コイノボリウム

超無脊椎動物

第1話

 運命など本当に存在するのだろうか。

夏休みも明けた九月某日、男子高校生らしい慎ましやかな論題に、私の頭は二転三転と転がり続け今に十転を記録しようとしていた。


 夏休みに入れば自動的に遊びに行こうと誘いが掛かり、一夏の美しくも儚い恋愛に身を投じることになるだろう。私は夏の予定を一掃し、水着を新調した。

八月が一週、二週と過ぎていく日々に私はこの上なく失望し、神すらも怨んだものである。

 八月も終わりに差し掛かる頃、早々に片付いてしまった宿題を眺め、輝かしい夏休みを過ごした連中は今頃宿題に追われているのだろうな、と小さな汚らしい自尊心を慰めていた。

 明日は花火大会があるらしい。雨でも降っちまえ。

私の祈りが漸く神にでも届いたのか、この夏一番の大雨が降り花火大会は無事中止と相成った。この夏唯一の思い出が出来たと満面の笑みを浮かべ心豊かに風呂へと向かった。この日の風呂は確かに私の心を解し穏やかなものへ戻してくれたように感じる。

 風呂から上がり部屋に戻る丁度その時、携帯電話が消魂しく声を上げた。画面に目を落とすとそこには『黒川』の字がギラギラと小気味悪く輝いていた。この男に絡むと碌な結果に落ち着かないと本能と経験が私に警告する。そんなこと百も承知だ。しかし黒川が持ち込む話題はどれも私好みの美しく小気味の良いもので、要はコストパフォーマンスが恐ろしく悪いのだ。

 私は悩んだ。二回程呼出音がなる間悩み抜いた末、私は電話を取ることに決めた。私もまた、ロクデナシである。

「黒川か、どうしたこんな時間に。また碌でもない話じゃないだろうな」

「開口一番それですか。僕がそんなロクデナシに見えますか?見えるわけないでしょう。愛くるしい端正な顔つき、聴く者全てを魅了する美声、美しき人生観、どこを見たらそんな台詞が出るってもんですか」

「本題を話せ」

「随分な対応ですね。僕でなければ貴方とっくに嫌われてますよ。おっと、話が逸れました。本題と言うのはですね明日の九月一日、八月の忘れ物を取りに行こうと思うのです。そこで貴方も一緒に如何かと。どうです?」

「忘れ物?お前は何を言い出すんだ。私に夏への未練など一つも無い」

「いやね、八月のうちに開催する予定だった花火大会、あれ全部中止になっちゃったでしょ?雨やら強風やらで全部やられちゃって。八月の呪いってもんですわ。でもね、そんなの関係ありません。だってあと何時間かで九月だもの。僕らがやらずに誰がやるんです。僕と貴方で美しい花火大会にしましょう!」

「まて、まてまてまて。花火大会?明日決行?それにお前と二人でか?時間もなければ花火玉すら無いぞ。そんな夢を見たって話ならラジオにでも投書しろ。今日のテーマは最近見た夢らしい。ぴったりじゃないか」

「まあ、そう結論を焦らないでください」

 電話越しに「チッチッチッ」と舌を鳴らす音が響く。

「花火玉はこちらで準備します。時間に関しては午後の授業、サボっちゃってください」

「お前、正気か?授業なんてサボれるわけ無いだろ」

 授業の進度だとか、精神的な枷だとか、そんな理由でサボれないと言っている訳では断じて無い。

この学校には校内治安維持局(通称:校安)と呼ばれる組織が設置されており、校内中の監視カメラは勿論、秘密裏に設置された隠しカメラなどを使い常時生徒を監視している、と実しやかに囁かれるのである。

校内に支部は存在しているにも関わらず本部の場所を誰も知らない、校安の執行部隊に誰一人としてこの学校の生徒が居ない等、噂が立つには十分すぎる組織だ。火のないところに煙は立たぬとは言うがあまりに焦臭い。

