カッカッ。放課後の教室に響くチョークが黒板に擦れる音。

『私たちは根源的に敵対している』

 ルルカはでかでかと黒板の中央に文字を書き終えると、一息吐いてたった一人の生徒に身体を向ける。

「さぁ、始めよっか。誰も傷つけないための、誰もいない授業を」


 俺は教卓に最も近い席に座っている。ルルカは俺を見下ろしている。

「入ってきて」

 その声に呼応して、扉が開く。教室に入ってきたのは犬だった。柴犬だ。

「わん!」

 なんでここに? そんな俺の困惑をよそに、ルルカは犬を撫でていた。

「犬って吠えるよね。吠えると怖いよね」

「その犬は吠えるのか?」

 その答えは直ぐに出た。

「ギャンギャン!!!」

 俺は教卓に最も近い席に座っている。ルルカは俺を見下ろしている。

「入ってきて」

 その声に呼応して、扉が開く。教室に入ってきたのは犬だった。柴犬だ。

「……」

 なんでここに? 不思議なことに、その柴犬は口を開いたまま一言も発することはなかった。尻尾を振っているから、甘えたいのだろうか。

「犬って牙と爪があるよね。牙と爪があると人の肉を裂くことができちゃうよね」

「その犬は人に攻撃するのか?」

 その答えはすぐに出た。

 ガリガリ、と柴犬はルルカの腕を引っ搔いた。

 俺は教卓に最も近い席に座っている。ルルカは俺を見下ろしている。

「入ってきて」

 その声に呼応して、扉が開く。教室に入ってきたのは犬だった。柴犬だ。

「……」

 なんでここに? 柴犬が口を開くと、なんとそこには牙が一本も生えていなかった。何かの病気だろうか? それにしては元気そうだ。

「この子はオスなんだよ。だからか、発情すると何かれ構わず抱き着いて腰を動かす癖がある」

「そうなのか」

 それが嘘ではないとすぐにわかった。

 ルルカが何か袋の臭いを嗅がせると、柴犬の息が荒くなり、教卓に抱き着いて腰を振り始めたのだ。

 俺は教卓に最も近い席に座っている。ルルカは俺を見下ろしている。

「入ってきて」

 その声に呼応して、扉が開く。教室に入ってきたのは犬だった。柴犬だ。

「……」

 その柴犬は去勢されたかのように大人しかった。人見知りだろうか。口は拘束され、爪は全て切り落とされているか、傍目では見れないほど短く切られているようだった。

「この子の目を見てみてよ。きっと誰かを睨むことができる」

「それはできるかもしれないが、そんなに暴れっぽい犬なのか?」

 俺がそう疑問を口にした途端、その柴犬は俺をありったけの憎悪が籠った目で睨みつけてきた。

「ひっ」

 俺は教卓に最も近い席に座っている。ルルカは俺を見下ろしている。

「入ってきて」

 その声に呼応して、扉が開く。教室に入ってきたのは犬だった。柴犬……だよな?

「……」

 顔には袋を被せられ、僅かに身体を震わせているようだった。

「可哀想だ。なにやってんだよ」

「犬はこの状態でも人に突進するくらいはできるんだよ?」

 俺は教卓に最も近い席に座っている。ルルカは俺を見下ろしている。

「入ってきて」

 その声に呼応して、扉が開く。教室に入ってきたのは犬だった。犬……なのか?

「……」

 身体全体を拘束具で締め付けられ、這うようにしてしか動けずろくに声も上げられないでいるその様は、あまりにも痛々しく、いてもたってもいられなくなって俺はつい駆け寄ってしまった。頭部にはぬいぐるみを模した袋が被せられ、その犬の表情を直接拝むことはできない。

「離してやれよ」

「うん。もちろん」

 俺は教卓に最も近い席に座っている。ルルカは俺を見下ろしている。

「入ってきて」

 ルルカが押して、扉が開く。そこにあったのは毛玉だった。

「……」

 声も上げず、動きもせず、じっとそこに毛玉がある。ただそれだけなのに、俺はどうしようもない焦燥感に駆られていた。こいつはやばい。本能がガンガン警笛を鳴らしていた。

「撫でてみる?」

「い、いやだ。それを、俺に近づけないでくれ!」

「えー。そんなに恐怖心むき出しで接するのはかわいそうだよ」

「やめろ、やめてくれ……」

「ほうら、ね。あたしたちはどこまでも敵対できるんだよ」

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」


 急に身体を起こしたせいか、膝を机にぶつけてしまう。痛い。目の前ではルルカがびっくりした顔をしていた。

「あ、れ? 俺は居眠りしていたのか」

「うん。ぐっすり。六限からずっと」

「マジか……」

 ふと見ると、ルルカの手元にはふわふわの茶色いクッションがあった。

「これ、枕にしてあげようかなって思ったのに、起きちゃった」

「ああ、そう、なのか。気遣いありがとうな」

「どうかしたの?」

「……いや、幼馴染の優しさに感動してたのさ」

「そんなタマじゃないでしょ」

「ばれた、か……あっ」

「ん? ああ、黒板? ふふふ。あんたが起きたら一緒に話そうかなって思ってたんだよ」

 そこには、『私たちは根源的に敵対している』の文字があった。

「ほら、人間ってさ、言葉で相手の嫌な感情を呼び起こさせたり、腕で叩いたりすることが物理的に可能でしょ? 悪意の有無に関係なく、行動としてできてしまう以上、そこから敵対することにも繋がってくる。それに、必要以上に相手を怖がってありもしない暴力を幻視することだってできてしまう。なら、こうして敵対するということは、人の心が生んだものなのか、肉体的な特徴から受ける脅威のあり方で生まれるものなのか、どうなのかなって」

