現在⑥

 辻本の自殺後は新たな殺人が行われることもなく、外形上は平穏無事に時が流れた。

 他方、雫由から辻本と凛香子の共犯の可能性を聞いていた蒼介の胸中は、まったくもって穏やかではなかった。容姿といい性格といいストライクゾーンのど真ん中を行っている凛香子が殺人犯だなんて考えたくなかった。

 しかし、蒼介にも正義心はある。凛香子が真犯人ならば野放しにすべきではない。たとえ彼女を絞首台に送ることになろうとも、だ。

 辻本の自殺から五日後、五来が迎えに来た。彼の操縦する超大型ヘリコプターで本土に戻ると、蒼介はすぐさま所轄の警察署に事情を話した。埼玉県警の管轄ではないため蒼介にはこの事件の捜査をする義務(権利)はなく、本来ならこれでお役御免となるはずだが、彼は独自にサークル参加者について調べはじめた。

 そうして捜査をしていくと、幾つかの事実が判明した。

 まず一つは、河合凛香子、本名・御影海里は元は男性であったということだ──うっそだろ?! マジかよ!? と、ここ最近で一番驚いた。彼女は元々御影大輔という名前だったが、性同一性障害を理由に二十二歳のころに性転換手術と美容整形手術を受け、それに伴って改名したそうだ。手術のために借りたお金は、性転換女子専門の風俗店に勤めて返済していたようだが、〈このイヤミスがエグい!〉という小説コンテストで大賞を受賞し、小説家としてデビューした二十四歳の時にそちらの業界からは引退したらしかった。

 二つ目は、雫由の言うとおり辻本と凛香子が不倫関係にあったらしいということだ。辻本夫人など関係者によると、三年ほど前から交際していたそうだ。

 いろいろと衝撃的すぎて蒼介の心はガタガタだった。おいおい勘弁してくれよ、と泣きたい気持ちにもなった。というか、実際に涙目だった。

 そして、更に蒼介の顔を曇らせた三つ目──凛香子と桐渓岳大、本名・桐ヶ谷裕貴は同じ中学校の出身だったのだ。ある意味これが最も嫌な事実だ。殺人事件の重要参考人と被害者に繋がりがあったとなれば、誰だって何かあったのではないかと勘繰ってしまうだろう。

 雫由は、「辻本さんと河合さんのどちらが主犯だとしても動機はわからない」と言っていた。辻本さんを死なせる殺人劇を河合さんが受け入れる理由が思いつかない、と。

 しかし、過去に何らかの、そう、例えば強い怨念を抱くような出来事があったとするとどうだろうか。

 強烈な憎しみ──それは時として人を狂わせ、選択を誤らせる。動機及び背景としては十分だろう。殺人を犯す際の最大のデメリット、すなわち逮捕されるリスクを減らし、そのうえで復讐を遂げられるのならば、と凶行に走ってもおかしくはない。

 また、辻本の主治医にも話を聞いたが、事実、彼の余命はほとんど残されていなかったようだ──これが四つ目だ──し、凛香子の心を救うために彼のほうから今回の殺人を提案した可能性もある。その時に彼女の自制のたがが外れてしまった──これもありうるパターンだろう。

 心の闇雲は大きくなるばかりだった。

 もっと調べる必要がある。そう判断した蒼介は、桐渓の実家にあった卒業アルバムに名前のある人物たちを当たることにした。


 

 蒼介は埼玉県鰓陸市にある某小規模マンションに来ていた。時刻は午後の一時になろうとしているところだった。

 ここにかつて凛香子たちと同級生だった伊織美咲という女性が住んでいる。彼女を最初に訪ねたのは、市役所から近かったからだ──彼女の現住所は住民票の写しを取得して把握した。警察官の身分を利用したわけだが、正式な捜査でない以上グレーゾーンどころか懲戒処分を下されかねない違法な手法である。しかし、このくらいならば蒼介は気にしない。

