過去⑥

 毎日のように沼尻たちの相手をさせられる地獄の日々が続き、一箇月ほどが経った。

 美咲には桐ヶ谷たちのことは話していない。彼女は何かを感じ取っているようだが、確信には至っていないようだった。

 罪悪感が心を刺激するけれど、助けを求めたいけれど、でもそれはできない。してはいけない。

 自分たちがさらされるのは、もちろん嫌だ。当然受け入れられない。加えて、下手をすると美咲まで巻き込んでしまうかもしれないという不安があった。

 美咲にはこんな思いをさせたくない。こんな景色は知らなくていい──海里は心にふたをして明るく笑う。そうするしかなかった。

 御影とは次第に関わらなくなっていった。今となってはすれ違ったときに挨拶するだけの関係だ。

 嫌いになったわけではない。寂しいとも思う。また話したいという気持ちもある。

 けれど、あの日以降、御影は海里を避けるようになっていった。おそらく自分のせいで海里がレイプされたと考えていて気まずさを感じているのだろう。

 御影のせいじゃない。あたしが犯人捜しをしようなんて言い出したからこうなったんだ。だから、気にしなくていい。

 そんなふうに言っても無駄だった。むしろその言葉が余計に御影を苦しめてしまったようだった。今にも泣き出しそうな顔で、「ごめん……」と言っていた。

 それ以上何を言えばいいのかわからなかった。結局、御影から罪の意識をなくすことはできなかった。



「……ん! ……かわさん!」

 誰かの声が聞こえる。

「古川さん!」

 どうやら海里の名前を呼んでいるようだ。しかしどうでもいい。眠い。もう少し寝ていたい。

 そうして眠気に身を委ねようとして、

「……あ」

 今の自分の状態──授業中に机に伏して居眠りしていた──を理解し、慌てて身を起こした。担任の土井どい──眼鏡を掛けた四十代の女性教師だ──があきれ顔で海里を見下ろしていた。

「ごめんなさい!」海里はすぐに謝った。

 クスクス、とそこかしこから忍び笑いが聞こえる。一気に羞恥心が膨らむ。顔が熱い。

「わたしの授業はそんなに退屈ですか」土井は冷ややかな声音で尋ねてきた。

「い、いえ、そういうわけでは──すみません」

「いえ、いいんですよ、つまらない授業しかできないわたしが悪いんですから」土井は嫌みったらしく言った。それから、眼鏡をクイッと直し、「ところで古川さん」

「は、はい」

「あなた、この前の定期テストは大変すばらしい成績でしたね。なかなかいませんよ、五教科合計で二百十ニ点しか取れない優秀な生徒は」

 ぷっ、と失笑の音。

 土井はこれ見よがしに大きな溜め息をつき、「わたしたちにもいろいろありましてね、困るんですよ、クラスの平均点を落とされると。まともな点数を取れるなら好きなだけ惰眠を貪ってもいいんですけどね、古川さんはそうではないですからねぇ」

「すみません」

「本当に反省しているのですか。どうも口だけな気がしてならないのですよ」

「反省してます。嘘じゃないです」

「そうですか、では、次はせめて三百点は取ってください」

「……」沼尻たちに頻繁に呼び出されるせいで勉強時間を確保しづらく、また、心身共に疲弊している現状で三百点を取るのはかなり難しく、返答に窮してしまう。

「どうして黙り込んでいるのですか。やっぱり反省しているというのは嘘なんですか」

「いえ、そういうわけでは──」

「それなら約束できますね?」

「……はい、次の定期テストはもっとがんばります。すみませんでした」

「……まぁいいでしょう」

 土井は授業を再開した。

 はぁ──海里は小さく溜め息をついた。最近、何もいい事がない。

 それにしても今日はやけに眠い。頭痛もある。嫌な感じだ。

「……」

 とても嫌な感じだ。



 心当たりはあった。今まであまり深く考えないようにしていたけれど、その不安はいつも頭の片隅にあった。

 放課後、海里はドラッグストアにやって来た。入り口をくぐるとまっすぐに生理用品コーナーへ向かう。ピンクや水色などのかわいらしい色合いのパッケージをスルーして目的の品──妊娠検査薬へ視線をやる。

 心当たりとは妊娠のことだ。沼尻たちは避妊など一切しない。沼尻に至っては必ず膣内に射精する。本能なのか、小さなペニスを必死に深く押し込みながら、だ。そんなことを数えるのもバカバカしくなるくらいやられてきた。

