第十七楽章

 ダリアは、あっという間に職場の中心的な存在になっていった。


 職歴は俺の方が一日長いのに、二日目にしてダリアの腰巾着として認識されるようになった。まあ、実際そのとおりなので、文句もなかったが。


 初めはダリアがナイフで指を切らないかと冷や汗をかいたが、彼女の自己評価のとおり手先は抜群に器用で、約十年間ジャガイモの皮むきで慣らした俺の腕をたった数時間で追い抜いた。


 そして、意外なことに、仕事をするようになってから、ダリアはまったく酒を飲まなくなった。


 ダリアにその理由を尋ねると「次の日の仕事に響くでしょう?」とのことだった。どうやら仕事に対しては真面目なところがあるようでとても意外だった。


 二人になったことで稼ぎは倍になったものの相変わらず稼ぎは少なく、借金返済のめどは立っていなかった。


 しかし、この街の住人になれたような気がして、なんだか心地よかったし、仕事中は借金のことを忘れることができたのだった。


 仕事を始めて一週間が経とうとしていた時だった。マリオの意外な才能が明らかになる。


「おはよう、ダリア、アポロ!」


 いつものように作業場に行くとマリオが声をかけてきた。まだ、他のものは出勤しておらず彼一人のようだった。


「おはよう。マリオ」


 ダリアはマリオの前で少し屈むとその頭を撫でる。


 マリオはくすぐったそうに身を捩り「やめてよもう」と口を尖らせるが、顔はだらしなく緩んでおり喜びが隠しきれていない。まるで猫のようだと思う。


 ダリアはそんないじらしいマリオを文字通り猫可愛がりして、今度は彼のほっぺたをもにゅもにゅとやっている。


 すると、マリオはおかしなことを言い出した。


「ねえ、ダリアは昔、漁師だったの?」

「私が? どうしてそう思ったの?」


 ダリアは驚いたのか、目を数度瞬かせる。


 マリオは何か叱られたかのようにモジモジとしながら口をひらく。


「あのさ、ダリアはとても綺麗だよ?」

「ありがとう。嬉しいよ」

「でもさ……手が……」


 マリオが言わんとしていることがなんなのか分かった。


「手がごっつい?」


 俺はなかなか言い出せないマリオの言葉を代弁してやった。


 ダリアは猛烈な勢いで俺の方を振り向くと、避難がましい目で見つめてきた。


「アポロ、ひどいじゃないか」

「ははは、ごめん。ただ、図星だったみたいだぜ?」


 マリオは目を見開き口に手をやっていた。心中を見透かされて驚いているのだろう。


「ち、違うよ。違くないけれど……。その、手が大きいなって。僕の母さんはその、もっと小さくて柔らかい手をから」


 彼の母の話を聞くのはこれが初めてだった。こんな年端も行かぬ少年が働いているということは、そうしなければならない理由があるわけで、彼の発言から察するに彼の母はもう亡くなっているのだろう。


