第18話 名前

「わぁー」


 窓部に張り付くようにして外の風景を見る、高梨さんの口から感嘆かんたんの声が上がる。


「高い。とても高いですよ、お兄様」


 そう言って僕の方を振り返った高梨さんの瞳は、爛々らんらんと輝いていた。


「高梨さんは高い所好きなの?」

「べ、別にそんな事はありませんけど、こういうのはやはり、少しテンションが上がってしまいますね」


 急に我に返ったのか、高梨さんがたたずまいを直し、体を正面に向ける。


 ちなみに今、僕達は観覧車に向かい合う形で座っている。


 座り位置の判断は、高梨さんが先に入り座ったため、結果的に僕にゆだねられる事となった。一瞬、隣り合う形も頭をよぎったが、結局今の形を選択した。向かい合う形を選んだ理由は特にないが、強いて言うならこちらの方が自然だと感じたからだろうか。


「密室に二人きり……。改めて考えると、なんだかドキドキしますね」


 言って、照れたように笑う高梨さん。


「……」


 他意はないのかもしれないが、そう実際に口にされてしまうと、余計に意識レベルが上がるので止めて頂きたい。


「お兄様、あの、私、お兄様にお願いしたい事がありまして」


 頬を赤らめた高梨さんが、上目遣うわめづかいで僕を見ながら、そんな事を言う。

「な、何?」


 あまりに突然の展開に、動揺が隠せない。


 この状況、先程の台詞、高梨さんの表情、お願いという言葉。全ての条件が、否応なしに邪な考えを僕の頭に連想させる。


 いやいや、そんなわけない。そんなわけないだろ。高梨さんがそんな……。


 頭の中で必死に否定の言葉を連ねようとも、本能はそれを受け入れず、ごくりと喉が鳴る。


 まさか、ここで……?


 高梨さんが次の言葉を口にするまでの僅かな間が、一分にも一時間にも思えた。


 もの凄く長い数秒が過ぎ、ようやく高梨さんの口が開く。


「私の事、氷菓と名前で呼んで欲しいんです」

「……へ?」


 明後日の方向から飛んできた一撃に、僕は思わず思考がフリーズする。


 名前? 名前ってあの名前? 物や人を区別するために付けられる、あの名前?


「いいけど」


 未だ混乱する思考のまま、僕は特に考える事なく返事をする。


 というか、そんな事ぐらいお安い御用ごようだ。


「本当ですか? ありがとうございます」


 僕の返事に、本当に嬉しそうに笑う高梨さん。


 名前、名前ね。確かに、付き合い出したのに高梨さん呼びは少しよそよそしいか。向こうはすでに晃樹君呼びだし。


 よし。


 心の中で気合を一つ入れると、僕はワクワク顔で待ち受ける高梨さんと目線を合わせ、意を決して口を開く。


「ひょ……」


 うわぁ。これ、実際に言おうと思うと、なんだか恥ずかしいな。思えば、前付き合った彼女の時は名前呼びするまで一か月くらい掛かったっけ。それを今回は十日でやろうとしているのだから、そりゃ緊張もするよな。


 深呼吸をし、一度心を落ち着かせる。


 大丈夫。名前を呼ぶだけだ。しかも、相手の方から頼んできた上での行為だ。何も緊張する事はない。僕なら出来る。頑張れ、僕。


「ひょうか……さん」

「はい」


 僕が名前を呼ぶと、高梨さん――氷菓さんは満面の笑みで返事をした。


「うふふ」


 これだけ喜んでくれるのなら、僕も頑張って名前を呼んだ甲斐がいがあったというものだ。


 妙な達成感のようなものを覚え僕は、なんともなしに窓の外に目をやる。


 観覧車はいつの間にか頂上部に到達しようとしていた。


 外にいる人々がひどく小さく見える。


 この距離では表情までは分からないはずなのに、彼らが皆一様に笑顔を浮かべているように見えるのは、僕が浮かれているせいだろうか。


「お兄様」

「ん?」


 呼ばれ、氷菓さんの方に視線を戻す。


「また来たいですね。……今度は二人で」


 そう言って、視線を斜め下に落とした氷菓さんの頬はほんのり赤らんでおり、その姿を見た僕の頬まで吊られて赤くなってしまう。


 地上から離れた距離、密室、頬を赤らめ合う男女……。言葉だけ並べてみると、まるで今から何かが起こりそうな……。起こりそうな……。


「お兄様……」


 潤んだ瞳が僕を見つめる。その頬は相変わらず紅潮していて、あたかも何かを催促しているようでもあった。


 何を? そんな事は馬鹿ばかでも分かる。


 僕の想像を肯定するように、氷菓さんが目を瞑る。


 つまり、そういう事だ。


 体を乗り出し、氷菓さんの顔に自分の顔を近付ける。後少し、後少しで……。


 僕のくちびるが氷菓さんの――額に触れる。


「お兄様?」


 まぶたを開けた氷菓さんと至近距離で目が合う。


 目が合う。至近距離で。氷菓さんと。


 ボッ。


 瞬間、本当に顔から火が出たかと思った。それぐらい一瞬で顔が熱くなった。


 なんだ、この完璧過ぎる顔面は。神か。神が作りたもうた芸術品なのか。……いや、今はそんな事より――


「ごめん。今はそれが精一杯っていうか、なんていうか……」

「……」


 僕の言葉に、氷菓さんが呆気あっけに取られた顔をする。


 やばい。引かれた? もしかしなくても引かれた? そりゃ、そうか。日和ひよってひたいにキスした挙句あげく、訳の分からない言い訳までして……。


「ぷっ」


 突然、氷菓さんが吹き出す。


「え?」

「もう仕方がないんだから、お兄様ったら」


 言いながら、目を細めて笑う氷菓さん。


 よく分からないが許されたらしい。良かった……。


「生まれ変わっても、お兄様はやはりお兄様のままですね」

「それってどういう……?」

「お兄様は昔も今も素敵って事ですよ」


 そう言って、氷菓さんが僕の額にキスをする。


「え?」


 柔らかな感触が、離れた今も余韻となって額に残る。


 収まりかけていた顔の熱が、思い出したかのように再燃する。ふい打ちだった事もあり、自分でした時の何倍も顔が熱い。


「さっきのお返しです」


 動揺する僕に対し、氷菓さんはいたずらっ子のような笑顔を浮かべてみせるのだった。

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