その様な組織と関わりを持つべきでないし、目を付けられるのも御免だ。拠って、私は授業をサボタージュする事も無いし、不純異性交友に手を染める事もないのだ。完璧である。

 黒川はこうも言った。

「貴方が断る理由もやんわりと理解出来ますよ。校安が気掛かりなんでしょ。学校にあんな猥褻物持ち込んじゃって、その上奇跡的にバレてないからって、いつバレるのか心臓バクバク言わせてるんでしょ。なっさけないですねぇ。どうせカメラに全部映ってますよ」

「黙れ、お前に何が分かる。それにあの雑誌は猥褻な目的で購入したものでは無い。コラムが好きで買っているのだ」

「コラム、ねぇ……ま、なんでも良いですわ。決行は明日、校安に関しては特に心配しないでください。こちらで手を打ちますので。それと人手が二人ではさすがに足りないのであと一人くらい誘っておいてください。それでは」

 そう言ってヤツは私を強引に共犯者へと仕立てあげた挙句、こちらの話も聞かぬまま通話を終えた。

 私は確実に黒川を嫌っている。それどころか恨んでさえいるだろう。それでも、だからこそと言うべきか、私はヤツから離れることが出来ないでいた。

それに、私はヤツの考えた悪巧みに対し、結果論でしか批判が出来ない。結局バレて痛い目を見ただとか、文化祭を出禁にされただとか。今度こそヤツの悪巧みを、悪巧み自体を批判し、否定し、離脱しよう。私は自らに固く誓い、ゆっくりと目を閉じた。


 今日と明日が行き交う午前零時。私は奇妙な空の下、ゆっくりと目を覚ました。

 豪華なシャンデリアが太陽の代替品であるかの様に煌々と輝いており、その周りを巨大な鯉が二匹ゆらゆら漂っていた。紅白色の大変美しい鯉であった。二匹の優雅な佇まいは見る者を圧倒し、畏怖すら抱かせた。

「美しい」とはこの様な光景を指すのだと、私は初めて理解した。

 あまりの光景に思考を停止させ、見惚れていた私ではあったが、暫くして正気に戻ると、この空間に疑問を持つ様になった。普通に考えたら分かることではあるが、空を飛ぶ鯉など存在しない。それに、シャンデリアを吊るしている天井も確認できなかった。宙に浮かんでいるのだ。

 これは夢であろうか。こんな光景が許される場合など、夢かあの世か剣と魔法の異世界くらいな物である。私は死ぬ気などさらさら無いし、剣も魔法も関わらないに越した事はない。夢でなくては困るのだ。

 不安に苛まれ、どうにか楽観視しようと四苦八苦する私に声をかける者があった。

「おや、お目覚めでしたか。」

「貴方は誰だ。何者だ。頼むから夢の住人と名乗ってはくれないか。」

「申し遅れました。ワタクシ夢の住人でもなければ、あの世の住人でも、剣と魔法の異世界で主人に使える執事でもございません。この空間で『観測者』を務める、名を持ち合わせぬ只の老人にございます。気軽にじいやとお呼びください。」

 燕尾服に身を包み、白髪すらも優雅に魅せる老人は意気揚々と、自信満々に自己紹介を終え、にぃっと笑って見せた。私はこの老人の笑みに底知れぬ恐怖を抱いた。

「えっと……じいや、さん?ここは一体……」

「じいやと呼び捨てで構いません。では」

 老人は こほん と一つ咳払いをした後、こう続けた。

「ようこそ。『コイノボリウム』へ」

 私は再び、この笑顔に恐怖した。

「……コイノボリウム?」

「ええ、ここはコイノボリウム。人々の苦悩を見つめ、観測し、傍観する空間でございます。人は皆その生涯に滝を持ち、それに抗い遡ることで事を成します。ワタクシの役目はこの空間で、人が事を成すその瞬間を観測し結果として確定させることなのです」

