第二楽章
パンパンに詰まった重たいゴミ袋を持って、地上へとつながる階段を汗だくで何往復もする。これも俺の仕事のひとつだった。この店の雑用はほとんどが自分の仕事だった。
最後のゴミ袋を持って上ろうとした時、強い空腹と疲労で吐きそうになり、思わずその場にしゃがみ込んでしまった。
しばらくそうしていると、階段の上から誰かが降りてくる足音がした。
まだ開店時間ではない。
冗談じゃない! 俺はこれが終わったら帰って寝るのだ。といっても、数時間後には開店準備のため出勤しなければならないのだが……。
なぜだか怒りが湧いてきた。うずくまったまま、悪態をついてやる。
「おい、あんた。字読めねえのか? まだ開店時間じゃねえよ」
「あら、いきなりご挨拶ね」
とても美しい声だった。
倍音を含んだ豊かでみずみずしい声。それは、チェロの響きに似ていた。
はっとして顔を上げると、女が身を屈めてこちらを覗いていた。
差し込む初夏の陽光に透ける金色の髪。それは緩やかに波打ち、肩口でかすかに揺れていた。大きな濃紺の瞳は、作り物のように怪しく輝いて、目頭から鼻へとつながる曲線は息を呑むほど美しい形状をしていた。ふっくらとした発色の良い唇は、瞳から受ける完成された印象とはまた違い、どこか幼く可愛らしい。気品と可憐さが同居した不思議な顔立ちだった。
「あ、いやすみません……」
先ほどまでの苛立ちは、綺麗さっぱり霧散していた。
「君、大丈夫? 体調でも悪いの?」
「大丈夫です。ちょっと、眩暈がしただけですから」
「そう?」
彼女の心配そうな視線が痛かった。
何も答えずにいると、彼女は諦めたのか店への扉へと手をかける。
「ちょ、ちょっと待ってください。今はまだ開店準備中で……」
「え?」
彼女は意外そうな顔をする。
「ああ、私は客じゃないよ。ほら」
彼女は左手に持った、大きめの四角い革張りのケースを掲げて見せた。何かの楽器が入っていることがすぐに分かった。
「私は、旅の音楽家。路銀を稼ぐために出演交渉にきたってわけ」
そう言って、彼女の傍らに置かれた旅用の大きなトランクを足で小突く。
「ああ、なるほど」
「君、お店の人、だよね。店主を紹介してくれないかな?」
正直お断りしたかった。早く帰って少しでも長く寝たかった。
しかし、彼女から発せられる言葉には魔力が宿っているのか、断ることができなかった。
「分かりました。でも、これを片付けてからで良いですか?」とゴミ袋を指差す。
彼女は「もちろん」と頷くと、手に持っていた楽器ケースを丁寧に地面に置き、ゴミ袋のひとつに手を伸ばす。
「そんな! 良いですよ!」
「大丈夫、大丈夫。私、結構力強いから。それに、少しでも恩を売っておかないとね? この店で演奏できなければ、今夜は野宿だ」
彼女はパチリと片目を閉じる。
その不意打ちの艶めきに打たれ、心臓が飛び跳ねる。
彼女は「よいしょ」という掛けと共に、かなり重いはずのゴミ袋を片手で軽々と持ち上げる。力が強いというのは本当らしい。
階段を登りきった彼女が振り返る。
「君、楽器弾けるでしょ。それもかなり上手い」
「え?」
「手を見ればわかるよ。この店の演奏家……ではないか。君、面白いね。名前は?」
彼女は屈託ない笑顔を俺に向ける。
さっきは気がつかなかったが、陽の光の下でよく見れば、かなり上等な身なりだ。
そりゃそうだ。この世界で誰もが憧れる演奏家は、一部の適正のある人間のなかでも、特に才能のある一部の選ばれた人間にしかなれない。
それに比べて俺は、俺の音楽は……。
腹の中でドス黒い感情が渦巻く。
「偉大な演奏家様のあんたには関係ないだろ。ああ、でもあんたは音楽家だっけか。さっき自分でそう言ってたもんな」
演奏家たちの奏る音楽には、それぞれ固有の能力があり、その種類は無限とも言われている。
もちろん、発現した魔法がくだらない能力だった、なんてことはよくある。そうなれば、能力を活かした職にはつけない。
しかし、そもそも美しい音楽というものは、それ自体に価値がある。だから、この世界の誰もが、俺を含めて、どうしようもなく音楽に憧れ、恋焦がれるのだ。
だから、どんなに魔法の能力がくだらなくとも、演奏家はエンターテイナーとして生きる道がある。しかし、彼らは、一部の演奏家から、人を楽しませることしかできない奴等、音楽家と蔑視されていた。しかし、そんな音楽家ですら、平民の数倍は稼げる職業だった。
彼女を音楽家と罵る俺の心ない一言にも彼女は少しも動揺した様子を見せず、まっすぐに俺を見つめる。
「楽器の弾ける君が、音楽家にすらならずにこんなところで燻って、店の雑用係をしているのは何故?」
その問いは俺の心の真芯を抉り取った。
そう、俺は音楽家にすらなれなかった。楽器は弾ける。練習もした。当然、譜面どおりに弾けているのだ。なのに、なぜだか人を感動させることはできなかった。何かが足りないのだ。
そんな俺の境遇も知らず、無邪気な質問をしてくるこの女が腹立たしかった。
「あんたには、関係ない……。それに、俺は雑用係じゃない。この店の調律師だ」
彼女は目を見開く。
「調律師とは驚いた。私は、ダリア。ダリア=リースリング」
彼女は頭を下げ、握手を求めてきた。
彼女の真剣で真摯な態度に、怒りを露わにしている自分が恥ずかしくなる。それと同時に、小さな嫉妬心や虚栄心がみるみる萎んでいった。
「いや……こちらこそ、失礼な言い方をした。俺は、アポロ。アポロ=アレグリア」
握った彼女の手は、大きく、そして意外なほどがっしりとしていた。それは、ピアニストの手だった。
そうだ。この人がなにも苦労していない、なんてあるわけないのだ。演奏家になるために血のにじむような努力をしてきたはずなのだ。
自分の醜く、大人気ない態度を恥じた。
「やっぱり君は美しい手をしている」
ふと気がつくと、彼女はいつのまにか俺の手を両手で掴んで、まじまじと見つめていた。彼女の柔らかな吐息が掌にかかる。
恥ずかしさで、咄嗟に手を振り解いてしまった。
「な、何を」
「あ、ごめんなさい。あまりに美しい手だったからつい。その手は、偉大な演奏家の手よ」
顔が熱くなるのを感じる。
「ねえ、アポロ。音楽は好き?」
その問いに俺は答えることができなかった。
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