第20話 油江の過去 (出会い)

 夜の大学の研究室。油江美子ゆごう みこは淡々と自分の研究を一人黙々と進めていた。

 別に研究に熱意があるわけでは無い。ただ院生としての自分の業務がそれだから進めるだけだった。院に進んだのも特にやりたい事が見つかったからだ。成績が良く、教授からも誘いがあり、親の許可ももらえたので進んだ。ただそれだけの事だった。


「はぁー」


 溜息をつく。現状に明確な不満は無い。教授は優しいし、研究室の設備も悪くない。研究も上手くいっているので近いうちに良い論文が提出できるだろ。

 だが、何か物足りない。熱が無い。自分は何がしたいのか解らない。周りとは違い白黒な日々を過ごしている様な気がして言いようのない苛立ちを感じていた。


 ガチャリ


 答えが出る事が無い自問自答をしていると研究室の扉が開き、一人の背の高い男子学生が入ってきた。



「あれ、油江先輩。お疲れ様です。こんな遅くまで研究しているんですか。院生って大変なんですね」


 こんな時間に学生が研究室ここに来るのは珍しい。卒論に焦る時期でも無いし、忘れ物だろうか?油江はどちらかといえば人付き合いが苦手な方だ。一人の方が気を使う必要が無く気楽である。学生の面倒を観るのも面倒で嫌いだ。だから研究も研究室に他に誰も人がいないような時間帯に行う事が多かった。


「いや、私は夜型でね。教授にお願いしてこの時間帯にやらせてもらっているのさ」


 とはいえ、さすがに最低限の社交性は持ち合わせている。まぁ、何度か顔を合わせている目の前の学生の名前を全く覚えていない程度の本当に最低限のものだが。


「良いですね。俺も夜の方がいいな。教授に頼んでみようかな」


「さすがに、現役の学生にこの時間帯の研究の使用の許可はそれなりの理由が無いと難しいと思うよ。それよりもこんな時間にどうしたの忘れ物かい?」


「あぁ、そうなんですよ。スマホ失くしちゃって探してたんですよ。もう、ここぐらいしか心当たりがなくてそれらしいのありませんでしたか?」


「残念ながら私は見てないな」


「そうですか、困ったなぁ。この時間だと事務室は閉まっているから、落とし物で届けられているかの確認もできないな。先輩、すみませんが今から俺のスマホの番号を言うので電話をかけってみてもらってもいいですか?疑ってるわけでは無いんですが、ダメもとでこの辺に無いかだけでも確認したいんです」


「うん、解った。良いよ」


 面倒くさいがこれで彼の気が済めば速く帰ってくれるだろう。自分のスマホをポケットから取り出して伝えられた番号に電話をかける。


 ヴー ヴー


 スマホのバイブレーションの音が微かに聞こえできた。その音の発生源を何とかたどると大量のプリントが捨てられたゴミ箱に行き着いた。


「あっ、そうか」


 男子学生はそう呟くとそのゴミ箱の中をあさり始めた。


「危ねー。大量に印刷ミスした資料と一緒に捨ててたのか」


 数秒後、彼はゴミ箱から無事にスマホを発掘する事に成功したのだった。


「私の退出時にこのゴミ箱の中身を出す予定だったから本当にギリギリセーフね。これにこりたら研究室でスマホを使うのは控えなさい」


 らしく無い説教をする。何となく先輩風を吹かせたくなってしまったのだ。ともかくこれで彼の目的は済んだのだ。早々に帰宅してくれるだろう。自分と彼はこれ以上に会話をするような関係でも無いし、それにそもそも自分と会話を楽しむ様な人間はあまりいない。人と関わる事を面倒くさがり、最低限の浅い関係だけを作り上げてきたのだから。


「いやー、本当に助かりました。前々から知ってはいたのですが、先輩はやっぱり面倒見が凄く良いんですね」


「調子がいいわね。私はそんなに面倒見が良い先輩じゃあないでしょ」


 思わず、反論してしまった。『どういたしまして、お気をつけて』で会話を終わらせる事もできたのに。


「先輩はいつも研究室の整備とかしっかりしてくれているじゃあないですか。消耗品の備品とか切らして俺達が困る事の無いようにこまめにみて発注とかしているでしょ」


「まぁ、それも院生の仕事みたいなところだからね。それに整備しっかりしてないと私自身が一番困るし」


 なんだろう。何か今の私、ちょっと卑屈だ。せっかく褒めてくれているのに素直に返せない。褒められ慣れて無いのかな。


「それにテスト勉強の時に凄く親切に勉強を教えてくれたって、姉も行ってました」


「姉?」


「はい、蛇川有栖へびかわ ありす。聞き覚えありませんか?」


 その名前には聞き覚えがあった。人付き合いの悪い自分に気をかけてくれていた数少ない友人。人の名前や顔を覚えるのが苦手な油江だが、その顔ははっきりと思い出せる。確かに目の前の男子学生はその面影があった。細い目、華奢な体つき、綺麗な黒髪は姉の有栖とそっくりだ。


「懐かしいな。弟がいたのか。有栖は今も元気?」


「はい、いつもうるさいぐらいに元気ですよ。実は先輩の事は姉貴から聞いてたんですよ。めちゃくちゃ頭が良くて面倒見の良い院生がいるからこの研究室入りなさいって」


「はぁー、有栖め、また調子に乗って無責任な事を言いって。私はそんなんじゃ無いのに。有栖がいつも面倒事を押付けてくるから仕方なくなのに」


 そう文句を言いながらも、自分の口角が上がっているのを感じる。なんだかんだで自分はその面倒な関係が楽しく、好きだったのだ。無機質で孤独な自分に光を当ててくれた人。彼女がいなければ自分の学生生活はもっとつまらないものだっただろう。


