永遠の瞬き

「今見ている世界は脳が処理してる加工後の世界だって知ってる?」

 ルルカは俺にそう尋ねてきた。家庭科の調理実習の最中に。俺はちょうど玉ねぎを刻んでいて目に涙を浮かべていたので、ルルカの顔が滲んで見えていた。

「目から入った光情報は視神経を通って脳の視覚野で処理されるって話か」

「そうそう」

 ルルカの方は人参を切っている。機械のように完璧な同じ薄さのいちょう切りである。手慣れているようだ。

「そこで処理されるから人間はちょうど今この瞬間っていうのは認識してない。人間が認識している世界はいつもほんの少しだけ遅れてる」

「なるほど」

 痛っ、という悲鳴が聞こえた。他の班の誰かが指を切ってしまったようだ。周囲から何人かが心配して集まり、教師も怪我の様子を見に行っていた。俺は一瞬そっちに意識を引っ張られたが、ルルカの方はまるでそれが起こることを予測していたように動じることなくジャガイモの皮をむいていた。

「fpsって知ってる? フレームパーセコンド。一秒あたりに流れるフレームの数。人間が認識する世界にもそれがあって、ゲーム画面が60fpsなのはだいたいそれくらいから滑らかに動いているように見えるからなんだって」

「へぇ」

 ようやく俺は玉ねぎを刻み終えた。レシピを見ると、どうやらカレーの具は先に炒めて香ばしさを出すようだ。カレーなのにフライパンを用意していたのはそういう訳か。

「でもさ、それって逆に言えば余りにも滑らか過ぎる世界は認識できないってことにもなるんじゃないかな。だって、滑らかさの認識に限界がなかったら、際限なくfpsを更新しようとするはずじゃない?」

「そうか? ただ面倒なだけじゃないか?」

「まぁ、面倒だっていうのもあるんだろうけど、やっぱり限界があるんだよ。もしかしたらそうして限界を設けていないと見えてはいけないものまで見えちゃうのかもね」

 あれ、そういえば俺とルルカ以外にもこの班にはあと二人ほどいたはずだが、どこ行ったんだ? いつの間にかここの台には俺とルルカしかいない。さぼりか? 二人とも?

「なぁ、ルルカ。他の二人がどこ行ったか知らな・・・い?」

 妙だ。クラスメイトの和気藹々とした話し声がひどく間延びして聞こえる。突如世界中が重りをつけられたかのように、ゆっくりと動いている。

「どうしたの?」

 その中で、ルルカだけは平然と何も変わりなくそこにいた。

「ああ、他の二人が何処に行ったのか気になったんだが、どうも俺は疲れてるらしい。世界が遅く感じる」

「保健室に行く? 後は他の二人がやってくれると思うよ」

 ルルカにそう言われてコンロの方を見ると、先ほどまではいなかったはずの二人が頷いていた。それぞれが優しく微笑んで、

「無理はしなくていいよ」

「あとはやっとくよー」

 と言ってくれていた。それが不気味でならなかった。


「ねぇ、せっかくだしこのままさぼっちゃう?」

 小悪魔のようにルルカは囁いた。俺としてもそれが良いように思った。なぜなら、相変わらず世界の音はどんどん引き延ばされ、時計の針の進みも遅く感じてきていたせいで、時間の進みが同じであるルルカと一緒にいた方が安心できたからだ。

「ああ」

「じゃあ皆より先に教室に戻ってよっか」

「そうするか」

 ルルカの声以外の音が消えていく。時の流れが遅くなり音の波が伸ばされて聞こえなくなってきている。殆んど世界は静止していて、俺の隣のルルカだけが正常な速度を保っている。

「昨日、テレビでパラパラ漫画が取り上げられてたんだよ。それでね、ちょっと思ったんだ。世界は途切れなく滑らかに進んでいるのか、それともコマ割りがあっていつかは限界が来るのか、どっちなんだろうって」

「コマ割りがあったら俺たちはどう考えているんだ? 漫画みたいに今のシーンと別のシーンが途切れているんだったら、思考の連続性はまやかしだってことになるが、それを認識するのは不可能じゃないか?」

「世界と意識が同じ時間軸にあるかはわからないよ?」

「そうなのか?」

「うん」

 意識と世界は時間軸を共有していないのか? そもそも世界の時間も相対性がなんちゃらとかブラックホールがどうとかで一律ではないそうだし、ありえるかもしれない。教室に着いて窓から外を眺めれば、グラウンドでハードル走を行っている生徒が空中に浮遊し、風に吹かれて落ちた木の葉がその場に固まっている。

「どうしたの?」

「なぁ、俺たちだけ時間の進み方がおかしくないか? あそこの鳥は空の上に飾られてあるみたいに停止しているぞ」

「ほんとだ」

 まるで今気が付いたかのように白々しくルルカは驚いてみせた。

「今なら皆のこと観察し放題だね」

「そうなるな」

 とはいえ、俺は今までろくに観察というものをしたことがないので、観察の心得というものがまるでない。絵描きや学者とかならもっと有意義に今の静止した世界を過ごせるんだろう。これから身に付ければいいじゃないか、という最もな意見はさておき。

「家庭科室で話してた内容に戻るんだけど、あたし達の意識は目の前の空間と比べるといつも微妙に遅れてる。それでも対応できるのは脳が未来予測をしているから。

でも、それって慣れ親しんだ時間軸だからでしょ? 今みたいに自分と世界の時間がズレたら、脳の未来予測は全くあてにならないんじゃないかな」

「そうか? 今は時間が遅い以外におかしいことはないぞ」

「そうなんだけど、ほら、脳が隠したがってたものも不意に見えちゃうかもね、ってこと」

 そんなものあるのか? 認識能力に難がある人というのはいる。しかし、彼らのそれは脳が隠したいから認識できないという訳ではないはずだ。そもそも、認識して不利益を被るものというのが思いつかない。幽霊とか?

