第十六楽章

「アポロ、君、良い匂いがするな」


 今日も今日とて酔っ払ったダリアを部屋まで連れ帰り、介抱しているとダリアは出し抜けにそんなことを言い出した。


 ダリアは鼻先を首筋に近づけるとスンスンと鼻を鳴らす。


「や、やめてくれ。顔が近い!」


 恥ずかしさに耐えきれず、ダリアを両手で押しやる。


「何も、そんなに邪険に扱わなくても良いじゃないか。私は寂しいぞ」


 ダリアは、両頬を膨らませて文句を言う。


 まるで少女のように可愛らしい仕草に一瞬心を奪われかけるが、ただの酔っ払いだと何とか正気を保つ。


「恥ずかしいんだよ」

「そうか? ふふふ。私も隅に置けないな」


 なぜか満足げである。


「ところで、アポロ。その香りは、リモンチェッロだね。さては私に内緒で飲んできたな?」


 さすが酒の事となると犬並みの嗅覚が働く。が、ハズレである。


「ダリアと違って、俺は働いてきたんだよ。ダリアの飲み代を稼ぐためにな!」

「働いてきた?」

「そうだ。この街の蒸留所でな。リモンチェッロ造りの仕事だ」


 ダリアは「なんだって!」と叫びながら立ち上がる。そして俺の鼻先に人差し指を突きつける。


「ずるい! ずるいぞアポロ! そんなに楽しそうなことを……!」

「仕事したくないんじゃないのか?」


 ダリアは腕を組むと「そんなことは言ってない」と首を振る。


「私は、と言ったんだ。私も明日からそこで働くぞ!」


 正直驚いた。


 たった数週間の付き合いだが、その短い期間でもダリアの人となりを知る機会は十分すぎるほどあった。


 その経験から、彼女は快楽主義者であり、おおよそ労働というものを憎んでいるものだとばかり思っていた。


「遊びじゃないぞ? 仕事なんだぞ?」

「アポロ。君は一体私を何だと思っているんだ?」と彼女はため息をつく。

「え、何って……快楽主義者?」

「馬鹿言え! 私は芸術家なのであって、決して快楽に溺れている訳ではないのだよ」

「酒には溺れているけどな……」と小声で呟く。

「何だって?」


 ダリアは地獄耳を発動したようで、頬を膨らませながら、顔をずいと近づけてきた。


 吐息がかかるほどの距離だ。


 酒の匂いと共に、ダリアの髪から甘い香りが鼻腔をくすぐる。


「わ、分かった! 分かった! こっちとしても、働いてくれるなら文句はないさ」


 そう言いながら慌てて距離をとる。


 顔の火照りが落ち着くのを待ってから、ダリアの方を見やると、ダリアは少し瞳を潤ませながら、なぜか自分の両腕の匂いを嗅いでいた。


「で、本当に働くのか?」

「嫌なの?」

「嫌ってわけじゃないけど、レモンの皮剥きだし、指先を切ったら大変じゃないか」


 演奏家は手先が命である。一流の演奏家は絶対にナイフなど


 俺だって、彼女が怪我をして音楽ができなくなってしまうことを心の底から心配していた。いや、恐れてると言ってもいい。


「ああ、いつかのアポロのようにかい?」


 ダリアはニヤリと口元を歪ませる。


「ま、まあそうだよ」

「私は君のようなヘマはしないよ。こう見えて私は手先が器用なんだ」


 そりゃそうだろう、あれだけ速く、正確に弾けるんだから……と心の中でつっこみを入れる。


「まあ、万が一のことがあれば、また薬でも使うさ。ところで、その蒸留所はなんというところなんだ?」

「ああ、ガルリア蒸留所ってところだ」


 ダリアは、顎に手を当てて「ガルリア……」と小さくつぶやく。


「ああ、思い出した。アポロと行った店で飲んだやつだね!」


 そう言われて俺も思い出す。断崖ラ・スコリエーラで飲んだリモンチェッロの瓶のラベルにあった名である。


「確かに。今気がついたよ」

「あれは素晴らしかった……」


 ダリアが目を細め、遠い彼方へと意識を飛ばす。


「そうそう、そこで初めて魔工機関を見たよ」

「なんですって?」


 ダリアがカッと目を開く。その目にはゆらゆらと火が燃えていた。


「な、なんだよ。急に」

「今、魔工機関っていった?」

「ああ……」

「あの、パイプオルガンの化け物のような?」

「そうだよ」

「パイプオルガンとは似てもにつかぬ、ひどく間伸びして汚い騒音を撒き散らす、あの魔工機関?」


 魔工機関が奏る「ぴーぷー」という間抜けな音を思い出す。確かに、美しいとは言えない音である。


「だから、そうだよ! 一体なんなんだ!」


 ダリアは大袈裟に体をのけぞらせると、頭に手をやる。


「君は調律師の前に一人の演奏家だろう? あんな美しくない音楽を聴いてなんとも思わないの?」

「音楽って……魔工機関は楽器ではないだろ?」


 それを聞いたダリアはしばらく目を見開き口を死にかけの魚のようにぱくぱくさせる。


「アポロ……あれは楽器なんだよ」


 今度は俺が目を丸くさせる番だった。