 老人は顔を近づけ続けてこう言った。

「恐らく貴方は何故ここに呼ばれ、何故この場に居るのか、疑問に思っていることと存じます。分かりますとも。寝て起きたら見知らぬ場所で目覚め良く解らない説明をされ珍紛漢紛でしょう。分かりますとも。それではお答え致しましょう。何故貴方がここに呼ばれ、可笑しな説明を受けているのか。……そんなもん決まってます。ワタクシの暇つぶしの相手に選ばれちゃったんですよ、貴方」

「……それがお前の本性か」

「素晴らしい本性でしょ。よくいい性格をしてるとお褒めいただける自慢の本性です。おっと、話が逸れました。本題に戻りますがね、貴方一生望んだ幸せの手に入らない運命に縛られているんですよ。産まれた時から。実感とかあります?」

「一生幸せになれないと言ったか。」

「少し語弊がありますね。正しくは望んだ幸せが手に入らない、です。特に望んでもいないようなどうでもいい幸せなら人生長いですし幾らでも手に入りますよ」

「ではこの夏誰からも誘われず、漸く声が掛かったと思えば酷く性根の曲がった男からの頓珍漢な誘いであったのも運命と言うのか」

「勿論ですとも。それどころか幼稚園の頃淡く散った初恋も、小学校の頃好きだったあの子が急に転校してしまったのも、中学生三年間で女友達の一人出来なかったことだって、全て貴方の運命に因って定められていたのです。そしてそれは高校でも続きます。貴方はそういう星の下に生まれたのです。どうぞ潔く諦めてください」

 つまり、私の恋は高校でも成就することなく散り去るとこの老人は言いたいらしい。しかしながら私はこの後の人生において色恋に現を抜かすつもりは無く実らぬ事が運命付けられているのであれば、それは万々歳というものである。

「ですがね、ワタクシだって鬼ではありません。近しくはありますが。ここに貴方を呼んだ以上、ワタクシは労力と努力の限りを尽くし貴方に幸せを掴ませると約束しましょう」

「誰がお前のような胡散臭い男の話を信じるというのだ」

「でも貴方はワタクシの話を断れない、そうでしょう?貴方という人間はそうできているのです。堪忍してワタクシに幸せを掴まされてくださいな」

 正直、老人の誘いになんとも言えぬ魅力と筆舌に尽くし難い謎の心地良さを感じた。しかしこの誘いに乗れば最後、私の人生観は生涯二百年に渡り酷く屈曲し、偏屈なジジイとして近所では有名になることであろう。一生後ろ指を指されながら陰鬱な余生を送る羽目になるだろう。

私にその様な老後は耐え難い。

「おや、結論は出ましたか?」

「私は……」

 もしも、仮に、万が一ではあるが、この老人の言った私の運命が本物であるとしたら、私の老後は先の妄想と何一つ変わらない結末を描くのではないだろうか。

 この老人の手を取れば破滅、取らなくとも破滅。私が悩むまでも無くまともな選択肢など最初から存在しなかったのである。

「─────くそったれが。お前の誘いに乗ってやる。私の人生を賭けるんだ。私に幸せな未来を約束しろ」

「ええ、それは勿論。ワタクシの目的は貴方に誰よりも日常的で非日常、馬鹿々々しくもあり感動的でもある、喜劇に彩られた人生を送らせることにあります。貴方の期待は決して裏切らないと誓いましょう」