 海里とて対策をしていなかったわけではない。初めてレイプされた日の二日後には産婦人科を訪れてアフターピルを処方してもらった──「避妊に失敗して」と嘘をつき──し、低用量ピルも、「生理痛を抑えたい」という建前で入手し、服用していた。

 高い避妊効果があるが、ごく低確率で妊娠してしまうこともある──診察した医師はそのようなことを説明していた。

 とはいえ、そんなことは起こらないだろう、と自らに言い聞かせていた。生理が遅れていても、そういうこともあるだろう、と現実から目を逸らしていた。

 しかし、つわりらしき症状が出てきてしまうと、そうも言っていられない。嫌な事から逃げつづけることはできない。

 棚には妊娠検査薬が幾つも並んでいる。

「……」いろいろあってどれがいいのかよくわからない。

 どれも正確さをアピールする文言が記されている。どれでもいいか、と五百円程度のものを買い物かごに入れた。次いで、お菓子や菓子パンのコーナーに行き、メロンパンとあんパン、それから新作のチョコレート菓子を買い物かごに放り込む。レジで会計を済まして外に出ると携帯電話を確認した。メールは来ていなかった。ほっと息をついた。

 家に帰り着いた海里は、早速、買ってきた妊娠検査薬を持ってトイレに入った。尿を掛けて待つだけなので検査自体は数分で終わった──スティック状の妊娠検査薬の中心部、そこにある判定用の窓に赤い線が出ていた。陽性反応だ。

「……」心がきしんでいる。「……」

 下腹部に手のひらを当てる。この中にあいつらの誰かの子がいる。そう思うと、

「──ぅ、ぅぐ、ひっく、ぅ、ひっく」涙が溢れてきた。

 悲しさ、虚しさ、悔しさ、恐ろしさ、気持ち悪さ──さまざまな負の感情が心を蹂躙じゅうりんしていた。

 自分はもっと強いと思っていた。逆境でも折れずに、自分を見失わずに闘える、そんな人間だとうぬぼれていた。

「もうやだ、ひっく、もうやだよぅ……」

 膣の奥、子宮から不快感が込み上げてくる。それは汚らしいヘドロのような、あるいは下水のような悪臭を放ちながら全身を満たしていく。内臓が、筋肉が、骨が汚れていく。鳥肌が立ち、吐き気にあえぐ。

「ぅうぇ、うぐっ──」膝を突き、便器に顔を寄せる。そして、嘔吐おうとした。吐き出せたのは胃液だけだった。胃液特有の酸っぱい味が口内に広がる。再び吐いて、吐いて、程なくして落ち着きを取り戻した。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 しかし、

「──汚い」自己嫌悪は止まらない。「汚い、汚い……」

 あたしは汚い……。

 


 御影は、海里の自宅から徒歩で三十分ほどの距離にある築五十年ほどの古い一戸建てに母親と二人で暮らしている──母子家庭だそうだ。母親は家にいないことがほとんどらしく、半ば一人暮らしのようになっているとも言っていた。

 そういったことを計算したわけではないが、海里は御影の家の前まで来ていた。何か具体的な目的があったわけではない。自分の中で渦巻くさまざまな感情を処理できず、つらくて苦しくて、もうどうしていいかわからず、優しくしてくれる誰かを心が求めたのだ。それで、沼尻たちを除いて唯一事情を知る御影に会いに来た。

 御影の家は灰色のブロック塀に囲まれているが、門扉はない。その、入り口に当たる塀のない部分を抜け、玄関へと続く短いアプローチを歩き、玄関扉の前まで来た。呼び鈴を押す。が、反応はない。息を凝らして聴覚に意識を集める。中から人の気配は窺えない。携帯電話を見ると、十七時三十ニ分と表示されていた。御影はまだ部活中だろう。そんな当たり前のことに今更思い及んだ。彼が帰ってくるのは、おそらく二時間後ぐらいだろう。

