第20話「ほととぎすがさえずったら」

おまえの心はここにないのか。それだから鳴かないのか、ほととぎすよ。そうだろう。心はいつだって空を飛び回っているのだなあ!…………おーい……。

『――――ほととぎすがさえずったら』

それは、とある冬の朝のことだったと思う。まだ眠くて、でももう起きなくちゃいけなくて、もそもそベッドから這い出してカーテンを開けた瞬間、ぼくは、はっと息を飲んだのだった。空が青いのに驚いてしまったからだ。いつもなら薄い灰色でくすんでいるはずの空が、透き通るように青く輝いていた。思わず見とれてしまったほどだ。しかし、それだけではなかった。よく見ると雲も真っ白なのだ。綿菓子みたいにふわっとしていて、まるで砂糖菓子で作ったような雲だった。しかも、それがいくつもある。一つだけじゃない。二つ三つどころじゃなかった。十や二十では効かなかった。

「雪か!」

ぼくは大声をあげた。雪が降っているなんて知らなかった。外を見回してもどこにもない。ということはつまり、これは初雪に違いないぞ。ぼくの住んでいるところは東京より北にあるため、雪は珍しくないけれど、この季節に初雪というのはなかなか珍しいことだった。

「こりゃあすごい」

ぼくは感嘆した。こんなに綺麗な景色は初めて見たかもしれない。しばらくのあいだベランダに出て、ぼけーっと眺めていたものだ。すると、どうしたことだろう、それまでなんとも思っていなかったのに、急に胸の奥がきゅんと痛くなったではないか。その理由はすぐにわかった。隣の部屋に住んでいる女の子のことを思い出したからだ。彼女はぼくと同じ高校に通う同級生であり、いわゆる幼なじみという間柄である。名前は美樹ちゃんといった。ぼくたちは家が近いこともあって、小さいころから一緒に遊んでいた。そして今年の春から同じアパートに住み始めたのだ。

美樹ちゃんはかわいい子だった。ぼくよりも背が低いし、顔立ちも幼い感じなので、たいていの場合、中学生ぐらいに見られることが多いのだが、実際には高校生だ。髪が長くて、肩まで届くくらいある。その髪を後ろで束ねているので、ちょっとボーイッシュな雰囲気がある。瞳が大きくて、鼻筋が通っているせいか、美人といってもいいほどの容姿をしている。しかし、そんな外見とは裏腹に性格はとてもおとなしい子だった。いつもおどおどしているといってもいい。特に人前に出ることが苦手らしく、学校の行事などでも緊張してばかりいた。ただ、音楽には強い興味を持っているようで、楽器の演奏が大好きらしい。ギターを弾いている姿を何度か見かけたことがある。下手ではないものの、とてもうまいとは言い難かったけどね。

とにかくそういうわけで、ぼくたち二人はずっと昔から仲良しだった。もちろん今でも変わらない。毎日のようにいっしょにいる。でも最近はご無沙汰していた。なぜかといえば……ぼくたちの関係が変わってきたからだ。具体的にいうと、ぼくは彼女に対して恋心を抱くようになっていたのである。自分でもどうしてなのかわからない。きっかけがあったわけではないのだ。気がついたときには好きになっていた。

もちろん彼女に告白する勇気など持ち合わせていない。それに今の関係を壊すことにも抵抗を感じていた。だからぼくは自分の気持ちを隠したまま過ごしてきた。このままの関係でもいいじゃないかと自分に言い聞かせながら。でも、そうやって自分を納得させているうちに、いつしか彼女のことを思い浮かべることが多くなっていた。彼女といっしょにいたいと思うようになっていった。その結果、ぼくは悶々とした日々を過ごすようになったのである。

