第3話「映画館を出たところで」
フィクションだとわかっとぃても感情移入しやすい性分からか観劇では、よくもらい泣きする。特に恋愛物だと余計にだ。ただ、そんな自分には今一つ共感できぬ作品があるのも事実である。
「あ、あの……そろそろ手を離してもらえませんか?」
映画館を出たところで、隣の女の子からそんな声があがる。見れば彼女の細い手首を掴んだままになっていた。しかもその指先からは微かな震えすら伝わってくるではないか。やべぇ!俺ってば何やってんだ? 慌てて謝罪を口にすると彼女は小さく首を振った。
「大丈夫です。こちらこそすいませんでした」
ぺこりと頭を下げて応じる彼女だが、しかし顔色は冴えない。
どうにも様子がおかしいぞと意識してみれば、彼女が小脇に抱えたバッグもまた膨らんでいることに気付く。中身までは見えないけれど、恐らくはその中に財布でも入っているのだろう。そういえば今日、映画を観に行くと決めたときから少しだけ元気がなかったように思う。チケットを買う段になって急に口数が減ったような記憶もある。もしかすると財布を忘れてきたとか、そういう事情なのかもしれない。もしそうなら大変だ。財布がないなんて、それじゃあ電車賃だってタクシー代だって払えなくなるじゃないか。いや、待てよ……。
「君さ、お金持ってないんじゃない?」
「はい?」
「だから、お金だよ。いくら持っていないの?」
尋ねてみると彼女は小さく息を吸ってから答えた。
「三千円くらいですけど……」
おいおい、マジで困っているみたいじゃないですか。俺は胸中で呟くと同時に手を差し出した。
「これ使っていいよ」
手にしているのはクレジットカードだ。昨今はコンビニ決済ですら現金を使わずに済む世の中である。こんなもの一枚あれば事足りてしまう。
ところが相手は困惑した様子を見せた。
「いえ、それは悪いですよ」
遠慮するのはわかる。気持ちもよくわかる。けれど、ここで彼女にお金を借りたままというのは気分が悪いのだ。俺としても気が済まない。何よりこの場で彼女を放り出すような真似はできなかった。財布を持っていないということはつまり、それだけ切迫した状況にあるということなのだから。
「だったら後で返してくれればいいよ」
半ば押し付けるようにしてカードを渡せば彼女はようやく納得してくれたようだ。
「ありがとうございます」
深々とお辞儀をしてみせる。なんだか妙に律義な性格をしているらしい。それから二人は連れ立って駅を目指した。
道中、会話はなかった。お互いに黙ったまま歩き続けた。目的地には迷わず辿り着くことができた。改札を抜けてホームへと降り立つ。ちょうど電車が入ってきたところらしく、車内から溢れ出た乗客たちが雪崩のように押し寄せてきた。
「うわぁっ!?」
押し流されそうになったところで、咄嵯に手が伸びてくる。隣にいたはずの女の子が俺の腕にしがみついてきたのだ。なんとか踏ん張って堪えたものの、状況は改善していない。むしろ悪化の一途を辿るばかりだ。電車に乗り込んだことで人の密度が増したのが災いしていた。このままではじきに押し潰されてしまうに違いない。そんな危機感を抱いていると不意に腕が解放された。見れば彼女は既に俺の手から離れていて、人波を縫って前へ進もうとしている。どうやら上手く逃げおおせたらしい。
よかった、と安堵する一方で僅かな寂しさを覚える。もっと触れていたかったという欲求が鎌首をもたげてくる。我ながらなんとも女々しいことだと思うものの、やはり恋心というものは厄介なもので、理性だけで抑え込むのは難しいようだった。
俺は自分の頬を叩いて気合いを入れ直すと、彼女の後を追うようにして電車に乗った。目的の駅はすぐそこだ。
電車に揺られること数分、辿り着いたのは小さな駅のプラットホームだ。時刻は既に夜七時を回っていることもあって辺りはかなり暗い。見回したところ駅舎も随分と老朽化が進んでいるようで、まるで何十年も前からそこにあるような印象を受けた。
駅を出ると目の前にはロータリーがあった。バスとタクシー乗り場が併設されているだけの簡素なものだ。駅前にしてはあまり賑やかな雰囲気はない。ただ、道行く人々の表情だけは明るかった。恐らくはこの先に繁華街でもあるのだろう。俺たちはどちらからともなく足を踏み出し、そして、
「あの、本当にありがとうございました」
再び礼の言葉を告げられた。見れば彼女は俺の手元に視線を落としている。そこには先ほど渡したばかりのカードがあるはずだ。結局のところ彼女を助けることは叶わなかったわけだが、それでも無事に家まで帰り着けるのなら御の字だろう。
「気にしないでいいよ。それより、これからどうするつもり?」
「えっと、その……実は今日中にお金を用意しないといけなくて……」
なるほど、そういう事情なら仕方がない。けれど、そうなると今夜の宿を探す必要が出てくるのではないか。あるいはホテルか何かに泊まるしかないかもしれない。しかし、お金がないのだとしたら難しい話だろう。
「どこかあてはあるのかい? なければ、うちに来るといいよ」
そう提案すると彼女は驚いたように目を見開いた。
「そんな! 悪いです!」
「いやいや、全然悪くないよ。それにほら、うちなら部屋が余ってるしね。遠慮することないよ」
