第16話 自動販売機
「アキ、最近君にそっけない先輩がご帰還だよ」
カルはふざけて言った。僕は慌ててしまうがアキは平気な顔をしている。
「先輩とカル先輩、おかえりです」
カルは僕を指して言う。
「最近冷たかったからお詫びにコーヒー奢るってさ。ありがたく受け取って」
「お気持ちだけで嬉しいですけど、せっかくなのでいただきます」
「いやいや、大したものじゃないけれど」
「カル、勝手に僕に奢らせて、勝手に謙遜しないでくれる?」
僕の抗議を軽やかに無視して、カルは椅子に座った。
高校の部室。アキとカルと僕だけしかいない、新聞部の部活だった。
「じゃあ先輩、カル先輩もああいっていることだし、下の自動販売機でなにか飲み物、買ってください」
「……了解。カルは何かいる?」
「私はいいよ、ありがとう」
ふう、とため息にならないように息をして、僕はアキに声をかける。
「じゃあ、行こうか」
自動販売機の前にはちょっとしたベンチが置いてあるが、あまりにボロボロだし、何より長年の汚れの蓄積で元が何色だったか判然としないので、座るのを諦めた。アキもさすがにこのベンチには座りたくないらしい。
僕はアキにカフェオレを買うことになった。見た目からは甘いものが苦手そうな印象を受けるけれど、案外そうでもないらしい。
カフェオレに口を付けながら、アキは言った。
「それで、カル先輩が何か言ってたんですか?」
相変わらず鋭い奴だ。嘘を無駄につくのは得意じゃないので、僕は正直に言う。
「僕が最近冷たいってアキに思われているって。だからコーヒーの一つでも奢ることにしたんだよ」
僕は缶コーヒーを買った。特に好きというわけではないのだが、カルがよく飲むから、影響されてしまった。
アキは僕が缶のプルタブを開ける様子を見ながら言った。
「ふうん。一応気にかけてくれるんですね、先輩。自分にしか興味がなさそうなのに」
「カルにも似たこと言われたよ」
「先輩は変に冷たい感じなのに、なぜか人望がありますよね」
「なにそれ」
「だって、いつも人に囲まれているじゃないですか。それって人望があるってことでしょ」
「そうかもね」
僕はあいまいにうなずいた。人望か。だけれど、それって本当に僕の人望なんだろうか。僕の人間関係と本当に言えるんだろうか。そう言うには僕はあまりに誰にも関心が薄い気がする。あまりにも、誰かのための僕ではない気がする。
「アキはどうなの?」
「人望ですか?」
「僕はあんまり、誰かのために何かしよう、って思わないんだ。それってさ、人望があるって言えないでしょ?人間関係は相互作用だから」
「なるほどです。まあ、先輩って、あんまり自覚ないですもんね」
「ん?」
「だから、自分にしか興味なさそうなくせに、案外優しいってことです。今だって、こうやってコーヒーおごってくれてるでしょう?」
僕はため息をつけばいいのか迷ったが、お褒めの言葉はありがたくいただくことにした。
「まあ、ありがとう」
「どういたしまして、です」
「でも、さっきの質問忘れてない?」
「なんでしたっけ?」
「アキの人望の話。アキは自覚あるの?」
ふむ、と考えてアキは言った。
「人望ですか……まあ、私になくてもいいんですよね。先輩とカル先輩に人望があれば、私は、というか、なんというか」
彼女は少しだけ、不敵な笑みを浮かべた。
「私が好きな人達に私からの人望を与える、のがいいですね。私は」
そして、まるで、いたずらっ子みたいに言う。
「選ばれるより、選ぶ方がすきなので」
思わず僕も笑みをこぼした。
「アキらしい。カッコいいね」
アキは調子に乗って、元の色が分からなくなったベンチに足をかけた。
「でしょ?」
そうやってふざけながら、アキは校舎の方を見上げた。今、カルがいる部室の方向だった。
僕はふとした出来心で、アキに訊いた。
「アキって、カルみたいになりたいんじゃない?」
アキは校舎を見つめたまま、ほんの少しだけ不思議そうに首をかしげた。
「どうしてそう思うんです?」
「だって、いつもカルの方ばかり見ているよ。今だって」
アキは校舎を見つめたまま、小さく「なるほど」と言った。
「たぶん、それ、先輩ですよ」
「え?」
「カル先輩になりたいの、多分、先輩ですよ」
アキはベンチから足をおろして、持っていたカフェオレの残りを飲んだ。それでも視線は校舎を向いたままだ。
「私は確かにカル先輩に憧れがあるかもしれませんけど、さすがにカル先輩と全く同じようになりたいわけじゃないですよ。憧れてるからこそ、カル先輩と違う部分を育てようというか、そんな感じです」
「そうなんだ」
「でも先輩は、本当にカル先輩になりたいんですね。そうじゃなかったら、私にそんな質問しませんもん。思いつきすらしないですよ」
僕もアキと同じように校舎の方を見上げた。部室の窓は見えるけれど、カルの姿はここからでは分からなかった。
アキが無邪気に言った。
「先輩って、本当にカル先輩のこと好きなんですね」
ただ、好きなだけなら良かった、と今では心からそう思う。
〇
今ならほんの少しだけ、カルの気持ちが理解できる。
僕はカルを見ようとせず、彼女に自分を投影していた。
厳密には、自分の理想をカルに写していた。
中立であろうとするところ。
集団に属さないようにするところ。
なんでも無い事のように人に親切にしようとするところ。
しゃべり方。
人との関わり方。
考え方。
それら全部をカルの中に見ようとしていた。
本当は、全部僕が負うべきものなのに。
多分、カルは気付いていたのだろう。
僕が彼女に理想を見て、それになろうとしていたこと。
そして、それが故に、僕がカルをちゃんと見ていなかったこと。
彼女が変わったのは、そんな僕の目に耐えられなかったからかもしれない。
いや、もしかしたら、彼女自身が変わりたかっただけかもしれない。
彼女は言っていた。自分が弱いと。
彼女の弱さやそれに向き合う強さ。
それを手に入れたかったのだろうか。
僕はそんな当たり前で、誠実な人間の感情をも、カルの中から取り去っていた。
昔の小説家によると、鼻先にあるものを見るには絶え間ない奮闘が必要、らしい。
まったくもってその通りだ。
こんなに近くにいたのに、何一つ分かっていなかったんだ。
全くもって、自分にはあきれる。
これから、一体どうしたらいいのだろう。
僕はカルと、どんなふうに関わればいいのだろう。
あるいは。
もう関わるべきではないのだろうか。
これから、一体どうしたらいいのだろう。
これから。
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