和泉と雄太

イツミキトテカ

第1話

和泉いずみ、好きだ。結婚してくれ」


 幼馴染からの突然のプロポーズに、私は激しくむせこんだ。


「け、結婚って。付き合ってすらないのに」

「だって何度言っても付き合ってくれないじゃん。押してだめならもっと押せだ」


 顔を真っ赤にしながら強気な発言をする雄太ゆうたに、私はぷいっと顔を背けた。


「何度も言ってるけど雄太とは付き合わない。もちろん結婚もしない」

「なんでだよ」

「だって好きじゃないから」

「なんでだよ」


 なんでだよ、なんでだよ、ってしつこいな。おまえはなんでだよ星人か。大海のように広い心の持ち主と巷で名高い私も、これにはさすがにイラッとして、思わず雄太の方へ振り向いた。雄太はきわめて真面目な面持ちで私を見つめている。これには私も予想外。しまった、しまった、しまったぞ。


「と、とにかく! 何度言われてもだめなものはだめだから」


 そう言い捨てて、雄太の力強い視線から逃げるように、顔を背けた。そっぽを向いた私の目の前には大きなクスノキがそびえ立っている。いつ見ても青々とした常緑の葉を、その大きな樹体にめいっぱい繁らせる巨樹クスノキは、いつだって私の心を穏やかにする。


 雄太のことなど無視するかのように、立派なクスノキに首ったけの私に、とうとう雄太はしびれを切らしたのか、不貞腐れたように鼻を鳴らすと、ゆっくりと立ち上がった。


「もう帰るわ。じゃあな」

「うん」


 さよならを言うのはいつだって雄太からだ。そして、私はいつだって、雄太の後ろ姿を見送っている。もう見えなくなってしまうその寸前まで、制服のシワの形も覚えてしまいそうなほどに、目を凝らし、瞬きするのも惜しんで、私は彼を見つめ続けている。