 このマンションにはオートロックはないようだった。エントランスを素通りし、伊織の部屋のある三階までエレベーターで昇った。

 伊織の部屋の前まで来た。平日の真っ昼間に在宅しているかは不明だが、ここまで来て引き返すなどありえない。蒼介はインターフォンを押した。

 やや間を置いて、

『……はい、どちら様でしょうか』

 女性の声が発せられた。

 インターフォンのカメラに向かって警察手帳を呈示し、

「埼玉県警の者です」

『……またですか』嫌気が差すというよりは、純粋に疑問に思っている様子だった。すでに捜査本部の刑事が事情聴取に訪れた後なのだろう。

「本日は少しだけお聞きしたいことがあってご訪問いたしました」申し訳ないのですが今一度お時間頂けますでしょうか、と続けた。

『わかりました、少々お待ちください』

 十秒ほどで玄関扉が開けられた。現れたのは茶色掛かったセミロングヘアの、まるでグラビアアイドルのようなスタイルの女性だった。中学校を卒業した当時の面影がある。この人が伊織美咲だろう。

「はじめまして、埼玉県警捜査一課の桜小路蒼介です」言いながら改めて警察手帳を見せた。

「伊織美咲です」伊織の顔には、今度は何を聞かれるんだろう? と書いてある。

「お忙しいところ、ありがとうございます」

「いえ、それはいいのですが……」何を話せばいいんですか、と言外に問うてきた。

 焦らすつもりはないので早速、本題に入る。「伺いたいのは桐ヶ谷裕貴さんと御影大輔さんのことです」

「……」伊織は訝るように、「前に来た時も御影君のことを聞いてましたけど、事件とどんな関係があるんですか」

 ──ということは、〈河合凛香子=御影海里(大輔)〉という事実は知らないのだろう。演技でなければ、だが。

 蒼介は答える。「申し訳ありません、捜査に関することは必要最低限しかお教えできないことになっておりまして」

「まぁそうですよね」伊織はあっさりと引き下がった。

 ええ、申し訳ないです、と応じてから、尋ねる。「中学時代の彼らの関係や様子を聞かせてください」

 さぁ、何が出る? 鬼? 蛇? それとも……、

「前にも言いましたけど、彼らはいじめの加害者と被害者の関係でした。桐ヶ谷が御影君をいじめていたんです」

「!」なるほど、と合点した。学生時代のいじめの恨みが動機になっている犯罪は、相対的には少ないが確かに存在する。歯車が噛み合ったかのようだった。「いじめというのは、具体的にはどういったものだったのでしょうか?」

 伊織は眉間に浅いしわを作り、「……そうやって同じことを尋ねるのは、わたしの証言に矛盾がないか確かめるためですか」

 この問いに対して肯定するには嘘をつく必要がある。かといって否定してしまうと、じゃあ何で同じことを聞くのか、と詰問されかねない。しかし、やっていることが権限のない違法捜査であるため正直に話すわけにもいかない。とどのつまり、この場合にも嘘をつかなければならないのだが、蒼介にはだましおおせる自信がない。積極的な嘘が何よりも苦手なのだ。不自然な態度になるのは確実だった。

 それを見た伊織はどう思うだろうか。この人本当に警察官なのかな、何か怪しいな、とその裡に不審の念が芽生えてしまうかもしれない。後で埼玉県警に問い合わせてみよう、などと思われたらおしまいである。

 どうする? さっきみたいに、教えられませんって答えるか?──いや、とすぐにその選択肢を打ち消した。こんなことにまで黙秘していては、やはり胡乱うろんに思われるだろう。

 背筋を冷たいものが伝う。非常に嫌な質問だ、とまさに返答に窮していた。──しかし結局、

「え、ええ、ま、まぁそんなところです」

 と無理やりに首肯した。びたブリキ人形かよ、と自分でもあきれるほどのたどたどしさだった。

「けれど」と蒼介は言い訳を続ける。「警察とはそういうものなんです。どうかご理解ください」

「……そうですか」瞳に怪訝を帯びてはいるが、一応は納得してくれたようだった。蒼介は胸を撫で下ろした。

 伊織は、「わたしもそれほど詳しいわけではないですが」と前置きしてから、質問に答える。「最初はいじられるだけだったらしいです。でも、次第にエスカレートしていって、お金を要求されたり暴力を振るわれたり万引きをやらされたり──」それから、と言いづらそうに間を取り、「売り・・をやらされたりもしていたようです」