 俺の顔に一瞬浮かんだ翳りを敏感に察知したのか、マリオは努めて明るくおどけてみせる。


「僕の母さんはもう死んじゃったんだけどさ、それと比べるとダリアのてはその、うんごっつい!」

「もう! マリオめ!!」


 そう言ってダリアはマリオの頭を、そのごっつい両手で掴むとわしわしとこねくり回す。


「ダリアの手はマリオが言うとおり確かにごっつい。でも、漁師だったからじゃあないぜ? 彼女は演奏家なんだ」

「演奏家!? 本当に?」

「うん。そうだよ。私たちは旅の音楽家なんだ」


 ダリアはピアノを弾くように、その長い指を空中で滑らかに動かす。


「私たちってことは、アポロも?」

「ああ、まあ」


 マリオはご馳走を前にした子供のように目を輝かせると「うわあ、すごい! 初めて見た」と言ってはずんでみせた。


「ねえ、今度聞かせてよ」


 その時、作業場の入り口の方で声が聞こえた。


「何を聞かせろって?」


 振り返ると、そこには職場の同僚が数人いた。


 マリオは嬉しそうに声をかける。


「おはよう! みんな聞いてよ! ダリアとアポロは演奏家なんだってさ!」


 それを聞いた同僚たちは「本当かよ?」と驚き、俺たちはあっという間に囲まれてしまう。しまいには騒ぎに気がついたガルリアも混ざって、質問攻めにあう。


 まあ、悪い気はしなかった。


「しかし、聞いてみたいものだね。第一級演奏家の音楽なんてそうそう聞けるものじゃない」


 ガルリアが腰に手を当て、目を細める。


「もちろん良いですよ。明日、楽器を持ってきます」


 ダリアが快諾すると、同僚たちは一斉に歓声をあげた。マリオに至っては、あの暴れ独楽のような動きで喜びを爆発させていた。


 翌日、ダリアと俺は約束どおり楽器を持参し、昼休みに敷地内にある広場に集まり、小さな演奏会を開催した。


 タリアータで有名な民謡をいくつか演奏する。皆、本当に楽しそうだった。最後はみんなで声を合わせ歌う。体を寄せ、肩を抱き合い、体を揺らし、優しくどこか懐かしい音の波に体を預ける。心が生きている喜びを歌い上げる。


 ああ、これが音楽なんだ。


 俺は、幸せな気持ちでいっぱいになっていた。


 演奏のあと、ダリアは「もっと近くで楽器を見てみますか?」と提案した。ダリアの提案に皆顔を見合わせながら喜びあい、そして恐る恐るといった感じで近づいてきた。一般人が本物の楽器を間近で見る機会などそうそうないわけで、皆目を輝かせながら楽器たちを興味津々といった感じで見つめる。


「マリオ、どうしたの?」


 ダリアがマリオに声をかける。


 皆、ダリアの周りに集まって、彼女のバンドネオンについての説明を熱心に聞いている中、マリオだけは開かれたケースに収められているヴァイオリンをじっと真剣な眼差しで見つめていた。


 声をかけられたマリオはハッとした様子で振り返る。


「ごめんなさい。なんか、これを見てたら不思議な気持ちになったんだ」


 ダリアが目を細める。全てを見透かすような鋭い目。俺はこの目を知っている。これは、第一級演奏家の目だ。


「どんな気持ち?」

「んー……なんて言うんだろう、母さんを思い出すんだ。なんでだろう?」

「懐かしい?」

「ううん。違うと思う。懐かしいというより、……そんな感じ」


 ダリアはマリオをじっと見つめたまま「ねえ、アポロ。そのヴァイオリをマリオに持たせてみてくれない?」と言った。


 ダリアはマリオの中に何かを見出したようだ。俺は小さく頷く。


「ええ? 僕に? いいよ。落としたりしたら大変だし。それに、なんか怖いよ」

「大丈夫だよ。マリオ。ほらここを持って」


 ケースから取り出したヴァイオリンをマリオに手渡す。


 その瞬間、風が、鳥の囀りが、潮騒が止む。まるでコンサートの前の静けさのようにだった。愉快に野次っていた他の同僚たちも異変を感じ取ったのか、皆一斉に口をつぐんだ。


「やっぱり……」


 ダリアが小さく呟く。


「こりゃ、すごい」

「ええ、本当に。まさか、ここまでとはね」

「ねえ! なんなの? 僕怖いよ!」


 マリオはヴァイオリンを持ったままガチガチに固まっていた。


「マリオ、君は演奏家の素質があるよ。しかも、それもとんでもない才能かもしれない」

「ほ、本当に? なんか怖いんだけれど……」

「ねえ、アポロ、ちょっと音の出し方を教えてあげて」


 ダリアは明らかに興奮していた。かく言う俺も同様に興奮していた。もしかしたら世紀のヴァイオリンニストの誕生に立ち合っているのかもしれない、そんな予感がしていた。


 ヴァイオリンの構え方を教え、G線を開放のまま弾くように指示する。


「こ、このまま、この棒を引けばいいの?」

「そう。ゆっくり引いてごらん」


 マリオは恐る恐るといった感じで弓を引く。


 途端、ヴァイオリンから力強い音が鳴り響き、大気がびりびりと振動した。


 同僚たちは一瞬呆気に取られていたが、一斉に歓声を上げた。


「マリオ! お前すごいな!!」


 マリオは何がなんだか訳わからないといった様子で、ただはにかむだけだった。

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