 老人はこの世のモノとは到底思えぬ不気味な口角で声高らかに宣言した。


──────りりり、りりりり

 夜の終わりを告げる鐘の音が私の鼓膜を小刻みに震わせた。

 九月一日の出来事である。

 私の安眠を妨げた目覚まし機能付きアナログ時計を凝視した。

………針は”八”の字を指し示していた。

 私の人生における初めて且つ最後の寝坊である。夏休み明け初日から授業に遅刻とは洒落にもならない失態だ。今直ぐにでも家を飛び出せばギリギリ間に合うくらいだろうか。

私は大急ぎで着替えを済ませ、寝癖もそのままに家を飛び出した。

 家を飛び出してから約十五分、私は交差点で信号を待ちながら大きく欠伸をかいていた。

 聞くところによれば九月一日は一年で最も学生の寝坊が増える一日だと言う。あれやこれやと考えてやればむしろ寝坊しないやつが異常なのである。

生活習慣を正し時刻通りに丁度目を覚ます人間は果たして真に健康と言えるのだろうか。否、断じて否である。自らの欲望を押し殺し得た早起きに如何な得があるというのだ、不健康そのものではないか。体の調子ばかり気にして心の健康を損なっては本末転倒というもの。断固として叫び続けようではないか。世界よ、寝坊に寛容であれ。

 阿呆の一人程度なら案外騙せてしまいそうな屁理屈を並べ信号を待つ。誰に話すでもない、誰に聞かれるでもない屁理屈を頭の中で延々と捏ねくり回し悦に浸る、男子高校生の生態とは実に複雑怪奇なものである。

「おや、先輩。珍しいですねこんな時間に」

 信号を待つ私の横に音も無く並び立つ美少女が一人。黒く透き通る短髪が否応なしに気品を感じさせ、凛とした瞳は視るモノ全てに僅かな緊張を与えた。

「ああ、綴さん。君こそ珍しいではないか、寝坊でも?」

「……寝癖でも付いていましたか?」

「いや全く」

 いくら眉が動かずとも、いくら瞳が凛としていようとも耳まで赤らめ頭を手で抑える彼女を見たのなら、恥ずかしがっている様子くらい誰にだって汲み取れよう。

 綴さんとは私の後輩である。四月に運命的な出会いを果たして以来、特別これといった接点も無く、しかし何かと顔を合わせては無駄話に花を咲かせる奇妙な縦の繋がりを構築していた。

 私が並べ立てる屁理屈に対し、言葉という手段をもって反応してくれる人間は彼女と黒川だけになってしまった。黒川を除けば唯の一人である。そんな彼女に私は一つ尋ねた。

「花火大会に興味はあるかい」

 なんと罪深く最低な男なんだ、恥じるべき行いだ、と心の奥底で私が私を糾弾した。しかしその声が私に届くことは無かった。あまりに深すぎたのだ。

何故もっと浅瀬で叫ばないのか、本気で私を止める気はあるのか。私よ、どうか私を止めてはくれまいか。

「花火大会……ふむ、なるほど。私、興味津々です」

 私は不本意ながら悪巧みの概要を彼女に伝える事にした。話した上で彼女が不関与で居たいと望むのであれば私はその判断を尊重したいと思う。被害者の多少は気にしようとも思わないが質が低すぎて困ることはないだろう。被害者全員が最低品質の連中であることをこの上なく願っている。