「売りというと──」

「売春を強要されていたということです」

「それはまた……」言葉を失ってしまう。その時の凛香子の──御影少年の気持ちを思うと胸が詰まる。ただ、「御影さんは誰かに相談したりはしなかったのですか?」

「弱みを握られていて、そういったことはできなかったようです」

「その弱みというのは?」

「……」伊織は眉を険しくして傷心の色を浮かべた。そして、一呼吸空けた後、

「御影君にはコカワカイリという友人がいました」

 コカワカイリ?!──蒼介は驚愕に目をいた。雫由の言っていた河合凛香子のアナグラム、〈コカワカイリ〉と完全に一致しているのだ。

 これはいったいどういうことだ? なぜ友人の名前を──、

「どうしました?」驚いたり深刻そうに考え込んだりと忙しい蒼介を不思議に思ったのだろう、伊織はわずかに首を傾けている。

「いえ、すみません、続けてください」薄ら寒いものを感じるが、まずは伊織の話を最後まで聞くことにした。

「はぁ、わかりました」伊織は、腑に入りきってはいない様子だったが、素直に従った。「……カイリはみんなから好かれる、かわいくて明るい子でした。それが……中学二年生の夏に彼女は首を吊って自殺してしまいました」

「理由を伺っても……?」

 伊織は暗い面持ちで、「正確な理由はわかりません──」ただ、と続ける。「カイリが亡くなって少ししてから、彼女が桐ヶ谷たちに性的暴行を加えられていたという噂が流れました」

「それを苦に自殺した、と」

「かもしれない、という話です。真偽はわかりません。桐ヶ谷たちは逮捕されなかったようですし、まるっきりのでたらめの可能性のほうが高いです」そうは言いつつ、伊織は何かを確信しているようだった。

「わかりました、そのように理解しておきます──」ところで、と、この話が御影の弱みとどう関係するのかを尋ねた。

 伊織は言う。「これはあくまでわたしの憶測ですが、カイリは、その……レイプされているところを撮影されていたのかもしれません。そして、桐ヶ谷たちはそれをネタに御影君を脅迫していた──そういうことだったのではないでしょうか」

 つまり、「『コカワカイリのレイプ動画をネットで公開されたくなかったら言うことを聞け』と脅迫されていたのかもしれない」と伊織は言っているのだろう。

「……ひどいですね」

 御影少年からすれば、亡くなっているとはいえ友人の名誉が毀損きそんされることは受け入れられず、従わざるを得なかった──ない話ではない。

 少女をレイプして自殺に追い込み、にもかかわらず一切反省せずにその時の動画を利用して少女の友人の御影少年を脅迫する。それが真実だとしたら、殺人の動機になっても何ら不思議ではない鬼畜の所業だ。

 ただ、桐ヶ谷への復讐が目的なら彼以外の殺人はなぜ行われたのだろう? カムフラージュだろうか──それはそれで身勝手すぎる。到底許されることではない。

「……あの、刑事さん」伊織に呼ばれた。

 何でしょう? と目で先を促すと、

「御影君は元気ですか?」

「あー、それはですね……」何と答えづらい質問だろうか。

「あ、いえ、いいんです」伊織は顔の前で手を振った。「捜査のことは言えないですよね。教えてくれなくても大丈夫です」

「すみません」

 その後も少しの間、会話を続けた。

 礼を述べてマンションを出た蒼介は、立ち止まって丈夫さだけが取り柄のデジタル式の腕時計に目を落とした。一時三十二分を示していた。

 見上げれば、太陽が輝いていた。日差しが強い。夏らしいじりじりとした暑さだ。

 小さく息をつき、再び歩きはじめた。

 


 蒼介は独自の違法捜査を続けた。

 桐渓以外の被害者たちについても調べたが、殺意を抱かれるほどの恨みを向けられていたという事実は確認できなかった。また、恨みを買うような行動もしていなかったようだった。

