劣情
燦々東里
劣情
彼にとって何より確かなのは、彼女への愛、それだけだったのだ。だからこそ彼は彼女への愛を抱え、守り、慈しんだ。ゆえに彼女のその言葉は彼の心を深く傷つけたのだ。その時の彼の表情と言ったら、誰にも語ることはできないものだった!
彼はそれきり笑顔と言うものを失ってしまったようだった。彼の表情は銅像のように固まり、眉の間には深いしわが刻まれた。
一方で彼女は、彼の失われた笑顔を食べたかのようにいつも笑っていた。その笑顔に憤りを感じなかったかと言われれば、否と答えるほかないだろう。なぜなら私は彼の友人であったからだ。何より彼が大切であったのだ。だからこそ私は、あんな行為を決意した。それは何よりも彼が大切で、誰よりも彼が大切だったから。ただそれだけだったのだ。
ただそれだけだったのだと、私は信じている。否、信じたいのかもしれない。
端的に述べてしまえば、私は彼女を殺した。彼を愛さない彼女など、彼を不幸せにする彼女など、必要ないとそう思ったからだ。彼女の返り血を浴びて赤く染まった手とナイフを持ち、私は彼に会いに行った。褒められると当然のように思っていた。あの時の私は達成感と快感に満ち満ちていて、自分の行為は正しさしか持っていないと思っていたのだ。彼のために行動できた。彼のためになった。だから彼に手をはたかれたとき、何も考えられなくなった。
彼はまず驚いた。何があったのかと。私はいきさつを得意げに話した。すると彼は泣いた。固まった表情のままひたすら涙を零した。彼が笑顔を失ってから、初めて見せた感情だった。伸ばした私の手は拒否された。はじかれた。その痛みは手から鎖骨へ、鎖骨から胸骨へ、胸骨から心臓へと、深く深く響いた。
私はひたすら彼を見つめた。彼女は彼を傷つけた。だから彼は感情を失った。それほどに辛かった。そのはずではなかったのか? そうでなければ彼の固まった表情筋は何を物語っている? わからない。だが私の行動が彼のお気に召さなかったのは確かだ。それは困惑以上の感情、深い絶望を私に残した。絶望は私の胸を深く穿った。
君は馬鹿な男だ。彼はそう言った。その言葉は、彼と私の合言葉のようなものだった。彼は早まる私をたしなめては、いつもその言葉を放った。私にとってその言葉は、彼が私をいつまでも見捨てない証であったし、彼が私とのやり取りを楽しんでいる証であった。しかし今回ばかりは違ったのだ。それがしかと私にはわかった。
そして彼は語り始めた。なぜ彼女は彼の愛を裏切ったのか。なぜ笑顔を失ったのか。言ってしまえば彼には仏頂面の魔法が、彼女には笑顔の魔法がかかったということだ。彼女と彼は別れなければ二人とも死ぬ。別れたら別れたでそれぞれ特定の表情しか表に出せなくなる。そして片方が一方的に誰かと結ばれたら二人とも死ぬ。片方が亡くなれば残された方も、死ぬ。
彼は語った。最後までしっかりと語った。別れたことに悔いはないと。それでお互いが生きていけるなら、それだけで幸せなのだと。私は憤った。そんな魔法をかけたのは誰だ。ただの呪いではないか。そんな私の顔を彼はなお仏頂面で見つめていた。その瞳に描かれた感情は、懐かしさを伴っていた。
そして彼は小さく言ったのだ。この魔法をかけた人はただ愛を注いでくれているだけ。責めないでくれと。
訳が分からなかった。彼をここまで追い詰める人間をなぜ彼は擁護するのだ。その人間を問い詰めて懲らしめてやる。一人も二人も変わらない。彼を救えるなら何でもよい。私は彼に重ねて尋ねようとした。だが彼はもう手遅れだった。切れ切れの息。立っているのもやっとの様子。そう気づいた瞬間に、彼はその場に頽れた。
君は馬鹿な男だ。
彼は笑った。笑って、言った。そこには私への愛情、私への欲望、私への恨み、私への好意。正も負も何もかも含まれていた。
ああ、思い出してしまった。
言葉と同時にこと切れた彼の手を握りしめた。まだ温かい。私が初めて感じた彼の熱だ。私が、私が、初めて大切に思って、守ろうとして、そして、そしてそして、殺してしまった……そう、殺してしまった、男の熱だ。
何が魔法だろう。何が責めないでくれだろう。なぜ彼女も彼も苦しめた私に、優しくできたのだろう。魔法ではない。呪いだ。私がかけたのはまさしく呪いだ。それで彼を殺してしまった。彼女も殺した。ああ、殺した。
そうして何が残った? 私は何がしたかった? 彼女から彼を奪いたかった? 彼には一人でいて欲しかった? ただ二人を苦しめたかった? わからない。
「僕は馬鹿な男だ」
血に濡れた僕。血に濡れた彼。紅い。紅くて、眩しい。それが僕の罪状を、僕の生き方を、訥々と示していたのだ。
劣情 燦々東里 @iriacvc64
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