「─────決行は今日の正午。午後の授業はサボれ、とヤツは言っている。ここまで聞いて……どうだね?」

「実に莫迦々々しい作戦だと思います」

 私だってそう思う。我ながら何故このような無益で無駄な悪巧みに手を染めてしまうのか、三日三晩考えたところで答えは出ないだろう。

『三日も脳を占領されてたまるか』

天秤にかけるまでもなく、私は考えないことを選んだ。

「それで参加の方はどうかな。私としては是非とも不参加をお勧めしたい所なのだが……」

「無論参加します。こんな面白そうな事、蚊帳の外になんて居られません」

 そう言う彼女の瞳は凛としていて、けれどその奥では確かにめらめらと光り輝いていた。

その輝きに呑まれ、灼かれ、包まれていた。 

 私が気付いたのは校門が百歩程先に見えた頃である。何やら懐かしい輝きであった。

「先輩、寝不足ですか?」

「八時間寝た上で寝不足と言えるのであればそうだろうな」

「私は普段から九時間睡眠です」

「羨ましい限りだ」

 無駄話に花を咲かせていると校門の些細で巨大な異変に気がついた。

「おはようございます」

「おはよう」

 私より一回りも二回りも大きいその男は『反省中』と書かれた襷を肩に掛け、道行く人々と挨拶を交わしていた。

「おはようございます。どうしたんですか、その襷は」

「ああ、君か。ん、おはよう。夏休み中色々あってだね、今はこうして大人しく罰を受けているのだよ」

 男は肩を窄めてみせた。『仕方が無いので反省を装っている』と誰もが汲み取れる美しいジェスチャーであった。

 男は名を鳴子と言う。嫌われているのか同学年でさえ誰一人として下の名前で呼ばないし、下級生は名前を知らない。しかし校内誰もが知る有名人である。

「おや、綴くんも一緒だね。おはよう」

「鳴子先輩、おはようございます。相変わらず反省の字が似合いませんね」

「今生のテーマは前進と決めているからね。後ろを振り返っている暇など無いのだよ」

 暫く三人で談笑していると不意に身震いの伴う寒気を感じた。ひとさじの狂気にボウル一杯の童心、浴槽が埋まる程の悪意を混ぜたような居心地の悪い悪寒を私は既に知っていた。

「皆さんお集まりのようで。おはようございます」

 ヤツは人間業とは思えない口角でニヤリと私達に微笑んだ。

「おい黒川、昨日の電話はなんだ。アレの所為で悪夢を見たし、今日はこうして遅刻寸前ではないか」

「ああ、アレですか。昨夜はお休み前に失礼しました。それで、貴方は一体いつまでそうやって寝坊助気分でいるのです?」

「どういう意味だ」

「そのままの意味ですよ。時計をご覧なさい。全て書いてありますから」

 黒川はニヤニヤと笑みを浮かべている。私は促されるがまま時計に目を向けた。

 私は言葉を失った。文字盤には『お前は阿呆だ』と刻まれていて、私を酷く嘲笑っていた。

午前七時三十分の出来事である。

 黒川はこの上無く爆笑し、綴さんは堪えた笑いが少しづつ漏れ始めていた。

「真っ青になったり真っ赤にしたり、蛸にでもなるおつもりですか」

「黙れ、私は生涯人間のつもりだ。……それで綴さん、君は一体いつから」

「強いて言うのであれば”最初から”です。出会い頭に先輩から寝坊を疑われたのでこれはもしやと思い黙っていました。寝癖だらけの頭で人に寝坊を問うなんて、寝坊した人しか出来ませんから」

 彼女の観察眼と推理力に私は脱帽した。そして静かに肩を落とした。

もし私が観客席に座っていたのなら万雷の拍手を贈り、「素晴らしい」と大声で伝えたことだろう。それ程までに彼女はタチが悪かった。黒川とも負けず劣らずと言えるほどに。

 しかし、私は彼女を特別嫌っている訳ではない。黒川とは違い彼女の放つ悪戯、悪巧みにはどこか可愛げが感じられたからである。彼女の悪戯は悪戯であり、それこそが大きな相違点だった。私は彼女を良き後輩として認識し彼女もまた私を良き先輩として認識してくれているようだった。それは真か。

 私の葛藤を擽るように一筋の風が吹いた。今日はこれまでに風も無く、突然に吹いた風はびゅうびゅうと少し鳴いた末直ぐに消えてしまった。代わりにある独特なサイレンが現れ私達の鼓膜を打ち付けた。

「鳴子逃亡!鳴子逃亡!」

「追え!追え!」

 力一杯に叫ぶ筋肉連中、彼らの名は校内治安維持局。通称校安である。

「げ、校安」

 私は校安が大嫌いである。所持品抜き打ち検査に始まり監視カメラ増設、執行部隊の配備など些か越権行為が過ぎるのでは、と常々憤る程だ。しかし最低限校内で口にすることは無いだろう。誰がどこで聞いているか分かったものでは無い。