 このことが示すのは、桐渓岳大──桐ヶ谷裕貴の殺害こそが目的で、彼以外の殺人はそれを覚らせないための目くらましにすぎなかった可能性が高いということだ。

 当然、憤りはあった。そんな理由で殺された彼らが不憫ふびんでならない。

 しかし、凛香子を逮捕できるだけの証拠は何もなかった。  

 当たり前といえば当たり前だ。共謀共同正犯きょうぼうきょうどうせいはんにしろ教唆犯きょうさはん幇助犯ほうじょはんにしろ、実行するのが辻本一人である以上、その証拠を残さないことは難しくはない──密談を記録しなければいいだけだからだ。

 世間は凛香子を、まるでフィクションの中の名探偵のようだ、と称賛している。彼女はメディアへの露出は極力控えているようだが、それがミステリアスさの演出に繋がり、美貌のミステリー作家ということも相まって熱心なファンが急増しているらしい。

 これ以上、蒼介にできることはなさそうだった。雫由も、「河合さんの関与を立証する方法はない」と言っていた。

 雫由にも妙案はないみたいだし、後は特捜本部に期待しておとなしくしてるしかないか──そう判断せざるを得なかった。

 


 幾ばくかの時が流れた。

 ある晴れた日、捜査一課のオフィスでデスクワークをこなしていた蒼介は、上司──捜査一課長の白田しろた隆二りゅうじに声を掛けられた。白田は今年で五十歳になる目つきの鋭い悪人面の男だ。

 何すか、と顔を向けると、

「お前が巻き込まれた辻本の事件の捜査本部、解散されたみてぇだ。被疑者死亡で不起訴だとよ」

「!」悔しさに拳を強く握りしめた。「そう、ですか」と答えるのがやっとだった。

 恐ろしい顔立ちの白田だが、その内面はそうではない。蒼介を気遣うように、「どうした? 大丈夫か?」

「……いえ、大丈夫です」

「そうは見えねぇけど」納得はしていないようだったが、「ま、言いたくねぇならいいけどよ。何かあったら相談ぐらいはしろよ」

「はい、ありがとうございます」

「おう」

 白田は自身のデスクに戻っていった。

 はぁ、と溜め息をつき、パソコンに視線を戻した。

 黙々とキーボードを叩き、種々の書類を作成していく。集中できてはいない。おそらく普段よりもケアレスミスは多いだろう。気は進まないが、見直しを入念にする必要がありそうだった。

 何とかこの日の業務を終え、自身の車──青のSUVに乗り込んだ。外はすっかり暗くなっている。夜の七時まであと少しというところだった。

「……ダメだな」ぽつりとつぶやいた。

 事件の真相──凛香子の心の在りかがわからなくて、どうにも落ち着かない。

 本当に彼女が真犯人なのだろうか。

 彼女は今、何を思っているのだろうか──積年の恨みを晴らせて爽快な気分? それとも、罪悪感にさいなまれている? 最愛の人を失った悲しみに涙している? 後悔している?

 さまざまな疑問が頭の中を駆け回っていた。

 あるいは、「わたしは犯人ではない」と否定してほしいのかもしれない。雫由からいろいろ聞かされたり凛香子の犯行を疑わせる事実を見つけたりしても、心のどこかでは未だに彼女を信じようとしているのかもしれない──だから、こんなに心が締めつけられているのかもしれない。

「……あー、クソッ」ガシガシと頭を掻きむしり、そして、スマートフォンに手を伸ばした。通話・メッセージ用アプリを立ち上げる。

 凛香子さんに会おう。それで……。

 蒼介は通話アイコンをそっとタップした。


 