「……」

 海里は玄関扉の前に膝を抱えるようにして座り込んだ。玄関ポーチのタイル貼りの床はひんやりしている。近くを小さな虫が歩いている。

 今日は諦めて家に戻ろうという考えはない。御影が帰ってくるまで、こうして待っているつもりだ。

 早く帰ってこないかな──そう願いながら瞳を閉じた。



 足音が聞こえた。

 帰ってきたのかな──海里は顔を上げて道路のほうを見た。果たして、スポーツバッグを肩に下げた御影が現れた。

 海里に気づいた御影は、驚いたようにびくりと身を震わせて歩みを止めた。

「……」御影の顔を見たら、感情がまた暴れ出した。「……ぅ、ひっく、ぅく、ひっく」泣かないつもりだったのに自分をコントロールできない。涙が止めどなく流れる。

 御影は海里のそばまで歩み寄った。悲しそうに眉間を曇らせている。「古川さん……」

「御影っ、あたし、ひっぐ、あたし、ひぅ、もうどうしたらいいかわかんなくて、身体全部汚いし、ひっく、気持ち悪いし、ひっく、苦しい、苦しいよぅ──」

 御影は当惑の表情を浮かべつつも、「中で話そう」

「──っく、ひっく、ごめ、ごめんねっ、こんなの迷惑、だよね、ぅ、ぅ」

「そんなことないよ、大丈夫」御影はそう言ってから玄関扉の鍵を回した。「ドア開けるよ」

 海里は緩慢に立ち上がり、玄関扉から離れた。

 御影が玄関扉を開けた。「入って。古いし散らかってるけど許してね」

 御影の言に従い、敷居をまたいだ。ミシミシと鳴る廊下を進み、居間に通された。

「適当に座って」

 こくり、とうなずき、座卓のそばに腰を下ろす。

「飲み物持ってくる」御影が居間から出た。

 二分ほどでコップを二つ持って戻ってきた。座卓を挟んだ向かい側に座る。

「……」「……」居心地の悪い沈黙。何を言えば、何から話せばいいのか。

「今日はお母さんは……」海里が何とか絞り出した言葉は、核心を避けたものだった。

「たぶん今日は帰ってこない。帰ってくるとしても深夜二時以降だと思う」

「そうなんだ」

 また会話のない時間が訪れた。

 ふと、香水のものらしきにおいが気になった。フルーティーな甘い香りだ。御影の母親のものだろう。こういう香りは嫌いではない。そのはずなのだが、

「……ぅ」

 海里は胃の辺りにムカムカとする不快感を覚え、右手で口を覆った。また吐き気がしていた──ダメ、我慢しなきゃ。御影に嫌われたらあたしは……。

「どうしたの? 大丈夫?」御影が心配そうに尋ねてきた。

「ううん、何でもない。何でもないよ」海里は笑顔を作ってみせた。

「……」御影は疑わしそうな視線を寄越してきたが、「無理はしないでね」と追及してこなかった。

「うん、ありがと」

 それからしばらくの間、気まぐれに降る小雨こさめのようにポツポツと言葉を交わした。

 そして、海里はそれを口にした。「あたし……あたし、妊娠したんだ」

「っ!」コップへ伸ばされていた御影の手が、宙で停止した。

「……今日、妊娠検査薬で調べたら陽性だった」海里の心臓は悲鳴を上げるかのように早鐘を打ちはじめていた。「誰の子かはわからない。桐ヶ谷の子かもしれないし、野々山の子かもしれない」

 と言いつつ海里は、理屈を超えた部分で確信していた。この子は沼尻の子だ、と。あたしを都合のいい人形として愛しているあの少年の子だ、と。

 御影は言葉を失っている。いきなりこんなことを言われても何と答えていいのかわからないのだろう。

 それでも、海里は続ける。打ち明けたら歯止めが利かなくなってしまったのだ。せきを切ったように言葉が、心が溢れてくる。「みんなね、あたしのことかわいいって褒めてくれるんだよ。おちんちんをなめたり、恥ずかしい格好をしたり、えっちな台詞を言ったりしてあげるととっても喜んでくれるんだ。それで、みんな楽しそうにあたしの中に入ってくる」

「……」御影は痛ましいものを見るような、哀れむような顔のまま黙している。

「御影はさ、女の子とシたことある?」返事を待たずに話しつづける。「女の子の中ってあったかくてキツくてすごく気持ちいいんだって。あたしがどんなにお願いしてもやめてくれないんだよ。気持ちよすぎて止まらないんだって。こっちは痛くて苦しいだけなのにずるいよね」快楽に歪む沼尻たちの顔が思い出された。嫌悪感が湧く。「男の子は射精すると気持ちいいんでしょ? みんな、あたしの中に好き勝手に吐き出すんだよ。すごく気持ちよさそうな顔で、『イクっ、イクっ』って言うの。かわいいよね。いつもは偉そうにしてるのにその時だけは何だか小さな子供みたいなんだよ。おかしいよね」ふふ、と口元だけで笑う。

「……ごめん」御影はうつむいていた。

「何で謝るの? 御影は何も悪いことしてないでしょ?」

「……ごめん」

 それきり御影は口をつぐんでしまった。

 カチ、カチ、カチ……、という秒針の音。外から聞こえる誰かの笑い声。世界は海里とは無関係に回っている。きっとあたしがいなくなっても何も変わらないのだろう、と、そう思う。