「げ、とは何だ。何かやましい事でも?」

 心まで純白無垢な人間がいて堪るか。私は漏れ出しそうな言葉を必死になって飲み込んだ。吐き出すにしても、この男に面と向かって吐き出す訳には行かなかった。この男が校安の局長で無ければ、生徒会長で無ければ、私は思いの丈を余す所なく赤裸々に投げつけていたことであろう。生徒会長とはそういう人間である。

傲慢且つ高慢、野心に塗れ、闇討ち猫騙しは当たり前。きっと投票箱にも細工が施されていたに違いない。

 古くから生徒会長は自動的に校内治安維持局局長を兼任しており、絶大な権力と引き換えに全校生徒の不満を一身に背負う存在であった。

 しかし彼はどうも一味違った。先代の生徒会長を誰も知らぬままに引き摺り下ろし、第五十一回生徒会長選挙開始を宣言。その後第五十一代生徒会長に任命され、同時に校内治安維持局局長に就任した。そこからは前述の通り監視カメラの増設や執行部隊の配備などやりたい放題である。

「君の校則違反は現在八件程把握している」

 不意に放たれたその言葉が心の臓を的確に穿いた。どうしたものか、心当たりが多すぎる。

「つまり……呉々も妙な気など起こさないように。黒川にもそう伝えておきなさい」

 それだけ言うと男は逃亡犯を追うべく筋肉達磨共を指揮し、間も無く校門を抜けた。

 走り去る男の背中を呪ったことは言うまでもない。神よ、あの男に数多の試練を授け給え。

「会長サマ何か言ってました?」

「お前によろしくだと」

「出来ることならよろしくしたくないものですねぇ」

「同感だ」

 午前八時、部活動終了を報せるベルが鳴り響く。青春を有意義に過ごす連中がわらわらと昇降口に群がり始めていた。

「先輩、早く行きましょう。私アレに巻き込まれたくありません」

「ああ、私もだ」

 私は黒川の方にも目を向ける。しかしそこにヤツの姿は無く、ただの足跡が不気味な雰囲気で佇むばかりであった。去り際に私は、何となく足跡に砂をかけたり踏み躙ったりした。私が踏んで、壊してやりたかった。得も言われぬ不思議な心地だった。


 人波を越え、人並みを越え、人並みを越えた。往く先々で部活動を終えた生徒が犇めき合っている。昇降口、トイレの前、教室は勿論、教室前の廊下でさえも。青春謳歌人の大合唱である。我々のような青春非謳歌人には耳の毒でしかない。本来このような迷惑行為こそ校安が取り締まるべきなのだ。エロ本回収に現を抜かしている場合では無い。

 鈴が鳴く。授業開始の予鈴だ。廊下の合唱隊は一番の盛り上がりを見せる。騒いで、騒いで、騒ぎきった後、彼等は何食わぬ顔で授業に出席した。着席した彼等に先程の面影は無かった。

 彼等はページを捲り、ノートにシャープペンシルを走らせる。ただ、それだけ。教師は落ち着いた声で教科書を読み上げ、黒板に意味不明な文字列を刻み続ける。二年三組と名の付いた巨大な箱では、たった四つの音のみが存在し続けていて、私はこの喧騒を堪らなく愛しんだ。

 授業時間は残り二十分。この時間を目一杯に堪能し今日という一日をより素晴らしいものにするはずだった。はずだったのだ。

シャープペンシルが紙を滑り、チョークが黒板を駆け抜け、ページを捲る音に支配されるこの空間はひとつの音に依って破裂した。

空気が震える、揺れる。私の耳に届いた音は鈍く、重たい破裂音。全員が一斉に音の鳴る方へ目を向ける。窓の外では黒煙が細々と昇っていた。教室は忽ち騒々しさに満ち満ちた無秩序へと変貌した。

「なーに呆けてるんですか!今がチャンスですよ!」

 騒々しさの権化が私を呼ぶ。

「まさかお前、これ……」

「僕以外誰がいるってんです」

 ヤツは誇らしげに胸を叩いた。

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