「まぁ、姉貴はそんないい加減な性格だから俺も最初は半信半疑だったのですが、姉からテストの過去問とかをもらった時にそれが嘘ではないと直に解りましたよ」


「もしかして…」


「そうです。その過去問や授業プリントには明らかにあのズボラな姉が書いたとは思えない解りやすく、そして丁寧な解説が記載されていました。直にそれらが姉の言っていた先輩が書いた物だと分りました」


「確かに有栖に勉強を教えるために事細かな解説書いた覚えがあるわ。それが残っているのは何か恥ずかしいな」


 単位がギリギリの有栖にせがまれて仕方ない雰囲気を出しながら勉強を教えていた油江だったが、実のところ数少ない友人である有栖に頼れた事に喜びを感じていたのだ。その高揚感を抑えられず今までに無い程の完成度の高い解説書などを作ってしまい同期の間で注目の的になってしまった黒歴史がある。


「本当に分かりやすい解説だったので凄く助かりましたよ。友人達にもコピーして配ったのですが、凄い評判でしたよ。先輩を英雄みたいに褒め称えてた奴も何人かいたぐらいで俺達の間では先輩は有名人ですよ。」


「そう…。それはどういたしまして」


 苦笑いをうかべてそう答える。闇に葬ってしまいたかった物が自分の知らない所で拡散してしまっていた。またそれにより知らず知らずのうちに注目されていたとは。恥ずかしさで死ねる。


「スマホを無くした時はついてないと思いましたが、こうして先輩と話せる機会を得られたのはラッキーでした。もっとお話しをしていたいのですが、明日はバイトの時間が早いので今日はこれで失礼します」


 男子生徒はそう言い残し、研究室から去っていた。


「名前何だったけかな」


 一人残ったいつもの広い研究室。何だがいつもより静かに感じる。懐かしい、楽しい、恥ずかしい、寂しい。彼との会話はまるで今まで忘れていた感情を思い出していく様な時間であった。彼の事が頭から離れない。昔の有栖の様に現状を変えるきっかけをくれるかもしれないとらしくない期待をしてしまう。


「それにしても一人が好きなのに孤独は嫌なのかな私。何だか我儘わがままだなぁ」


 そう呟いた油江は笑っていた。

 それから彼は油江が研究をしている時間帯なにちょくちょく研究室に顔を出すようになった。

 さすがに夜遅くに学生が研究室を使うことは管理上の問題もあり許可され無かったみたいだが、それでも彼は密かに訪れては油江に卒業研究のアドバイスを聞いたり、軽い雑務の手伝いをしてくれたりしていた。

 最初は油江も軽く注意をしていたが彼は聞き耳を持たず、段々と彼がいるのが当たり前になっていた。


「先輩は何で院に進もうと思ったんですか?」


 彼は研究室の備品のチェックを手伝いながらいつも通り、彼は何気無い事を問いかけてきた。まぁ、ただこの質問に関しては油江にとっては中々に嫌な質問だ。


「深い理由はないわ。強いて言うならやりたい事が見つからなかったからかな」


 適当な返事を返す、昔は確かな目標みたいな物が自分にもしっかりとあったような気がする。それこそその頃は自惚うぬぼれとも言えるような自信に溢れていた。しかし、段々と自分の実力を正しく認識できるようになるにつれてその自信と熱意は消えていた。井の中の蛙、自分は優秀な方ではあるが飛び抜けてはいない。だが、それを完全に認める事ができなく、大学に残る道を選んだ。もしかしたら自分なんかより器用に社会に馴染めている友人達の方が優秀だったのかもしれないと今では思ったりもする。

「そうなんですか。教授とか目指してないんですか?」


「う~ん、研究は好きだけど、講義をするのはちょっと自信が無いかな〜」


「先輩の教え上手は俺と姉貴のお墨付きです。きっと学生達の人気者になりますよ。凄い講師がいるって」


 彼の言葉のおかげで少しだけ自信が戻ってくる。この尊敬の眼差しを裏切りたくないと頑張れる。こんな卑屈な自分にも明るく接してくれる彼の存在は有り難かった。


「ありがと。考えてはみるわ。そう言えば君は進路どうするの?」


「そうですねー。正直めちゃくちゃ悩んでます。院に進むか、就職するか。研究をもっとやりたいので、とりあえずは院に進む方向で考えていたのですが。最近、面白そうな人に声をかけられましてね。その人の所で研究員として働くのも悪くないなとか思ったりもしていまして」


「何それ、怪しくない?大丈夫な人なの?」


「あー、確かに何か怪しい雰囲気の人でしたね。怖いくらい美形だったし、それに大学生でも全然通用するぐらい若々しかったなぁ。でも大丈夫だと思いますよ。何より凄く馬が合うんですよ。そうだ先輩にも紹介しましょうか?優秀な人材を集めているって言っていたので先輩の事を紹介したら凄く喜ぶと思いますよ」


「いやいや、遠慮します。大丈夫の根拠全く無いじゃん。君も辞めな。そんな得体の知れない所。そもそも何をしている所なの?」


「バイオ技術関係の研究している見たいですね。人類のステップアップの為に頑張ってるとか何とか」


「聞けば聞くほど胡散臭いなー。マジで辞めときな君」


「心配性だなぁ先輩は。まぁ、確かに得体がしれない感じもあるので気をつけますよ」


 不安は残るが、彼は馬鹿では無いので変な詐欺などには引っ掛からないだろう。それに彼の道は彼自身のものだ。自分がどうこう言うのは筋違いだ。本当は院に進んで大学に残って欲しいがそれは自分の我儘わがままだ。その事を意思表示する勇気は自分には無い。遅かれ早かれ訪れる別れの時に怯えながら、幸せな時間をただ見送って行くしかできなかった。



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