「……ねぇ、御影」穏やかな声音だった。

「……」御影は顔を上げた。

「あたし、汚いかな」

「……くない」御影はささやくように言い、そして今度ははっきりと、「汚くない」

「好きでもない人とキスして、えっちして、身体中精液まみれにされて、自分の身かわいさに、『愛してる』『気持ちいいよ』って嘘ついて、甘い声を出して媚を売って──大嫌いな男の赤ちゃんを身籠って」言っていて息苦しさを覚える。「汚いよ。もうどれだけ洗っても何をしてもきれいにはなれないんだよ」

 こんなことを言うつもりではなかった。言っても不快な思いをさせるだけだ。けれど、

「ねぇ、気を遣わなくてもいいよ」海里はほほえんだ。「汚くないって嘘なんでしょ? 心の中では汚いって、気持ち悪いって思ってるんでしょ?」

 御影はこれ以上ないくらい眉をひそめて、「嘘じゃない。古川さんは汚くない。全然汚くないよ」

「ホント? ホントにそう思う?」

 御影はうなずき、「汚くない。古川さんは優しくてきれいな女の子だよ」

「……」

 口では、自分は汚い、もうどうしようもないと言っているが、本心では否定してほしかった。汚くないよ、大丈夫だよ、と言ってほしかった。

 だから、御影の言葉にすがってしまう。甘えてしまう。

 海里は立ち上がった。

 御影は不思議そうな表情を浮かべた。「どうしたの?」と目が問うていた。

 海里はセーラー服のリボンをほどいた。

「えっ」困惑顔の御影。

 上着のファスナーを下ろすとインナーの白いTシャツが露になった。

「ちょっ、ちょっと待って」

 焦ったように制止してくる御影のことは無視して上着を、次いでTシャツを脱ぐ。靴下を取り払い、スカートを下ろし、ブラジャーを外し、ショーツさえ脱ぎ捨て、海里は全裸になった。肌には汗が浮かんでいる。

 茫然とこちらを見上げている御影に向かって言う。「どう? ホントに汚くない?」

 一拍後、御影は、こくこくと首を縦に動かした。「き、きれいだよ」

「そっか」海里は小声で言ってから、「じゃあさ──」一瞬口にするのをためらうも、不安には抗えない。安心させてほしくて、「えっちしようよ。汚くないならできるよね? あたしの中に挿れれるよね?」

「……」御影から返事はない。困ったように視線を揺らしているだけだ。

 カッと頭が沸騰した。怒りだろうか、悲しみだろうか、自己嫌悪だろうか、あるいはそれらすべてだろうか、元々不安定だった心が更に掻き乱される。

「どうして答えてくれないの?」御影に迫り、「ねぇ、えっちしようよ」膝を突き、すがりつく。御影の体温を感じる。「大丈夫だよ、男の子は気持ちいいだけだから」

「お、落ち着いてっ、そんなことしても──」

「そんなことって何よ!! あたしみたいな汚物とのえっちになんて価値がないって言いたいの?!」

「ち、ちが──」

「だったらえっちしてよ! あたしの全部に触ってよ!!」そう言って御影の手を自身の胸に押し当てた。「男の子はこれが好きなんでしょ? 好きにしていいから、ね、お願い、どんなことでもするからっ、御影が気持ちよくなれるようにがんばるからっ」

