声を弾けさせた。「ってことは彼女たちはみんな偽物美人ってことっすか?! 地味にショックなんすけどー」
「メスを入れようが入れまいが、人間は仮面を被る生き物だよ」寛人はなだめるように言った。「その意味では、世界は偽物で溢れているとも言える。突き詰めれば、本物なんてどこにも存在しないのかもしれない。あるいは、僕らは
昔からこうだった。寛人はしばしば哲学的、あるいは幻想的なことを口にする。頭がいいとその価値観は現実離れしていくのだろうか。そうではない倉橋にはわかりようのないことだった。
「は? え? 何て?」椎原の脳内には、大量の疑問符が出現しているようだった。
溜め息を胸の裡に隠しつつ、「悪いが、
美容外科病院の関係者であれば、ほかの四つのミッシングリンクも実現できる──犯人は患者経由でターゲットを選んでいたのだろう、ということだ。
寛人は一瞬だけつまらなそうな色をにじませたが、「補足するなら」と言う。「被害者の住所を考慮すると、その病院は埼玉市内にある可能性が高いね」
「ああ、同感だよ」
倉橋はいつか見た地図を思い浮かべた。大小さまざまや医療施設があった。その中には美容外科病院も含まれていたはずだ。
その時、
──コンコンコン。
倉橋のすぐ横から音がした。見れば、白くぼやけたガラスの向こうに
「お話し中ごめんなさい」由良は眉尻を下げて言った。はっきりとした二重まぶたの瞳が、倉橋から寛人へとその向きを変え、「グラスホッパーの注文が入っちゃって。今、お願いできますか」
グラスホッパーとはバッタのことである。が、まさかアンティーク調の気取った喫茶店でイナゴの
「推理はもう大丈夫かな?」寛人は倉橋に聞いた。
ああ、と感謝を示すつもりで大げさに顎を引いてから倉橋は、「営業中に悪かったな」
「いや、僕も楽しかったよ」
寛人はドアを開けた。
彼らの背を見送りながら倉橋は、由良のやつも美容整形してんのかね? と考えていた。しかし、人様の秘密を暴くのは刑事稼業だけで十分だ、とその興味はすぐに霧散させた。
「あ」椎原が後部座席を振り返った。「ケーキ!
完全に忘れてたっす!」期待に満ちた目をしている。
「……事件が片付いてからにしないか」
「──はぁー」太く長い溜め息。「ま、しゃーないっすね。ケーキ以外も奢ってくれるんすもんね、全然待てるっすよ、自分」
「それくらいなら別にいいが、なぜお前はこうもぐいぐい来れるんだ」
「この世界のすべては
「……」
こいつのバカな言動も偽物だった、なんてことはねぇよな……?
特別捜査本部に戻ると倉橋は、稲熊を捕まえて推理を語って聞かせた。幾分か驚いたようだったが彼はすぐにその整合性を認め、母親たちに確認するよう指示を出した。
果たせるかな、シェーカーを振れる喫茶店経営者の推理は見事に的中していた。母親たちは皆、同じ病院で美容整形の施術を受けていたのだ。その病院の名は〈鳴海美容外科〉。埼玉市に建つ人気の美容外科病院だ。
特別捜査本部は捜査員たちのほとんどすべてを動員し、病院関係者を調べ上げた。
その結果、一人の青年の名が捜査線上に浮上した。
鳴海信司(二十六歳)──鳴海美容外科の院長の息子である。
彼は医療事務の資格を有しており、鳴海美容外科の一般事務職員として働いていたが、現在はうつ病を理由に休職中らしかった。
一人暮らしであり、その住みかは、埼玉県の北西部、田舎を通り越して秘境に片足を突っ込んでいる人影の乏しい町にあった。
そこはいわゆる限界分譲地と呼ばれる格安の土地だった。限界分譲地とは、高度経済成長期から八十年代に掛けて投機目的で開発された住宅用地で、現実的な利用を重要視していないがゆえの不便さや不動産バブルの崩壊により放棄され、荒れ果てた土地のことだ。
鳴海信司の住む家は、前の土地所有者が建てたもので、より正確には〈限界分譲地内中古一戸建て〉とでも呼ぶべきものだったが、いずれにせよ極端に安価であることに変わりはない。