そんなふうにして、ぼくは悩んでいたのだけど……実は最近になって状況が変化しつつあった。今までは美樹ちゃんのことを考えるだけで満足できていたのに、もっと近づきたいという欲求が生まれてきたのだ。これってどういうこと? ぼくは混乱してしまった。好きな子に告白したいという感情に似ている気がするけど、少し違うような気もする。なんにせよ、ぼくは自分が変になってしまったことに戸惑っていた。

そこで、ぼくはインターネットを使っていろいろ調べてみた。すると、こういうことがわかったのである。恋愛というのは一種の化学反応のようなもので、お互いの距離が縮まることで反応が起きるのだという。つまり、どちらか一方だけでは成り立たないということらしい。それを読んで、なるほどと思ったものだ。ぼくと美樹ちゃんの関係も同じだということだ。

要するに、お互いに相手の存在を意識することによって、初めて恋心が生まれるということになるのだろう。ということは、この先、ぼくたちが仲良くなれば、いつかは恋人同士になれるかもしれない。そんな未来を想像すると嬉しくなってきた。ぼくだって男の子なのだ。やっぱり女の子と付き合いたい。美樹ちゃんの恋人になりたいと強く願うようになっていた。よし! これから積極的にアプローチしていこう。ぼくは決意を固めた。まずは手始めとして、美樹ちゃんをデートに誘おう。

それから一週間後。ぼくは美樹ちゃんと会う機会を得た。場所は近所の公園だった。ベンチに座って話をするだけの時間だったけれど、ぼくにとっては貴重な体験となった。何しろ生まれて初めての経験なのだ。心臓がドキドキして破裂しそうなほど緊張していた。それでも頑張って言葉を紡ぎ出した。

「あのさ、ぼくと付き合ってくれないかな?」

言った瞬間、顔が火照った。まるで全身が燃え上がるように熱くなった。しかし、返事はあっさりしたものだった。

「えっ、どこにですか」

「ち、違うよ」

「あ、冗談ですよー」

「…………」

「あはは、わかってます。でも、どこに行くんですか」

「えっと、映画とかどう?」

「いいですねー。私、観に行きたかったんですよ。じゃ、チケット予約しておきましょうねー。明日の放課後で大丈夫です?」

「うん。それでお願いします」

「わかりました。楽しみにしてまーす」

というわけで、次の日になった。ぼくは約束通り映画館へ行き、美樹ちゃんと合流した。そして、二人並んで席に着いた。映画のあらすじは主人公の少年が交通事故に遭い、記憶を失ってしまうというもので、それをヒロインの少女が献身的に介護するというストーリーだった。ぼくは夢中になって見入ってしまった。美樹ちゃんはどうなんだろうと隣を見ると、彼女はスクリーンではなく、ぼくの顔を見つめていた。ぼくと目が合うと、にっこりと微笑んだ。その笑顔を見て、ぼくの心の中に温もりが生まれた。幸せな気分だった。そして、この人とずっと一緒にいられたらいいなあと強く思ったものである。

ところが、その後の展開は予想外の展開を見せ始めた。なんと美樹ちゃんがぼくの家へ遊びに来たのである。それも両親がいないときにだ。おかげでぼくはひどく緊張することになった。

「あの、何か用事でもあったりするのかな?」

リビングルームでお茶を飲みながら尋ねた。すると、美樹ちゃんは顔を真っ赤にしてうつむいた。

「ごめんなさい。迷惑でしたよね」

「そ、そんなことはないけど……。どうして急にぼくの家に来ようなんて考えたのかなって思って」

「それは……あの……ギターを教えてほしいなあって思ったからで……ご、ごめんなさぁ~いっ!」

そう言うなり、美樹ちゃんは部屋を出て行ってしまった。残されたぼくは呆然とするしかなかった。いったいどういうことなのか理解できなかったのだ。まさかギターを教えるために家まで来るとは思わなかった。でも、考えてみれば当然のことかもしれない。ぼくたちは仲良しなんだ。だから遠慮する必要などない。それにしても……美樹ちゃんの行動力はすごいな。