 凛香子はすぐに通話に応じてくれた。

「聞きたいことがあるから今から会えないかな」

 いきなりだったにもかかわらず、『いいよ、場所はどこがいい?』

「今は自宅にいるのか?」

『そうだよー』蒼介君はおうちデートがご所望かな、と楽しそうに冗談めかしてさえいた。

「行ってもいいか?」

『東京の吉城寺きちじょうじ駅の近くだけど来れる?』

 車で一時間ほどの場所だ──住所は把握していたが、「具体的な住所を教えてもらえるか」

『ええとね、東京都無蔵野むさしの市──』凛香子は都内の住所を口にした。

 復唱して確認を取るふりをしてから、「一時間ぐらい掛かりそうだから悪いけど待っててほしい」

『わかった、部屋の掃除をして待ってるね』

 という流れで、東京の無蔵野市にある凛香子の自宅──駅から徒歩数分の所にあるタワーマンションを訪れ、そして現在、上層階にある彼女の部屋に蒼介はいる。L字になるように置かれたソファに、やや距離を取るようにして二人は座っている。

 凛香子が言う。「それで、今日はどうしたの?」

「……」いても立ってもいられずここまで来てしまったが、いざ面と向かうと尻込みしてしまう。しかし、真相を知りたいという思いに促され、蒼介は口を開いた。「あれからいろいろ調べたんだ」

「へー」凛香子は関心なさそうに相づちを打った。

「辻本さんとの関係や凛香子さんの障害のこと、それに桐渓さんとのことも聞いた」

「そうなんだ」艶然えんぜんとほほえみ、「幻滅して嫌いになっちゃった?」

 静かにかぶりを振る。「たしかに思うところがないと言ったら嘘になるけど、性転換とか昔いじめられてたとか風俗で働いてたとか、そういうことで嫌いになったりはしないよ」

「おー、受け入れてくれるんだ。うれしいよ。ありがと」穏やかな笑みを浮かべているが、しかしその瞳の奥には深い闇が潜んでいる──蒼介にはそんなふうに見えていた。

 凛香子の用意してくれた紅茶からは独特のさわやかな香りが漂っている。あの日、館で出された紅茶と同じ香りだった。

 蒼介は尋ねる。「どうして自殺した友人と同じ名前にしたんだ?」

「──古川さんのことまで調べたんだ」すごいね、流石は現役の刑事さんね、と凛香子は言葉だけで感心してみせてから、「じゃあ彼女が桐ヶ谷たちに何度も何度もレイプされて、それで妊娠したことも知ってるのかな?」

「……妊娠については初耳だ」

 そっか、と凛香子は小さく言い、物思いにふけるようにテーブルの上の紅茶を数秒間見つめ、やがてそれを口にした。「〈海里〉という名前にしたのは、自分への罰よ」

 罰?──予想外の言葉だった。過去に何があったんだ? 

 凛香子は蒼介を見ずに続ける。「古川さんが桐ヶ谷たちに目をつけられたのは、わたしのせいなのよ。わたしとさえ関わらなければ、彼女が桐ヶ谷たちにレイプされることもなかった」

「それは──」違う、悪いのは桐ヶ谷たちであって凛香子さんじゃない、と言おうとしたが、

「古川さんはね」凛香子の声に遮られた。「わたしを助けてくれた。心と身体のズレや親のこと、桐ヶ谷たちのこと──もう何もかもが嫌になって死のうとしたわたしを止めてくれた。友達になってくれた」それなのに、と眉間を曇らせ、「わたしは彼女を地獄に落とした」しかも最悪なことにね、と自嘲的な笑みを浮かべ、「苦しむ彼女を見たくなくて、罪悪感に耐えられなくて、わたしは彼女から逃げた。唯一の味方になれたはずなのに、わたしは自分の心を守るためにそれをしなかったのよ。そして挙げ句の果てには、必死に救いを求める彼女を拒絶した。あの時、古川さんの求めに応えられていたら彼女は死ななかったはずよ」

「だから古川海里さんの自殺の原因は自分にもある、と?」

「そうよ、当たり前でしょう?」凛香子はその罪の存在を信じて疑っていないようだった。「この名前ならば、名前を呼ばれたり書いたりするたびに彼女を思い出して罪の意識に苛まれるわ──それが罰、古川さんを見殺しにしたわたしが受けるべき罰よ」