 御影の目に涙がにじんだ。「もうやめて。そんな悲しいこと言わないで」

 ずきりと心が痛んだ。けれどダメだ。不安で不安で仕方がなくて、自分は汚くないんだって、きれいなんだって信じさせてほしくて止まれない。

 唇を押しつけ、御影の口を塞ぐ。強引に、まるで沼尻たちのように自分勝手に舌を侵入させる。彼の口内に自身の唾液を注ぎ込むように深く深く口づけを交わす。

「──っ」海里が唇を離すと、御影は大きく空気を吸い込んだ。

 至近距離で見つめ合う。れた唇と汗のにおい。乱れた呼吸。

 海里は御影の性器へと手を伸ばし、それに触れた。そして、

「──っ」胸が張り裂けるような苦しみを覚えた。ああ、やっぱりあたしじゃダメなんだ、と理解してしまった。

 御影の性器はいまだ硬さを持っていなかったのだ。裸を見せても胸を触らせてもキスをしても意味なんてなかった。

 やっぱりあたしは汚いんだ。だからえっちしたくならないんだ──思考が暗いほうへ沈んでいく。心が冷えていく。

 御影はつらそうに言う。「ごめん、僕にはできないよ。ごめん」

 そっかぁ、とどこかひと事のように感じた。激情は霧散していた。替わりに諦念が心を占有していた。あるいは、心が壊れてしまったのかもしれない。

「わかった」海里は御影から離れた。「ごめんね、嫌だったよね」

「嫌とかじゃなくて──」御影の言葉はもういらない。遮るように、

「大丈夫、気にしないで。あたしは大丈夫だから」

「古川さん……」弱々しい声だった。御影は眉尻を下げて吐息を震わせていた。

 変なの。どうして御影がそんな顔をするの? 気持ち悪い女とえっちしなくてもよくなったんだからもっとうれしそうな顔をすればいいのに。

 不思議に思ったけれど、どうでもいいか、と流した。御影が泣こうが悲しもうが自分には関係ない。そう思う。

 それから、海里は服を着て、御影の家を出た。


 

 自宅に帰ると、晩ごはんを胃に入れたりお風呂に入ったりといつものルーティンをこなした。

 深夜の一時過ぎ、両親が寝静まったころ、海里はこっそりと家を出た。手には、流行りのゆるキャラがプリントされた紙袋を提げている。

 月が出ていた。夏の湿った空気が肌に絡みつく。べたべたとしているが、それほど気にならない。

「……」

 無言で歩を進め、そして海里が訪れたのは御影と初めて言葉を交わしたあの廃病院だ。夜にたたずむ巨大なコンクリートの塊は、いかにも心霊スポットじみている──幽霊など信じていない海里にとっては、ただただボロくて危ない建物でしかないが。

 廃病院に足を踏み入れると埃っぽいにおいが嗅覚を刺激した。暗くて足元がおぼつかない。時折、何かにつまずいて転びそうになるが、歩を緩めはしない。

 あの日の部屋に到着した。改めてこの部屋を見ると独居房のようだと感じた。六じょうくらいの狭い室内にあるのは和式便器だけで、ほかの物は本当に何もない。よく見ると水洗レバーすらない。

 これでどうやって流すのだろうか、かなり古い建物なのに自動式なのだろうか、と腑に落ちない。

 しかし、それよりもインパクトがあるのは、入り口の向かい側の壁の大半が鉄格子になっていることだ。鉄格子の向こう側は細い通路になっている。昔は精神病院だったらしいけれど、この部屋に限って言えば、やはり牢獄ろうごくと言われたほうがしっくり来る。

 海里は鉄格子──縦におよそ四十センチ間隔、横におよそ七、八センチ間隔で鉄の棒が並んでいる──に近づいた。そして、紙袋から延長コードを取り出した。それを上のほうにある横棒に結びつけ、あの日に御影がそうしていたように輪を作る。ぐいぐいと引っぱり強度を確かめる。しっかりと固定されている。平均的な身長でやや痩せぎみの海里の体重ぐらいなら問題なく持ち上げられるだろう。

 海里は死のうとしていた。

 もう耐えられなかった。沼尻たちも彼らに媚びへつらう自分もお腹の子も何もかもが嫌だった。何もかもが不気味で気持ち悪くて汚らしい。もう疲れた。少し休みたい。すべてをなかったことにしたい──彼らから、自分から、世界から逃げ出したかった。

 あれ?──知らず知らず涙が流れていた。心はいでいるのに、それなのになぜか泣いている。止まらない。

 どうして、と考え、それらしい答えに思い至り、

「……はは」

 乾いた自嘲を洩らした──自分の弱さが滑稽だった。

 泣きながら笑っている。声を、心を殺して泣いている。殺しきれずに泣いている。

 しばらくそうしていた。

 最期に携帯電話を確認した。メールが来ていた。

 そういえば、と思い出した。午後十一時前ぐらいに通知音を聞いたような気がする。めんどうだから放置していて、そのまま忘れていた。 

 差出人は御影だった。

『大丈夫?』

 メールにはそう記されていた。

「……」息が苦しい。

 それでも、『大丈夫だよ』『心配してくれてありがと』と打った。文末にはそれぞれピースサインの絵文字とハートマークを付けた。震える指を動かし、送信する。

「……バイバイ」

 海里は輪に頭を通した。腰さえ浮けば首吊り自殺は成立する。延長コードに体重を掛けるようにして脱力すると、程なくして意識が朦朧もうろうとしてきて──やがて海里の世界は終わりを迎えた。

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