とりあえず、ぼくは玄関のドアを開けて彼女を捜そうとした。だが、その前にチャイムの音が聞こえた。ぼくは階段を駆け下りてインターホンに出た。

『わたしだよ』

「ああ、美樹ちゃんか。今、行くよ」

ぼくは急いで外へ出た。すると、そこには美樹ちゃんの姿があった。彼女はなぜか大きな紙袋を抱えていた。不思議に思いながら尋ねる。

「それって何が入っているの?」

「これですか? これはお土産のシュークリームです。お母さんが買ってきてくれたので、みんなで食べませんか」

「そうか……ありがとう。それじゃ、お邪魔させてもらうよ」

「はい。こちらこそ、よろしくお願いしまーす」

美樹ちゃんと一緒に家の中へ戻った。そのまま二階にある自分の部屋へと案内する。すると、美樹ちゃんは興味深そうな表情を浮かべて室内を眺め回し始めた。

「わあ、ここが先輩の部屋なんですねー」

「そんなに珍しい物はないと思うよ」

「いえいえ、とても綺麗にしてありますね。偉いなー」

美樹ちゃんは感心したように呟くと、ベッドの上に腰を下ろした。ぼくも彼女に倣って隣に座る。

「ところで、今日は何をする予定だったのかな」

「えっと、ギターを教わりたいなと思っていたんです。もちろん無理ならいいんですよ?」

「いや、大丈夫だと思う。でも、ギターを持ってきていないんだ。ちょっと待っててくれる?」

「はい、わかりました」

それから数分後。ぼくは自分の部屋に戻ってきた。そして、机の上に置いてあったエレキギターを手に取る。そして、再び階下へと向かうと、美樹ちゃんが嬉しそうな顔を見せた。

「あっ、それってもしかして……」

「うん、これがぼくの愛器だよ。名前はギブソン・レスポール。ぼくが初めて買った楽器だ」

「やっぱり! 私、一度でもいいから本物を弾いてみたかったんですよー」

「よかったら触ってみる?」

「はい、ぜひお願いしますっ!」

美樹ちゃんは目を輝かせながら言った。そんな彼女の期待に応えるべく、ぼくは彼女にレスポールを手渡した。

「どうぞ、弾いてみてよ」

「えっ、私がですか?」

「だって、美樹ちゃんのために持ってきたんだもの。さあ、どうぞ」

「えへへ、じゃあ、失礼して」

美樹ちゃんは少し恥ずかしそうにしながらも、しっかりとした手つきで弦に触れた。そして、ゆっくりと弾き始める。初心者らしく、演奏する姿はたどたどしい。

「うーん、難しいなぁ」

演奏を終えると、美樹ちゃんは困り果てたような顔をした。

「最初は誰でも下手なものだよ。少しずつ練習すれば上手くなるから安心して」

「はい、頑張ります」

「まずは簡単なコードから覚えていけばいいんじゃないかな」

「そうですよね。じゃあ、早速始めましょう!」

ぼくと美樹ちゃんは並んでギターの練習を始めた。しばらくはお互いにぎこちない演奏を続けたが、徐々にコツを覚えてきたのか、スムーズに指を動かすことができるようになってきた。そのうちに楽しくなってきたのか、二人でセッションを始めるようになった。ぼくたちは笑い合いながら、音楽という共通の趣味を楽しんだ。それはまさに夢の時間だった。ずっとこのまま時間が止まればいいのにと思ったほどだ。

ところが、楽しい時間はあっと言う間に過ぎてしまうものである。やがて日が暮れ始めた頃、美樹ちゃんは申し訳なさそうに頭を下げた。

「あの、もう帰らないといけなくて……。また明日も来ていいですか?」

「もちろん。ぼくの方からお願いしたいくらいだよ」

「ありがとうございます。じゃあ、私はこれで」

美樹ちゃんは再びぺこりと頭を下げると、玄関から出て行った。ぼくはその背中を見送った後で家に入った。

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