第12話「拈華微笑」

夫婦というものは、長年連れ添うと拈華微笑の仲になってくる。「拈華微笑」とは、口には出さず、心から心へと思いを伝えることという意味だ。そんな仲になれば、おたがいの心が手に取るようにわかるようになる。たとえば、「今ごろ彼は、テレビを見ながら、缶ビールを片手につまみを食べているだろうな」とか、「今日は仕事帰りが遅いはずだから、夕食を作ってあげようかなあ」などと思うのだ。するとそのとおりになり、「ああやっぱりね。私の考えていることがわかっていいねえ」などと、喜びを感じる。だがそれはけっしてテレパシーではない。心理学的には、「思いやりの行為や言動は、相手も同じように返してくれるという、期待と希望による効果」ということらしい。ところがこの心の通い合いは、「離婚原因」にもなる。

ある女性が友人と二人で、イタリアンレストランに行ったときのことだ。メニューに載っている料理の説明を読むうち、友人の顔が次第に曇り出した。

「どうしたの?」

心配そうに尋ねると、彼女はこう答えたという。

「こんなもの食べたら体に悪いよ」

そして友人の顔を見ると、

「あなただってそう思うでしょ? 私だけじゃないもん」

という表情を浮かべていたそうだ。彼女は敏感に反応して、

「うん、そうよね。あなたのいうとおりだと思うわ。だから私たちもうここで別れましょう」

といって店を飛び出してしまったという。これが「浮気発覚」の場合なら話は簡単だ。相手の男性を怒ればいいし、それで気が済むのなら、慰謝料を支払ってもらってもいいだろう。しかし友人の場合もそうであるが、それが「浮気でない場合」は大変だ。なぜならこの場合、「相手が自分のことを考えてくれているのか」という思い違いをしたことが原因になっているからだ。このケースでは、女性だけが一方的に損をしているわけで、男にしてみれば、「なんなんだ! こいつ」ということになるかもしれない。もちろん男の側から見れば、

「俺の考えを読み取ろうとしなかったくせに、なにをいうか!」

ということにもなるかもしれない。

さっき例にあげた女性の話でもそうであったように、女というのは、つね日頃から、男がどんな気持ちなのか察する力を身につけておくべきだろう。それができなければ、夫婦関係は長続きしない。とくに結婚している以上は、お互いの愛情を確認し合うためにも、言葉ではなく態度や仕草で示す努力が必要なのだ。「言わなくてもわかるでしょう」という考えは捨てなければならない。

また男にも責任はある。というのも男は、妻のほうから「私はあなたの考えを理解したいと思っていますよ」というサインを受け取っているかどうかによって、妻の愛を感じ取れるか否かが決まるからである。もし妻が夫の考えていることを理解しようとせず、「この人ったらいつも一人で勝手に決めちゃうんだから」と不満ばかり抱いているようなら、たとえ結婚したとしても、それは形ばかりのものでしかない。やがて妻は夫に不満を抱き、自分から去って行くことになるだろう。

このように考えると、「亭主元気で留守がいい」という言葉の意味がよく理解できる。つまり女房が家にいると、夫は家庭を顧みる暇もなく、忙しく動き回ることになるから、結果として妻にとって幸せだということなのだ。この意味において、「男は外で仕事をし、女は家で家事をする」という考え方には賛成できる。ただしこれはあくまでも理想であって、現実にはそううまくいかない場合が多いことも事実である。しかしそれもこれも、結局は男女の役割分担がハッキリしていないから起こる問題ではないかと思う。その点について、もっと真剣に考えてみてもいいのではないか。たとえば夫が働いて得たお金を、妻が家計に投入することで経済が成り立つということは否定できない事実だ。ならば主婦が働いて稼いだお金の一部を、妻が夫に与えることは理屈としておかしくないはずだ。だが実際にはそうはなっていない。なぜか? それは「女性は働くべきではない」という思想があるからではないだろうか。おそらく世間一般の男性はそう思っているに違いない。

