現在⑦

 甘露るいはコンクリートでできた森の中──東京の某繁華街を歩いていた。時刻は午後の十時を過ぎているというのに、活気に溢れ、喜びとか悲しみとか人間から生まれるさまざまが感情がネオンサインと共に輝いている。

 気配を殺して歩を進めるるいの視線の先、およそ三十メートル離れた所を、ニット生地の黒いトップスと紅葉もみじを思わせる色合いのスカートを着こなした女性──河合凛香子が歩いている。るいは凛香子を尾行しているのだ。

 凛香子は、先ほどまで編集者らしき女性と共に駅の近くにある創作居酒屋にいた。おそらく新作か何かの打ち合わせを兼ねて飲んでいたのだろう。

 いい気なものだ、とるいは舌打ちしたい気持ちになった。が、こらえる。妙な勘を働かしてこちらに気づかないとも限らない。そんな事態は避けたい。目的が果たしづらくなってしまうからだ。

 孤島から帰ってきたるいは、何もする気になれず、勤めていた会社も辞めてただ漫然と日々を過ごすようになった。半ば引きこもりのような生活だったが、親元を離れてアパートで暮らしているるいを咎める者はいなかった。

 そうして一箇月半ほどが経ったある日、面影の揺蕩たゆたうワンルームで一人、無音の世界に溺れながら何とはなしにあの日の事件のことを考えはじめた。そしてるいは、やっぱりおかしい、と幾度目かの結論に至った。

 館にいた時は心が乱れていてまともに思考できなかったから違和感を覚えることはなかったが、時間が経って冷静になると辻本が犯人というのはどうにも不自然に思えてならない。辻本らしくないのだ。たしかに彼は変人だったし子供のように自分勝手な面もあった。けれど、クローズド・サークルに憧れて殺人事件を起こすような狂人ではなかったはずだ。

 それに、と思考を進めた。あの日のあの瞬間以外でほかの作家の小説を悪く言っているところは見たことがなく、作風が気に入らないからターゲットに選んだというのも薄っぺらい言い訳に聞こえて素直に受け入れられない。それならどうしてみんなの小説を集めていたんだろう? と納得できなかった。

 とはいえ、そこから先はいつも思考の袋小路ふくろこうじだった。じゃあ本当の動機は何なのか、という疑問に答えが出たことは一度もなかった。

 のだが、この日は、ふと蒼介との会話──辻本の女癖の話──が頭をよぎり、「あ」と気づきの声を洩らした。ひらめきというものは閃光のように一瞬で幾つもの事実を繋げてしまうらしく、るいは真相らしきもの──凛香子の名声のための犯行だった可能性──にたどり着いた。怒りの矛先を向けるべき相手を求めていたるいにとって、その推測はとても魅力的だった。それはすぐに確信へと変わった──凛香子さんだ、あの女が真犯人なんだ、と。

 心臓の刻むリズムが速まっていくのがわかった。身体が熱かった。

 あれは笑っていたんだ、と記憶を確かめながら思った。凛香子が真犯人だと思い至るまでは気のせいだと思っていたが、もう、そうとしか考えられなかった──桐ヶ谷の遺体を見た瞬間、刹那の間だけ凛香子の口元に笑みが浮かんだのだ。愉快そうな、とてもうれしそうな笑みが。

 るいは震えていた。怒りで気が狂いそうだった。ぶさけるな、ぶさけんなっ! と魂が激昂げきこうしていた。

 世界で一番大切な人を──桐ヶ谷裕貴ゆうくんを殺した凛香子への怒りと憎しみが際限なく膨れ上がっていった。

 許せない許せない許せないっ!!

 桐ヶ谷との思い出がよみがえり、視界がにじんだ。

 かなしみは心を締めつけ、狂わせていった。

 そして、るいはその、自らの激情に従い、それを決意した。

 ──殺す。絶対に殺す。内臓も筋肉もあの作り物めいたきれいな顔も全部全部ぐちゃぐちゃにして殺してやる。絶対に許さない。必ず殺す。必ずっ……!!

 こうして、るいはアパートを飛び出した。



 計画なんてものはなかった。凛香子を見つけて、隙を突いてめった刺しにする。それしか頭になかった。

 凛香子のマンションの場所は知っていたので、そこが見える近くの喫茶店で本を読むふりをしながら彼女が出てくるのを待った。二杯目のカフェモカが空になった時、凛香子がマンションの入り口から現れた。

 そうして、尾行を開始し、今に至る。

 凛香子の姿勢のいい後ろ姿を射貫いぬくように見つめながら、るいは歯軋りした。なかなか殺害の好機が訪れないからだ。考えてみればそれも当然だった。凛香子の自宅であるタワーマンションは都心の駅のすぐ近くにある。そこを中心に生活しているならば人目につかない状況というのは、そう多くないだろう。

 かといって、セキュリティの堅そうなタワーマンションに押し入るのも難しいだろう。一応、友人のような関係であるからそれらしい理由をこしらえて訪問することは可能だろうが、そうするとるいの痕跡を残してしまう。こんな、殺されて当然の女を殺して、それで刑務所に入るのは納得できない。ゆえに、我慢して隙を窺っていた。

 しかし、もう自分を抑えられそうになかった。繁華街だからとか逮捕されるからとか、そんな理由では殺意は静まってくれない。

 もういいや、もうここでってしまおう。

 バッグに右手を入れた。中にはフェイスタオルでくるんだ包丁を忍ばせている。街行く人々に覚られないようにバッグから取り出さずに右手だけでフェイスタオルを取り払った。硬く冷たい柄を握ると、心臓がなお一層はしゃぎ出した。

 凛香子に向かって早足に進む。

 通り過ぎる人々の足音や話し声が遠くなっていく。そしてすぐに、るいの世界から音が消失した。自分の呼吸の音すら聞こえない。何も聞こえない。

 けれど、問題はない。凛香子を殺すのに音はいらない。

 凛香子のすぐ後ろまで到達した──その時、自分に向けられる殺意に気づいたのか、彼女は振り返った。「──?」

 迷いはなかった。るいは包丁を取り出し、渾身こんしんの力を込めて突き出した。肉を裂く感触。腹部に深々と突き刺さっていた。引き抜くと、凛香子はうずくまった。

 悲鳴は聞こえない。世界は静かなままだ。

 包丁を逆手に持ち、振り下ろすようにして突き立てながら、るいは笑っている。涙を流しながら笑っている。

 ──楽しいな、苦しいな、うれしいな、悲しいな。

 紅い翅をはためかせ、何度も何度も刺す。

 刺す。

 刺す。

 刺す。

 音はまだ戻らない。  

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