「まさか……あれが? あれは音楽なんかじゃないぜ?」


 あんな間抜けな音が音楽? なんの面白味も美しさのかけらもないメロディが? そんな馬鹿な。


「それは私も同感。でも、本当に魔工機関は楽器なんだよ。正式名称は、魔素抽出炉付自動演奏式オルガンといってね。一応オルガンの一種なんだ」

「本気かよ……」

「本気も本気。ところでアポロはなんでこの世には楽器の鳴らせる人とそうでない人がいると思う?」

「……考えたこともなかったな」


 実際、そんなことを知らなくても生きていけた。ただ、自分が演奏できるという事実だけが重要だった。


「楽器はね、振動を大気中の魔素に伝えるためのもの。普通の音は空気の振動だけれど、音楽は違う。魔素を振動させる必要があるの。でも、魔素は物理的な干渉を受けない粒子だから……」


 まるで意味がわからない。別の言語を聴いているようだった。


 混乱が顔に出ていたのか、ダリアは額に指を当てて悩みだす。


「あーつまりね……そう! 湖面をイメージしてみて」

「あ、ああ」

「その湖面に石を投げ入れるとどうなる?」

「どうなるって、波紋ができる……かな?」

「そう! 波紋ができるよね。それが普通の音。でも、魔素で満たされた湖にいくら石を投げ入れても、その石が湖面を叩くことはない。つまり、音が出ないの。魔素は魔素にだけにしか干渉できないから。でも、石を魔素で包み込んで、投げ入れれば……?」

「同じように波紋ができる?」

「そう! それが音楽。楽器はね、魔素を纏うことができる特殊な機関なの。魔素を纏った共鳴器、例えばヴァイオリンは本体がそれに相当するのだけれど、それが大気中の魔素を振動させるから音がでるの」


 十数年音楽を調律してきたが、音が出る原理までは知らなかった。


「そうなのか。で、なんで楽器を鳴らせる人間とそうでない人間がいるんだ?」

「ああ、その話だったね。あのね、楽器を鳴らすためには楽器を魔素で包み込む必要がある。でも魔素は本来、他の物質に干渉を受けないからどこかに集めたり、ましてや定着させたりすることはできない。だから、楽器に纏った魔素はどんどん空気中に漏れ出てしまうの」


 俺はタバコの煙が空気に霧散していく様をイメージした。


「なるほど。じゃあ、楽器の周りの魔素はどこから来るんだ?」

「演奏者の身体からよ」


 ダリアは俺の胸を指差す。


「俺の身体……?」

「そう。演奏者の素質がある人の身体には、微生物のようなもが大量に存在しているの。その生物は魔素を作り出す能力があって、演奏者は絶えず己の身体で生成される魔素を楽器へと供給することによって音楽を演奏するのよ」


 数日前、魔力切れで気絶したことを思い出す。あれはおそらく、身体中の魔素が枯渇したことによる症状なのだろう。


「じゃあ、魔工機関ってのも同じ理屈で音が鳴ってるのか?」

「そう。でも、決定的に違うのは演奏者がいらないという点」

「演奏者がいらない? そりゃおかしいじゃないか。演奏者が魔素を楽器に供給しなきゃ音は出ないんだろ?」

「そう。そのはずなんだけれど、魔工機関は、生物の細胞を燃料にすることで魔素を強制的に生み出し、音を出すことに成功したの」


 確か、仕事場で出会った男もサイボウがどうとか言っていたことを思い出す。


「その、サイボウってのは?」

「細胞っていうのはね、生物の体を作る小さな小さな粒のようなもの。それらが集まって私たちは出来ている」


 全く実感が湧かなかった。でも、この体も、ダリアの体も、星屑が集まってできた天の川のように、その細胞とやらが無数に集まってできているのだとしたら、なんだか神秘的だ。


「なるほどね。でも、なんで魔工機関が世紀の大発明なんて言われるんだ?」

「あのね、今まで人由来だった魔法が、そうでなくなるんだよ? 人間には給料を払わなきゃいけないし、休憩だって必要でしょ。でも、魔工機関は燃料さえあれば文句も言わず昼夜問わず働いてくれるんだから」


 経営者からしたら理想の演奏家である。そんなものが世に出れば、産業の世界は一変する。相当な数の演奏家が職を失うことになるだろう。


「じゃあ、ダリアは演奏家の仕事が減ることに我慢ならないってわけか」

「ちがーう!!」


 ダリアは天を仰ぎ、両手で頭をわしわしと掻きむしる。


「私は音楽家だよ!? あんな汚いものが音楽だってことが許せないの!!」


 そっちかよと心の中でつっこみを入れるが、まあでもその気持ちもまあ分からなくはない。


「じゃあ、働くのやめる?」

「いや、やる。魔工機関は嫌いだけど、リモンチェッロ造りは面白そうだし。それに……」


 ダリアは酔って上気した頬に手を当て、うつむき加減で何かを呟いた。


 「アポロと一緒がいい」と聞こえた気がしたが、きっと気のせいだ。

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