第2章 氷の結晶

第06話 天使

 目を覚ます。


 そして、同時にこう思う。今日はどっちだ、と。


 平日? 休日?


 平日だと今すぐ起床して支度したくをしなければいけないが、休日ならもう少しこのまどろみに身を任せる事が出来る。


 僕としてはもちろん、後者だとうれしいのだが……。


 まぶたを上げる。


 すると、ぼやけた視界にこちらをのぞき込む女性の顔が映った。


 女性の顔? 母さんか? でも、どうして?


 視界に掛かったもやが次第に薄れていく。その結果、不鮮明だった女性の顔も徐々にクリアになっていき――


 目を覚ますと、そこに天使が立っていた。


 天使? 僕はまだ夢を見ているのか。天使なんてこの世にいるはずないのに……。


「おはようございます、お兄様」

「なっ」


 僕の顔を覗き込んでいた人物、それは高梨たかなし氷菓ひょうかその人だった。


「な、なんで君が!?」


 驚きのあまり、僕は体を起こしながら後ろに下がるという、寝起きとは思えない芸当をやってのける。どうやってやったのかは、僕自身よく分かっていない。


 今日の彼女は白いワンピースに薄での水色のカーディガンという出で立ちで、寝ぼけた僕にはそれが天使の格好に見えたらしい。寝ぼけていたとはいえ、どれだけ恥ずかしいやつなんだ、僕は。


「お母様に、そろそろ起きる時間だから起こしてきてって頼まれまして」


 母さんめ、いらない事を……。


「じゃなくて、待ち合わせは駅前に十時だろ」


 掛け時計の指し示す時刻は、八時。そしてここは、どう考えても駅前ではない。紛れもない、我が家の自室だ。


 もし仮に勘違いでここにいるのだとしたら、高梨さんは相当なうっかりさんという事になる。……って、そんなわけあるか。


「きちゃいました」

「……」


 付き合って数日で、しかも実家暮らしの人間にやるものでは絶対ない気がする。


「とりあえず、着替えるから出て行ってくれ」

「お手伝いしましょうか?」

「10、9、8……」

「あー」


 カウントダウンを始めると、僕が本気だと気付いたのか、高梨さんが慌てた様子で部屋から逃げるようにして飛び出して行った。


 たく。いい加減にしてくれ。


 ベッドから立ち上がり、カーテンを開ける。


 うん。今日もいい天気だ。まさに絶好のデート日和びよりと言えよう。


 パジャマから私服に着替え、自室を後にする。


 外で待っている可能性も考えたが、そこに高梨さんの姿はなかった。下に降りたのだろう。


 予想が外れ、少し拍子ひょうし抜けだ。


 階段を降りリビングに入ると、食卓に高梨さんと母さんが並んで座っていた。


 今となってはもうおなじみの光景だ。


 父さんの姿が見えないが、おそらくこの状況に慣れず自分の部屋辺りに逃げたのだろう。まぁ、朝起きたら、突然見知らぬ女子高生が自分の家のリビングにいたのだ。逃げたくなる気持ちも分からないでもない。


 いつものように洗面所で朝のルーティンを済まし、再びリビングに戻る。


 そして、高梨さんのはす向かいの席に腰を下ろす。


 母さんの姿は当然のようにそこにはない。


「まったく、どういうつもりだ」

「お母さんに呼ばれたのよ」

「母さんに?」

「えぇ。晃樹こうき君にお弁当を作りたいと相談したら、好きな物や好きな味付けを実践込みで教えてくれるって」


 というか、いつの間に母さんと連絡先を交換したんだ?


 僕の知らないところでどんなやり取りがされるのか、想像するだけで恐ろしい。


「という事で、今日はお弁当を持って出かけましょう」

「それはいいけど……」


 今日は適当に駅周辺の店を散策する予定だった。なので、昼食をどこで取るかは特に決めておらず、それが手作りの弁当に変わったところで差程さほど問題はない。


「もう少し嬉しそうにしなさいよ。折角、可愛かわいい彼女がお弁当作ってくれるっていうのに」


 僕の朝食とコップを持ってきた母さんが、僕の反応に不満の声を上げる。


「いや、うーん」


 昼食を取る直前に「今日はお弁当を作ってきたの」と言われれば、それなりの反応を取る事も出来たかもしれないが、こうして前もって告げられてしまうと正直反応に困る。というか、起床からここまでの流れ全てに、絶賛戸惑い中である。


「あはは、照れてるだけですよ。晃樹君、照れ屋さんだから」

「誰が照れ屋さんだ」

「そう。まぁ、氷菓ちゃんがそういうならいいんだけど……」


 僕の反論など無視し、勝手に会話を進めていく二人。


 信念のない負け戦に挑むほど僕も馬鹿ばかではない。ここは大人しく、黙して語らず、食事に専念しよう。


 今日の朝食は白ご飯と目玉焼き、それにベーコンと味噌みそ汁といった和食寄りの内容だ。


 まずは味噌汁から。うん。美味い。これぞ我が家の味、日本の心だ。


「晃樹君はどういう物が好きなんですか?」


 という質問を高梨さんは、僕に――ではなく、母さんにする。


 目の間に当人がいるのだから僕に聞けばいいのにと思う反面、とっさに好物を聞かれてもすぐには思い浮かばないなとも思う。自分の事は意外と自分自身では分からないものなのかもしれない。


唐揚からあげ、トンカツ、カレーにお寿司……男の子が好きそうな物与えておけば、大体間違いないと思うわ」


 なんだか馬鹿にされている気分だが、そんなに大きくは間違っていないので、あえて口を挟む事はしない。


 目玉焼きうま。


「じゃあ、逆に嫌いな物は?」

「ニンジン、ピーマン、玉ねぎ、後はこんにゃくかしら」

「なるほど」

「だから、いっぱい入れてあげてね」

「おい」


 それまでだんまりを決め込んでいた僕だが、さすがに今の言葉には声を上げさせてもらう。


「何よ、好き嫌いは良くないわよ」

「だからって、必要以上に入れるのは違うだろ」

「そうでもしないと克服しないでしょ」

「逆に、よりいっそう嫌いになるわ」

「ふふ」


 声のした方を二人で見ると、高梨さんが口元を押さえて隠すように笑っていた。


「ごめんなさい。仲がいいんだなって思って」

「「……」」」


 無言のまま、僕と母さんはなんともなしに顔を見合わせる。


「まぁ、悪くはないかな」

「親子だしね」


 僕の言葉に、母さんがそう言葉を続ける。


「いいですね、そういうのって」


 笑い、そんな事を言う高梨さんの言葉を聞いて、ふと思う。


 そういえば、高梨さんの家族の話は今まで聞いた事がないな、と。

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