実際問題として、俺の部屋には空き室がいくつかある。一人暮らしを始めるときに家具類は全て運び出してしまったためだ。今となってはその判断が悔やまれる。まさかこんな形で役に立つとは思わなかった。
「でも、それじゃあ……」
躊躇いを見せる彼女に対して俺は笑みを向けてみせる。
「いいんだよ。俺は君の助けになりたいんだからさ」
「……」
「さぁ、行こうか。いつまでもここにいたって始まらない」
促すと彼女は小さく首肯して応じた。
「わかりました。お願いします」
「任せておきなさい」
自信たっぷりに言い切ってみせると、俺は彼女の手を取って歩き出した。
「うわー、凄いなぁ……」
部屋に通した途端、彼女は目を丸くした。室内の様子を一望すると感嘆の声を上げる。
「ここが先輩のお宅ですか」
「ま、実家に比べれば狭いけどね」
「そんなことないですよ」
「そうかな。俺にとっては十分すぎるくらいの広さだよ」
事実、一人で暮らしている身としては十分な広さだと思っている。
「それで、君はどんな感じの子なの?」
「どんなって言われても困りますけど……。とりあえず、これです」
そう言って彼女がバッグから取り出してきたのは写真付きの名刺だった。
「えぇと、声優事務所、『スタジオ・リリィ』所属……。君、もしかすると有名な人だったりする?」
尋ねてみると彼女は苦笑いを浮かべた。
「いえいえ、そこまで有名じゃないと思いますよ。せいぜい名前を知っている人が何人かいる程度じゃないかと」
「そっか」
「はい。ただ、お仕事の方ではお世話になっています」
「なるほどね」
確かに彼女の容姿はとても整っている。この若さでこれだけ綺麗なのだから、きっとそれなりに人気のある子なんだろう。
「ちなみに年齢はいくつになるの?」
「十七歳になります」
「ふむ」
思っていたよりも若い。とはいえ、年齢なんてものは人によって違うものなので、あまり参考にはならないが。
「えっと、一応、私も声優をやらせていただいています。まだデビューしたばかりですけど、そこそこ名前が売れてきたと思っています。最近は『ル・レ・ライブ!』というアニメに出させていただいていて、主人公の妹役を演じさせてもらいました」
「あぁ、あの女の子たちが歌って踊る系のアニメだっけ?」
確かアニメ化するという話を聞いていて、その時に一度視聴しているはずだ。
「はい、そうです」
「で、その主人公の妹が君の演じてるキャラクターなんだよね」
「そうなんです。だからこうして今日も収録現場に行ってきたところです」
「なるほど。それで帰りが遅くなったわけだ」
「はい」
「事情はわかったよ。ところで、どうしてお金が必要だったのか聞いてもいいかい?」
単刀直入に尋ねると、彼女は気まずげに顔を背けた。
「それは……ちょっと言えないです」
「どうしても駄目かな? 理由によっては力になれると思うんだけど」
「……」
「もちろん無理にとは言わない。でも、もし君が嫌でなければ教えて欲しい。君の力になりたいんだ」
真摯に訴えると彼女はゆっくりとこちらを見た。そして、しばらく悩んだ末に口を開く。
「実は私、とある男性とお付き合いをしているんです」
「へぇ、そうなんだ」
「はい。でも、その人には他に好きな女性がいるみたいで、なかなか上手くいかないみたいなんですよ。それで、どうすればいいのか悩んでしまって」
「なるほどねぇ」
「すみません、急にこんなことを言ってしまって」
「いいんだよ。むしろ話してくれてありがとう」
「いえ……」
彼女は小さく頭を下げると、再び視線を落とした。
「私はただの高校生で、相手の方が社会に出ている以上、どうしても埋められない差があります。だから、私が何をしたって無駄なのかなって……」
彼女の声は次第に弱々しくなっていく。表情にも暗い影が落ちていった。俺はそんな彼女に向かって言葉を紡ぐ。
「君は本当に優しい子だね」
「え……?」
「きっと君は自分が傷つくことが怖いんじゃないかな。自分のせいで相手に迷惑をかけてしまうのが申し訳ない。そんな風に思っているんじゃないかい?」
図星だったようで、彼女の顔はみるみると青ざめていく。まるで自らの心を暴かれたかのように、怯えた瞳が俺を見つめている。俺はそんな彼女に優しく語りかけた。
「でもね、人は誰だって失敗する生き物だ。失敗したからといって何もかも諦める必要はないんだよ」
「失敗しても、いいんですか?」
「あぁ、いいんだよ。君はまだ学生さんだろう。なら、これからいくらでもやり直すことができるさ」
「やり直し……」
彼女は噛み締めるように呟くと、胸の前で両手を握りしめた。
「わかりました!先輩の言う通りですね!」
一転して明るい笑みを見せると、彼女は勢いよく立ち上がった。そのままテーブルを回り込んでくると正面に座ったままの俺の手を取る。
「先輩のおかげで勇気が出ました。本当にありがとうございます!」
「そう言ってくれて嬉しいよ」
「先輩って、とても頼りがいのある方なんですね」
「まぁ、これでも大人だからね」
冗談交じりに答えると、彼女も楽しげな笑い声を上げた。
「ふふっ、やっぱり頼れる大人の男性って素敵だと思います」
「そ、そうかな」
「はい。私もいつかそんな風になれたらなぁって思います」
翌朝彼女は元気よく外へ飛び出した。
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