だがこの考え方こそが、男女間の溝を深めている原因ではないのか。「働くのが当たり前」と思っている男性の価値観が、社会全体に行き渡っているため、必然的に女性が働きにくくなっているのである。実際、女性が家事に専念していても、世の中は一向に良くならない。むしろ悪化の一途を辿るばかりだ。その理由は簡単で、女性が社会に出て働かないため、収入が少ないからである。つまり女性の働きが悪いために、男性と同じだけ稼げていないのだから、社会の仕組みそのものに問題があるといえる。そしてこの構図こそ、男女差別の考え方と直結している。つまり、

「女性は男性より劣っている」

という意識が根付いているからだ。

……このような話をし続けてもきりがないので私の話をすると、私がゴルフを始めた理由は、ごく単純なものだ。

「ゴルフクラブを買ってやるから、練習場へ行ってボールを打ってみろ」

といった父親の誘いに乗って、半信半疑でやってみたのだが、すぐにはまってしまった。以来、現在まで十年以上も続けているのだから我ながら呆れてしまう。もっとも私の場合は、父親が趣味にしていたこともあって、「息子に教えてやるぞ」という思いが父親にあったからだろう。おかげで私は、ある程度まで上達することができた。ところが問題は母親だった。私に負けじと必死で練習をし、なんとプロ並みの腕になった。しかも驚くことに、その腕前を生かしてインストラクターの仕事をはじめたのだ。

「おい、お前もそっち側へ行くつもりか?」

思わず尋ねると、母親はこう答えたという。

「だってあなた一人じゃ心配だし、それにわたしのほうが上手いんだもの」

そしてある日のこと、父親は私に向かってこう言った。

「なあ、お父さんと一緒に行かないか? そうすれば、お母さんと二人で淋しい思いをしなくてすむし……」

こうして私と父親と母親の三人が、ゴルフ場へと出掛けることになった。すると、

「ねえねえ、お昼ご飯は何を食べるの?」

などと母親が尋ねてくる。それに対して、

「えっ、なにって……」

私は戸惑いながらも、自分の考えを口にした。

「あのさぁ、弁当でも買えばいいんじゃないかな」

しかし父親は即座に首を横に振り、

「バカだな、おまえは! そんなことをしたら、せっかくの楽しみが台無しじゃないか!」

「……はあ」

「だいたい食事っていうものはだね、自分で作ってこそ意味があるんだよ」

「……」

「わかったかい?」

「わかんねぇよ」

「なにぃ!」

「そもそもなんでオレが料理を作る必要があるんだ? いつも外食ばっかりで飽きてるくせにさ」

「うーん、そうだよな。でもたまには手料理を食べたいよな」

「ああ、まあそれはそうだけど」

「よし、決めた! 今度から夕食は、みんなで作ることにするぞ」

「はあっ!? またまた何を言ってんだよ。冗談じゃないぜ」

「いいや、本気だ」

「ちょっと待ってくれよ。それなら誰が飯を作ってくれるんだ?」

「もちろんおまえだよ」

「だから無理だって。仕事が忙しすぎるから」

「大丈夫だ。なんとかなる」

「なんとかって……」

「それより早く行くぞ」

「行くってどこへ?」

「決まってるだろう。スーパーだ」

「はいっ!?」

「ほら、ぐずぐずするんじゃない」

「ちょ、ちょっと、まだ心の準備が……」

「いいから来なさい」

「……わかりました」

「そうそう、素直が一番だ」

こうやって私と父親は、二人して母親に引っ張られて行った。

そして買い物を済ませ、家路についた。帰り道は、いつものように車の中で会話を楽しんだ。しかしこのときの私は、とても楽しい気分ではなかった。なぜなら、これから毎日のように、父親のために料理をしなければならないと思ったからだ。

そんな状況の中で出会ったのが今付き合っている彼女である。私はその女性と出会い、結婚した。するとほどなくして妊娠が発覚し、子供が生まれた。男の子だった。

その子供が三歳になったときのことだった。

「お父さんは?」

という息子の問いに、

「今日は用事があるから帰ってこないわよ」

と答えたのは妻であった。そして息子は妻の顔を見てから私の顔を見た。私は妻のほうを見ながら苦笑し、

「うん、そうだ」

とだけ言った。この瞬間、妻と私の思いはシンクロしていた。

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