 ◇◇◇


「和泉、ゲームをしよう」


 別のある晴れた日、雄太は突然そんなことを言い出した。その時、私はまたしてもなぜだか大好きなクスノキを見上げていた。


「ゲーム?」


 振り返り、首を傾げる私に、雄太がニヤリと笑った。これは、何か企んでいる顔だ。


「そう。負けたほうが勝った方の言うことをなんでも聞く。どうだ。いいだろう?」

「私、雄太とは付き合わないからね」

「ま、まだ何も言ってないだろ」


 口を尖らせ抗議する雄太に、私はニコリと笑い返す。何年幼馴染やってると思ってるんだ。君の考えそうなことくらいなんだって分かるのだよ。


 でもまぁ、のってやらないこともない。時間はたくさんあるのだから。


「で、何するの?」

「お、おう! クイズだ。俺の出すクイズに和泉が答えられたら和泉の勝ち。間違えたら俺の勝ち。オーケー?」

「オッケ」

「じゃあ。ピザって10回言ってくれ」

「ピザピザピザピザピザピザピザピザピザピザ」

「じゃあ、ここは?」

「ひじ」

「なぁんで引っかからないんだよぉ」


 雄太は自分のひじを指差したまま不服そうに天を仰いだ。むしろ、なんでそれでいけると思ったのか、我が幼馴染ながら理解に苦しむ。


 雄太のお世辞にも賢いとは言えない脳細胞を、密かに笑い飛ばしていたのがバレたのか、雄太はギロリとこちらを睨んで、恨めしそうにため息をついた。


「何をすれば…?」


 そうだった。負けた方が何でも言うことを聞くというルールだった。


 それにしても、どうして圧倒的に有利な状態で雄太は負けてしまうのか。本当に、なんていうか、アレだ。残念だ。


 そんなことを思いながら、私は同時並行で雄太へのお願いを考えていた。


「んー…別にいいや」

「そんなの勝負した意味ないだろ。何でもいいからさ」


 そんなことを言われても、特に何もないから困ってしまう。神様にならお願いしたいことは山ほどあるのだけれど。


「んー、じゃあ、今度ジュースおごって。紙パックの紅茶のやつ」

「そんなんでいいのかよ。夢のないやつめ」


 雄太は呆れたように言って、そしてすぐに、しまったという顔をしたのを私は見逃さなかった。私は全然気にしていなかったけれど、一瞬気まずい空気が二人の間に流れた。それが嫌で、冗談の一つでも言って場を和ませようと、口を開きかけたその瞬間、雄太のスマホがピカっと光って着信をお知らせしてきた。なかなかに空気を読むスマホちゃんである。


 雄太は声を潜め、ぶっきらぼうに返事をしていた。声のトーンで相手は容易に想像がつく。雄太は手短かに通話を済ませると、申し訳なさそうに私を振り返った。


「母さんから。大貴が鍵を忘れて家に入れないらしい。ごめん、帰るわ」


 大貴は6つ離れた雄太の弟だ。私は片手を上げ、しっしっと追い払うように雄太を急かした。雄太はむっとしたようだった。


「俺は野良犬か何かかよ」

「早く行きたまえ。大ちゃんが可愛そうでしょ」


 納得いかないように首をひねる雄太に、追い打ちをかけるようにひらひら手を振る。


 ―本当はもう少しそばにいてほしかったよ―


 言えない言葉を、雄太の背中に念じて、この気持ちが伝わらないことを祈りながら、いつものように、去りゆく幼馴染の後ろ姿を見送った。


 ◇◇◇


 この日の天気予報は晴れだった。

 だから、夕方、突然のにわか雨に襲われた道行く人々は「どうして自分がこんな目に…」と、まるで理不尽にひどい仕打ちを受けたかのように、驚きの目で天を見上げたあと悲しそうにうつむいて、足早にその場を去っていった。

 そんな大雨でもクスノキの下は不思議とそれほど濡れていない。きっと、生い茂った常緑の葉が、にわか雨を全身に受け、この世にもたらされた理不尽を慈悲の心で緩和しているのだろう。私は、今頃クスノキの根本で小さなアリンコが雨宿りをしているかもしれないと勝手に想像し、思わず微笑んだ。


「動いて大丈夫なのか?」


 突然雄太の声が聞こえて、私は窓辺で飛び上がった。こんな雨だから、今日は来ないだろうと思っていたし、何よりいつもより時間が早い。雄太は、私の疑問を見透かしたようにニヤリと笑った。


「雨だから今日の部活、体育館で筋トレなんだ。だからサボってきた」

「それ以上筋トレすると、脳みそまで筋肉になるもんね」

「なるわけないだろっ!」

「なんなら、もうなりつつあるよ」

「いやいやいや…。え…もしかして本当になるの? ちょっと怖くなってきたんだけど」


 少しでも筋肉をほぐそうと自分の頭をもみもみし始めた雄太の姿が面白すぎて、私はお腹を抱えて大笑いした。あまりにも笑いすぎてむせ込み、ベッドに突っ伏す。笑いすぎて少し疲れた。


 心配そうに私の顔を覗き込む雄太に、大丈夫と微笑むと、ベッド横の白い棚を指差した。


「そこにタオルあるから使って」


 雄太もにわか雨に降られたらしい。このままでは風邪をひいてしまう。びしょ濡れの雄太と少しも雨に濡れていない私。一体何が、人の運命をこうも左右するのだろう。


「今日は来てくれないと思ったよ」

「来て?」


 タオル越しの雄太の顔が一瞬輝くのが見えた。しまったと思ったが、もう遅い。


「なんだかんだ言って、やっぱり和泉も俺に会いたいんじゃん」

「言葉のチョイスを間違えただけ。今日はさすがに来ないでしょって期待してたの!」

「はいはい。そんなこと言っちゃってー」


 これはだめだ。どうしたって言い逃れ出来ない。どうにかして話題を変えようと、あたりをきょろきょろ見回してみる。雄太の学生カバンに葉っぱが一枚貼り付いていた。


「あっ、クスノキだ」


 卵型で先細りしたその葉っぱを私はひょいとつまみ上げる。考えてみれば窓越しにしか見たことのなかったその葉を、しげしげと眺めていると、三本に分かれた特徴的な葉脈に気がついた。クスの葉の葉脈は本当にきれいにくっきり三本に分かれていて、私はなんだか暗い気持ちになった。