「例えば、二億五千万分の一秒に一回の頻度で色が反転してるとか、五兆分の一秒に一回の頻度で異世界と繋がる穴が開いたりとか。そういう、この世界が安定しているためには邪魔なものを意図して排除しているのかも」

「だったら面白いな」

 そういえば、音は波で、光も波の面を持つ。音が引き延ばされて聞こえなくなるのなら、光も引き延ばされて可視光の範囲から外れるはずなのではないだろうか。それとも光は例外なのか。俺達は絵画の中、もしくは映画のワンシーンの中にいるようだ。絵画世界はそれだけで完結しているとも言えるし、観測者の脳内で完成するという考え方もできる。ならばこの世界はどうなのか。そういう絵画から世界への拡大は飛躍が過ぎるようにも思う。時計を見ると、秒針が止まって見えた。

「あたし達の意識を限りなくゼロに近い一瞬に閉じ込めることはできるかな」

「意識が形としてあるならできるかもな。でも、意識がある形から別の形への移ろいとしてあるのなら、ゼロにすることはできないだろうな」

「つまり?」

「神経は電子信号でやり取りしてると聞いたことがある。脳神経も例外じゃない。脳神経に電気が流れている間でのみ意識が生まれるとすれば、瞬間を切り取るのは無意味だろう」

「なるほど」

 どこかで聞きかじった程度の知識で、そんな風に考察してみる。何もかもが静止した世界では、全ての力の和がゼロだ。ならば、意識を動かしている魂もまた時間が停止した世界に存在できないのではないか。力が働いているとは、運動しているということであり、運動しているということは、変化しているということであり、変化しているということは、時間がそこに生まれている。

「ある意味、あたし達は無の連続なのかもね」

「どういうことだ?」

「瞬間を切り取れば、そこには何の力も働いてない。でも、実際にはどれも忙しく動いてる。三次元という空間には何にもなくて、三次元を動かしている何かしらの力によってあたし達は存在してる。それを人は神と呼ぶんだろうね」

「よくわからん」

「あたし達の世界は万華鏡で、神様みたいなのがそれをクルクル回してるかもねってこと」

「・・・はぁ」

「それでは思考は三次元に存在してるのでしょうか?」

「なんだその教育番組みたいな問いかけ。俺達の世界が三次元なら、思考もそうなんじゃないのか?」

「そう? 学者の中には四次元以上の空間を想像できるって人もいるそうだし、人が想像できる限界が三次元だと思うのは、三次元で生きているからであって、もし仮に四次元空間とかで生きてたら、思考も四次元になるかもよ?」

「思考は次元に関係ないってことか」

「そうそう。それどころか時間とも関係無くて、ふと思ったことなんかフラッシュみたいに一瞬で消えちゃうし、かと言って嫌なことはいつまでも頭の中に残ってたりするし、意識は連続というよりも反復なのかも」

「そう考えると無意識は意識として反復されなかったものなのかもな」

「まぁ、本とか読んでないから根拠とかないんだけどね」

「俺もそうだ」

 時間はまだ戻らない。それとも、もう戻らないのか。永遠の夕焼けの中で、俺とルルカだけがかつての時間のまま過ごしていく。

「小説でさ、登場人物の心情描写とかあるでしょ? あれって読者がそれを読むスピードと、作品内での時間の経過で相対的になってるんじゃないかな。読者が読むのが速ければ、そのぶん世界は先に進んでいくし、どこかで読むのを止めたら、その世界は静止する。読者が読んでいるからこそ、小説には時間が生まれてる。読むのを止めてれば、登場人物達は文字としてただそこにあるだけでしかなくて、ある場面の描写をずっと読んでいれば、そこで登場人物達は何度も幸せな時間を繰り返す。これは小説内にいる彼らにはどうしようもないこと。読者という外部の力があって初めて世界が動くのだから」

「この世界もそうだって言いたいのか?」

「E=mc²の式は、物質もエネルギーであることを示してるらしいよね。だから、この世界を動かしてる力もこの世界に存在するっていう主張もできるのだろうけど、エネルギーは消費されるものであって、例えばドミノを倒す時、ドミノ自体はエネルギーを持ってるけれど、独りでに倒れることはない。それを倒す第三者がいる。あたしは別に神様の存在証明をしようとしているわけじゃないよ。だって、ドミノは始めから無限に倒れ続けているのかもしれないんだもん。ただ、もしもこの世界の観測者というのがいたら、あたし達の世界はその存在によって動かされてるんだろうね」

「はぁ。さっぱりだ。この世界が文字だけの小説だろうと、俺達は別に変わらないだろ?」

「そうだね。観測者がどう解釈しようが、一次情報であるあたし達は変わらない。この瞬間は永遠の瞬き。殆どゼロに近い移ろい。それであたし達は存在できてる」

 窓の向こうに浮かぶ小鳥の羽が、僅かに羽ばたこうとしている。風に舞う木の葉も、少しずつその場から離れだしている。どうやら時間の流れが戻って来ているようだ。時計の秒針が低く唸っている。重苦しく、ゆっくりと。

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