 ルルカは、何かを語っていたが、俺の耳には全く届いていなかった。

「唯一絶対の神は、人と敵対するかな? 敵対するにはあまりにもかけ離れてはいないかな?」

「つまり?」

「片方が一方的に蹂躙できてしまえるような関係だと、敵というよりも災害に区分されると思うんだ」

「なるほど」

「逆に、こうして人間同士みたいな比較的近い存在ほど、敵になりやすい。“こちらにもできるはずのこと”が多ければ多いほど、相手を敵と認識しやすい。どうかな、この考え?」

「いいんじゃないか」

「ちゃんと聞いてる?」

「滝を眺めに来たレジャー客のように聞いている」

「あたしの声は環境音ってこと? 聞いてないようなもんじゃん」

「すまん。正直、まだ夢から覚めた気がしないんだ」

「そんなにいい夢だった?」

「いや、奇妙で脈絡も何もない悪夢だったが、なぜかひどく現実味があった」

 それに、あの黒板の文字。言葉には出さなかったが、あれが一番恐ろしかった。

「ならさ、こうしてあげる」

 途端、押し付けられる柔らかい感触。一瞬、顔にクッションを押し付けられたのかと思ったが、それにしては優しく暖かかった。抱きしめられたのだ。ルルカに。

「え……」

「なにびっくりしているの?」

 顔を上げるとルルカが微笑んでいた。こんなやつだったか?

「あたしさ、もし敵にならないのなら究極的にはどうすればいいのか、考えたんだ。で、思いついた。敵というものは二つ以上の個体が存在していることによって生まれる差異を言い換えたものに過ぎないんだって。だから、もしこの世から敵を一掃するのだとしたら、自分以外の存在を消すか、自分と他の存在全てを同化させてしまうかの、二択。あたしたちはこの世から敵を無くすために動いているところがある。その行動は、排除か同化かの二方向に大分される。ならさ、あたしは同化を選ぶ。あんたは?」

「……さぁ。だが、どちらか選べっていうのなら、同化を希望するよ。実際にどう動くかは別としてな」

「まあこう言っておいてなんだけど、人は己の中に矛盾した、つまりある種敵対している二つの感情を抱くことが往々にしてありえる。だから、いくら同化しようとも両雄並び立たずって訳じゃないけど摩擦は起きるんだろうね」

「水と油のように混ざらないはずのものも、第三者の介入によって乳化という形で混ざり合うこともある。全ては混ざり合わないかもしれない。だが、本来混ざり合わないものを繋げる何かもこの世には沢山あるんだろう。人間社会で言えば、呉越同舟と言うように共通の危機とかか。危機が過ぎれば殺しあう定めと知っていても、その瞬間だけは協力し合う。実のところ、俺たちは常に互いを排除しようとしているんじゃないか? ただ、それ以上に同化しようとする要素が強いだけで」

「ならいつかあたし達も殺しあうってこと?」

「同化するために互いに邪魔なものを排除していく。時にはその意識あるいは肉体までも。それこそがこの世界の在り方なんじゃないのか? 俺たちは全員がどうしようもなく引かれあい、ぶつかり合う。そして擦れ削れていく。川底の小石のように。そういう意味では、俺たちは全員根源的には敵なのかもしれない。自分以外の全てが自分の身を削ってくるんだからな。人はたぶんこれ以上は削りさせまいとする領域を持っていて、そこに触れてくるものが一般的に言う敵なんだ。だが自分が削れることすら受け入れてその存在に自身の領域への侵入を許すのなら、それがお前の言う同化なんだろう」

「どうなんだろうね。さっきも言ったけど、人は相反する感情を己の中に持つことができる。じゃあ逆説的に、そこに差異があろうと一つとして収まることのできる器があるとも考えられる。より大きな目線で一つになることができる。敵が差異の言い換えならば、その差異すらも一つの個性として飲み込んでしまえば敵はもはや敵ではなく存在の一面に収まる。つまりさ、あたしとあんたの似ているところ違うところその全てを互いが受け入れ許容しあるいは反発しそれでもなおこの二人がより大きな存在の化身としてあると完全に信じることができたのならば、それこそが同化なんじゃないかな」

「信仰か」

「さぁ? でも、それもいいかも」

 チャイムの音が聴こえてくる。完全下校時間を知らせる音。

「同化しても争いは絶えない」

「それでも認識は競争くらいに落ち着くんじゃない?」

 立ち上がる。

「ならどっちが先に校門に着くか競争でもするか」

「走るの禁止でね! よーいスタート!」

「あっ! 黒板消しとけ……って、聞いてないな」

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