「ペンネームが〈コカワカイリ〉のアナグラムになっているのもそういう理由か」独言どくげんするように問うと、

「あら、アナグラムに気づいていたのね」と意外そうに言ってから、「お察しのとおり、ペンネームからも古川さんが心に浮かぶようにしたのよ」

 徹底してるな、と蒼介は思った。凛香子さんにとって古川海里さんはそれだけ大切な人だったのだろう。

 桐ヶ谷への憎しみの深さを想像すると息が苦しくなる。つらかっただろう。悔しかっただろう。

 しかし──それで殺人から違法性が阻却されることはない。絶対にない。

「凛香子さん」

 蒼介が呼びかけると、凛香子は黒曜石のような瞳をこちらに向けた。電灯により黒く照っている。

「桐渓──桐ヶ谷裕貴を憎んでいたのか」

 凛香子はきつねにつままれたような表情になって目をしばたたき、それから、ふんっ、と鼻先で笑った。「憎まない理由はないわ。あいつがいなかったらと思わない日はない。今もまだ──」

「だからか、だから辻本さんと共謀して桐ヶ谷を殺したのか」

「……何のことかしら」凛香子の瞳に氷のような冷たさが宿る。「たしかに動機はあるわ。けれど、それだけで犯人扱いはひどいんじゃない?」

「根拠はほかにもある。あの時、辻本さんは──」蒼介は、雫由から聞いた、そして自身の捜査により裏付けられた推理を口にし、最後に、「あなたを黒幕だと考えるとすべてに説明がつく。正直に話してくれないか、凛香子さん」

 凛香子は取り乱すでもなく、「蒼介君の言ってることはすべて推測にすぎないわ。証拠はあるの?」

「それは──」

「ないわよね」あったらわざわざうちに来てこんな話はしないものね、と余裕の態度。「わたしは無実よ。疑わしいかもしれないけど、実際には何もやっていない。それが事実であり、あらゆる主観に認められるべき真実よ」

「……当時、あなたをいじめ、古川海里さんに性的暴行を加えていたメンバーは、桐ヶ谷のほかに四人いたと聞いた」

「……そのとおりよ」深く静かな、そして剣呑な声だった。

「あなたは内罰的な人だ。倫理観が完全に壊れているわけでもない」

「……」凛香子は黙して聞いている。

「そんなあなたが、疑いの目を自分に向けさせないために、カムフラージュのために四人もの命を犠牲にした──きっとそれはとても苦しいことだ。悪夢にうなされることもあるだろう。ふと泣きたくなることだってあるだろう」

「……」膝の上に置かれた凛香子の手は、固く握られている。

「それでも自首するでもなく白を切るのは、まだ捕まるわけにはいかないから──どうしても成し遂げたいことがあるから」

「違う、わたしは何も──」

「残りの四人の殺害──それがあなたの目的、自首をしない理由なんじゃないか」

 凛香子を信じたい気持ちはある。けれど、もしも犯してしまった罪があるのなら認めてほしいと、そしてこれ以上罪を重ねて自分を苦しめないでほしいと、そう願う。

 しかし──、

「ふふ」凛香子は、その美しい顔にかすかな笑みをたたえ、「蒼介君はひどい人ね。証拠もないのにわたしを犯人だと決めつけて」あるいは、せせら笑っているのかもしれない。「どんなに恨んでいても人殺しなんてするわけないでしょ? そんなことをしたらあいつらと同じになってしまうわ」

「……そう、だな」

「そうよ、わたしはそんなことしない」あーあ傷ついちゃったなぁー蒼介君わたしのことそういうことする人だと思ってたんだー急に会いたいって言うからちょっぴり期待してたのになー──凛香子はからかうように笑った。

 けれど蒼介には、

「……はは、すみません、職業柄疑い深くて」

「あーそうだよね、刑事さんだもんね」

 蒼介には、凛香子が、まるで母親とはぐれてしまっていている幼子のように感じられた──おかあさんどこにいるの、こわいよ、さびしいよ、どこにいけばいいの、どこにいけばあえるの、たすけておかあさん、たすけて、と。

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