なぜこんな辺鄙な土地に? 勤務先まで距離もあるし、通勤と住環境のストレスがうつ病の原因では? 父親の経済的支援は得られなかったのか? 院長といえども安いに越したことはないという庶民的な金銭感覚を持っているということなのか? などという疑問は生まれなかった。
不動産業者によると購入時期は去年の六月であり、今回の事件を計画してのことなら、うなずけるものだったからだ。人が少ないというのは悪目立ちするリスクもたしかにあるが、そのような地域にある自宅で監禁、強姦、殺人を行う場合、連れ込む時と遺棄する時の目撃者にさえ気をつければよく、拘束して防音室にでも閉じ込めておけばそうそう発覚することはない。犯行に適した場所と言えるのだ。
休職中というのも、いかにも怪しい。もしもうつ病が詐病だったならば、と考えてしまうのは自然なことだろう。
加えて、彼は医学部受験に三度失敗して今の職に就いたらしく、歪んだ自己承認欲求を窺わせる手紙との親和性も高そうだった。
さらに、背格好も百七十センチの痩せ形とドンピシャだった。
以上四点から、特別捜査本部は鳴海信司を最有力被疑者としたのだ。
ここまで来ればあと少し、事件解決及び堂坂千尋の救出は目前かと思われたが、ここに待ったを掛ける存在があった──埼玉地方裁判所である。
「う~ん、申し訳ないんですが、これしか根拠がないとなると令状は出せないですね」「そこを何とかと言われましてもねぇ。一裁判官としては、前衛的な前例は作りたくないんですよー、わかるでしょ?」「ちょ、いきなりキレないでくださいよ。そんなんだから『ヤクザよりヤクザしてる』だなんて言われるんですよ」「(ったく、これだからポリ公はよ)」「ええ、ほかに証拠は用意できませんか?」「あ、そう、じゃ無理ですね。あまり法律をなめないでください」などと言って令状当番の裁判官が、捜索差押許可状の発付を拒否してきたのだ。
こうなってしまっては、家宅捜索で一挙に解決! とはいかない。鳴海信司を逮捕するための残された手段は、手紙にあったとおり次のターゲットを見張って待ち伏せする事実上のおとり捜査と、彼を監視し、しっぽを出した瞬間に現行犯逮捕や緊急逮捕をする張り込み・尾行捜査の二つだ。
以上を踏まえて特別捜査本部が下した決定は、どちらか一方を行うのではなく同時進行させるというものだった。鳴海信司だけを警戒すればよいのならば彼の監視だけで事足りるのだが、可能性としては別の人間が真犯人だったということも考えられるからだ。
かくして捜査員たちは、鳴海信司の監視担当とターゲットの少女たちの警護担当に分かれることとなった。倉橋と椎原はというと──。
次のターゲット、ミッシングリンクに合致する少女は数人いた。そのうちの一人、
現在時刻は午後三時四十分。倉橋たちは、友人たちと下校する江嵐深智をこそこそとつけ回していた。周りには畑が多く、つまりは見晴らしが良く、不審者が近づこうものならすぐに気づきそうな道を彼女たちは歩いている。
「倉さん、深智ちゃんは大丈夫じゃないっすか」片側二車線の道路沿いの歩道を歩きながら椎原が言った。「怪しいやつの気配なんて全然っすよ。きっと彼女は外れなんすよ」
「まぁ、そう言いたくなる気持ちもわかるが」
寛人の推理を聞いた日から一週間、江嵐深智を見張るようになってからは六日が経過しているが、彼女の日常は平穏そのものだった。
しかしなぁ、と倉橋は思う。鳴海信司を監視している捜査員たちの話では、彼は一日のほとんどを自宅で過ごしているという。新たな少女を求めて町に繰り出すようなこともないらしい。そうなると、真犯人は別にいるかもしれない、という懸念は日ごとに現実味を増してくる。一見無意味に思えるストーカー行為まがいの捜査も軽視するわけにはいかないのだ。
「暇だなぁー」椎原が、仕事中とは思えない子供のような台詞を発した。
そして、何事も起こらないまま時間は流れ、午後九時半を回ったころ、倉橋と椎原は大弥矢警察署へと戻ってきた。張り込みなどを継続している一部の捜査員以外は、夜の捜査会議に参加しなければならないからだ。
階段で三階へ上がると、フロア全体に居心地の悪い不穏な空気が漂っていた。──気のせいか?
