第14話 切符
それから一年間、アキに不意打ちをされるまで、僕はカルと会っていなかった。カルになんて言えばいいのか、ずっと考えて、それでも分からずじまいだった。
オレンジに沈んだ、あの日の事務所が僕の脳裏から離れなかった。彼女の心をずっと想像し続けた。それでもどうしても、彼女が何を思っていたのかは分からない。
僕は自分の持つ心理学の知識を総動員しようとして、何を観察したかを思い出そうとした。そして、はたと気がついた。僕はあの日、あの事務所で、カルからずっと目を背けていたじゃないか。僕は自分が自負して、仕事に役立てようとすらした心理学の知見を、そもそもカルに対して使ってなかったことに気がついた。人を観察して、その心情を理解できると思っていた。その、なんと難しくて、高慢なことだろうか。僕は彼女を見てすらいなかったというのに。
カルが去った事務所。僕はそこに佇んでいた。その後、アイリの件について、僕はなんとか、そのフォローをしようと努めた。彼女の両親に連絡した時、彼らは僕らこそがアイリの自殺の原因では無いかと言った。結局、警察を通して事情を説明してもらうことにした。
そして何より僕らの依頼人はカミキタ サトコだったので、彼女がショックを受けていないか、そして僕らが請け負った事案を解決できなかったことについて詫びるために会いに行った。アキは僕と一緒に着いてきてくれたが、カルは来なかった。一緒に来てくれないかメールを送ったが、彼女からの返信はなかった。後からサトコから聞いたが、カルは事件が起こって数日も経たないうちに、サトコに謝りにきたそうだ。
そうこうしている内に季節は過ぎて行った。僕は修士号を取った後、「探偵」の仕事をそのまま継続した。アイリの件では失敗したにもかかわらず、何故か定期的に依頼が来た。幸か不幸か、微妙なところだ。お陰で真っ当な職に就く機会を逃してしまったとも言える。
アキは博士課程に行く計画を立ててたので、研究が忙しくなってきた。それでも、僕とアキは時々会って馬鹿話をしたりした。
カルは修士を卒業した後、都内のメーカーの技術職に就職した。住む場所は少し離れていたけれど、それでも問題なく会いに行ける距離だ。カルがいるのは、僕がよく使う最寄駅から、1140円の距離だった。僕が電車に乗ろうとして、結局別の駅に降りてしまうというのを繰り返すようになった。そのうちアキが研究で忙しいだろうに、僕について来るようになった。彼女の提案で、途中の駅で手軽に降りれないように、ICカードを使わず、切符を買うようになった。
それでも、僕は1140円の切符の先にいる彼女に会えずにいた。
◯
季節外れの香りがした。冷たい空気とそれに似つかわしくない華やかな香り。
すぐに思い当たった。それは金木犀の香りだった。
駅のプラットホームに立っているといつも似たような景色が待っていて、今日も同じ匂いを嗅ぐ。
こうして何度ここに来て、迷った挙句、引き返したのだろうか?
僕は金木犀が嫌いだった。いや、正確に言うと嫌おうとして、まだ、嫌いになれないのだ。
カルが好きな匂いだった。だから嫌いになろうとした。
ラショナルな理由ではない。ずっと曖昧模糊な言い訳を繰り返している。そういう意味では、僕は寛容になった。だけれどそれは、自分が何も決めることができない証左のようだ。
今日も1140円の切符を握りしめていた。多分、今日もこの切符を払い戻して帰ることになるのだろう。
カンカンカン、と音がした。
通過列車が駅を通り抜ける。後から追ってくる風はとても凶暴で、その凶暴な風に、この空気を変えてくれることを期待した。何かのキッカケがあるかも知れない。そうだ、今まではただ、キッカケがなかっただけだ。
そんなふうに思った僕の気持ちと裏腹に、金木犀の香りは相変わらずそこに居続けた。
馬鹿げている。そう思った。そう思って駅の改札まで引き返すことにした。何度目だろうか?多分、駅員はいつも切符を買っては払い戻す僕を、そろそろ不審に思っているに違いない。
僕は振り返って、歩き出そうとした。でも、振り返りざまに、ホームのベンチに足をかけてしまい、よろけた。そのまま体勢を崩して、ホームの上に転んでしまった。
うつ伏せの姿勢になりながら、周りを見渡す。幸い、駅のホームには誰もいないようだった。だいぶ間抜けな転び方だったから、人に見られなくて良かった。
僕は起きあがろうとした。だけれど、途中で嫌になってしまった。誰もいないのに、起きあがろうした時にまた躓いたようなフリをして、今度は仰向けになった。くすんだ茶色と空の青色が見えた。
不意に、目尻から耳に、水滴が流れていくのを感じた。涙だった。
僕はあの日の僕がカルに抱いた失望と、その失望を彼女に向けたことを思い出した。自分に同情するなんて、カルらしくない、卑怯なことだと思った。
それが、今はどうだろう。僕だって同じことをしている。こんな気持ちに抱かれていたら、一人で起き上がるなんて出来やしないじゃないか。
「なんだよ…それなら言ってくれ…こんな風に思ってたなんて、分からなかったよ」
僕が卑怯なことを言っているのは分かっていた。あの日のカルを見て見ぬフリをしたのは、他ならぬ僕なのだ。
カルは、アイリを助けられなかったことに傷付いた。その気持ちは自己憐憫だけじゃなかった。それなのに僕はそれを理解せず、彼女に失望を向けてしまった。おそらくカルも僕に失望したのだろう。何一つ理解すらしてくれない僕のことを。
自分のせいで他人を傷付けてしまったこと、大切だと思っている人間に失望されること、そこからどうしても立ち上がる勇気が出ないこと。本当は、あの日の僕はどうしたらよかったんだろうか。このまま分からずじまいになって、いいんだろうか。
倒れている僕に誰かが気がついたようだった。駅員の一人が寄ってきて、慌てたように僕に声をかけた。
「大丈夫ですか?起き上がれますか?」
こんな風に倒れていたら当然、慌てもするだろう。僕は申し訳ない気持ちになりながら、起きあがろうとした。
でも、一人では起き上がれないと思った。僕は馬鹿みたいだけれど、彼にこう言った。
「すみません、起きられないです。起こすの手伝ってください」
突然こんな風に言われても、駅員の彼は丁寧に僕を起こして、ベンチに座らせた。
「体調はどうですか?救急車を呼びましょうか?」
「いいえ、大丈夫です。ありがとうございます」
駅員は、もちろん職務もあるだろうが、本当に心配してくれているようだ。よく見たら若く見える。もしかしたら僕より年下かも知れない。
しっかり受け答えを出来ている様子をみて、彼は僕がそこまで重篤な症状のせいで転んだ訳ではないと判断したようだった。彼は訊いた。
「どこかに行く途中ですか?もしお家が近くなら帰った方がいいのでは?料金は払い戻しますよ」
「そうですね…」
僕は握っていた切符を駅員に手渡そうかと思った。
カンカンカン。
近くの踏切の音がした。1140円の切符の駅につながる電車が近づいているのが分かった。金木犀の香りはまだ、ここにあった。振り切るために、この電車に乗る。そんな理由でもいいのかも知れないと思った。
僕はベンチから立ち上がって、駅員の彼に言った。
「すみません、ありがとうございます。でも、この電車に乗らなきゃいけないんです」
その香りが、少しだけ遠のいた。
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