 ―なんだか人生みたいだ―


 一番左はこれまでの私が歩んできた人生、真ん中は私が元気だったら歩んだはずの人生、一番右はどんな人生がいいだろう。考えたってしょうがない。私の人生は一番左でもう決まっているのだから。


「なんだか人生みたいだな!」


 雄太のあっけらかんとした声が私を現実に引き戻した。雄太と私は幼馴染み。考えることは一緒なのだ。雄太は私が持つクスの葉に、そっと手を添えると三つの葉脈を指でなぞった。


「この三つに分かれた脈の大元が、今の俺。これから俺はどんな道にも進むことができる。全部俺次第だ」

「えっ」


 雄太の答えは予想外だった。その瞬間、心の中にあった濃い霧が一瞬にして吹き飛んだように、私の胸は晴れやかになった。思いがけない心の変化に自分でもびっくりだ。驚いた拍子にはっと顔を上げると、すぐ目の前に雄太の顔があった。雄太の顔がみるみるうちに真っ赤に染まった。そしてきっと私の顔も負けないくらい真っ赤に違いない。雄太は瞳を泳がせた。


「い、和泉」

「付き合わない!」

「だから、まだ何も―へっくしょいっ!」


 雄太の唾が思いっきり私の顔へ掛かった。謝る雄太を制し、入院着で顔を拭いながら、私は半笑いでまっすぐ出口を指差した。


「さっさと帰れ」

「悪かったって。わざとじゃないんだから許せよ」

「別に怒ってない。早く帰って温かいお風呂につかりな。お大事に」


 そう言うと、雄太はなんともいえない顔をした。まさか、長いこと病院暮らしの病弱な私に、そんなことを言われるとは思いもしなかったのだろう。


 雄太はカバンを手に取り、しょぼくれたようにうつむいて、今来たばかりなのに、私に言われたたとおり帰り支度を始めた。帰り際、雄太は私をまっすぐ見つめて言った。


「俺は絶対和泉を諦めないからな」

「私だって諦めないから」

「それって…どういう意味?」

「なんだって良いでしょ。じゃあ、また、明日」

「お、おう! また明日! 明日も必ず来るからな!」


 なんでだろう。雄太の後ろ姿がいつもと違って見える。


 私だって雄太が好きだ。大好きだ。誰にも言えない恋心。雄太は優しい。とびきり優しい。だから、私のこの気持ちが知られたら、そしてもし私がこのまま死んでしまったら、きっと雄太は私のことを永遠に引きずり続ける。


 永遠には、さすがに私の思い上がりすぎだろうか。


 だけど、私が逆の立場なら、絶対に、永遠に、雄太のことを引きずって生きていく。


 そう思っていたから、雄太の告白をずっと断ってきた。そして、これからもきっと断り続ける。


 だけど今日、少しだけ、考えが変わった。


 ―これから俺はどんな道にも進むことができる。全部俺次第だ―


 もちろんどうしようもないことだってある。病気になったのは、私が選んだことじゃない。


 だけど、雄太の言うとおりなのだ。私の人生はまだ決まってない。いつだって私は人生の分岐路に立っていて、どこに進むかはいつだって私自身が決めるのだ。


 誰にも言えずに厳重に箱詰めされたこの恋心が、日の目を浴びる、そんな日もいつか来るかもしれない。

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和泉と雄太 イツミキトテカ @itsumiki

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