「倉さん、何か空気悪くないっすか?」椎原は額に不快と不安のしわを刻んでいた。「何かあったんすかね?」
「……どうだろうな」そう言いながら倉橋は、特別捜査本部のある第一会議室へ足先を向けた。
倉橋たちが見張っていた時には江嵐深智に異状はなかった。後を任せた連中からの連絡もないから、今も彼女の自宅周辺は平和なはずだ。ならば、何かあったのだとするとそれは──。
『埼玉連続少女誘拐殺人事件特別捜査本部』
そう書かれた紙が張られた扉を開けると、物々しい雰囲気が倉橋たちを迎えた。
確信した。何かあったのは間違いない。それが吉報であればいいのだが、いかめしい顔つきの捜査員たちを見るに、望ましくない方向に事態が動いてしまった可能性のほうが高いだろう。
「うへぇ」同じ結論に達したのだろう、椎原は顔をしかめた。「やな雰囲気っすね」
手頃な席に着き、少ししたところで稲熊が会議室に現れた。顔には
資料が配られると、倉橋はそれに目を通した。「──?!」
想定の
顔を上げると、第一会議室に動揺が広がっていた。皆、倉橋と似たような状態のようだった。椎原の、「あちゃー、ドンマイっすねー」という場違いに軽い声は、遠くに聞こえるかのよう。
「お疲れ様です。ただ今より捜査会議を開始します」稲熊の形式張った挨拶。彼に目が集まる。「もうご確認いただけたかと思いますが、事態が大きく動きました。ご説明いたします──鳴海信司は今日になって突然、車で埼玉市まで出てきて、
鰕西翼もミッシングリンクの条件を満たす少女だ。
「それを見た巡査が、功を焦って鳴海信司に職務質問をしてしまいました」
誘拐のために機を窺っているのならば何らかの凶器を所持している可能性があり、すなわち銃刀法違反を理由に現行犯逮捕できるかもしれないし、また、刑法第九十五条第一項(公務執行妨害)の『暴行又は脅迫』に当たる行為を一瞬でもしたならば公務執行妨害でも現行犯逮捕できる。そして、逮捕さえしてしまえばこっちのもの、令状なしで家宅捜索が可能だ。上手く運べば堂坂千尋を救い出せる──その巡査はそんなふうに考えたのだろう。性急の感は否めないが、勝算がないわけでもない。同じ立場だったら倉橋もそうしていたかもしれない。
しかし、望ましい結果にはならなかった。
「そこでおとなしく応じてくれればよかったのですが」稲熊の声は疲弊していた。「鳴海信司は車を急発進させて逃げ出しました」
事実はどうあれ、〈逃走の際に鳴海信司に車をぶつけられた〉ということにすれば公務執行妨害による現行犯逮捕も適法化できるだろうし、今回の事件だと、その逃走行為により刑事訴訟法第二百十条(緊急逮捕)の『死刑又は無期若しくは長期三年以上の懲役若しくは禁錮にあたる罪を犯したことを疑うに足りる充分な理由がある場合で、急速を要し、裁判官の逮捕状を求めることができないとき』の要件もクリアしていそうだから──誘拐殺人の被疑者が職務質問を嫌がって逃走したということは、罪を犯した自覚があるに違いない、ただちに逮捕しないと早まったことをする危険がある、という理屈だ──職務質問を振りきって逃走しただけならば、警察としてはむしろ助かったと言えるのだが、実際にはそれ以上の事が起きてしまった。
「暴走した鳴海信司の車が──」溜め息をつく稲熊の姿が、目に浮かんだ。「住宅街の十字路に飛び出してきた鰕西翼を
冗談だと思いたいが、現実はいつだって笑えるぐらいに笑えない。
「二人とも病院に搬送されましたが、現在も意識不明の状態が続いております。──次に、鳴海信司宅の家宅捜索に関しての顛末を述べさせていただきます」
資料によると、今までの捜査で得た状況証拠に逃走の事実が加わったことで令状が発付されたらしかった。
「今日の午後八時ごろ、捜査員が彼の自宅に入って確認したところ、衣服を身に着けていない状態で拘束されている堂坂千尋を発見し、保護しました。性的暴行によるものらしき裂傷があり、また、下腹部に火傷を負っていたようですが、命に別状はないそうです。現在、彼女は──」
「千尋ちゃんが助かってよかったっすね」隣に座る椎原が言った。悪いところにばかり目が行きがちな倉橋とは違うらしい。
「まぁな」と、うなずきはしたが、堂坂千尋が経験してしまったことを思うと手放しでは喜べない。
十歳の少女が知らない男にさらわれるのは、どれほどの恐怖だろうか。監禁される不安は、強姦される苦痛は、と想像すればするほど心が塞いでいく。
──しかし、これでようやく事件も幕引きだ。
ふ、と小さく息をついた。安堵からだろうか。少し違う気がする。やるせなさ? もちろんそれもあるが、それが中心ではない。惨めさ? これもあるが、今の気持ちを最もよく表す言葉ではない。
倉橋自身、自分の心が抱える感情を上手く翻訳できなかった。が、強いて言えば無力感が近いのかもしれない。もう少しだけ優秀だったならば、と。
虚しい空想を
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