第12話 現場
大学のカフェテリアで、僕はホットコーヒーを飲んでいた。何も無為に時間を潰したいわけではなかったのだけれど、待ち人が遅れているのだから仕方ない。現代人よろしくネットの海に漂って暇を潰せばいいのかもしれないが、どうにも心が痩せ細るような気がしてならない。だからといってコーヒーの水面を眺めるよりはずっと有意義だと思うけれど。
しばらく黒い水面の揺れ具合を観察していたが、隣の席に誰かが座るのに気がついて、そちらに視線を向ける。
「先輩、なんでずっとコーヒーを見つめているんですか?友達とかいないんです?」
「最近、手に余る案件を抱えてて心身を落ち着けたくてね。それとコーヒーを見つめる時間をくれた張本人に理由を問われるのは折角整えた精神にくるんだけれど」
僕はアキの軽口に応じながらコーヒーをすすった。アキは意外にも素直に言った。
「すみません、ちょっと研究室のミーティングが長引いて遅れました」
「そうなんだ、研究は大丈夫?」
アキは行動経済学のデータ解析に基づくモデル作りを行ってる。見かけによらない才女なので、研究の進捗はいいのではと思っていたが、ミーティングが長引いたということは、どこかで詰まってるのかもしれない。
僕の質問にアキは答えた。
「順調といえばそうかもなんですけど、本当にこれでいいのかな、とかは思ってて。まあ、そんな理由で先生に相談してました」
「先生はなんて?」
「君は優秀だから、そのままでいいって。でも、本当にこの研究は正しく進んでるのかなって」
「アキでもそんなふうに思うんだ」
「思いますよ。毎日が不安とのバトルです」
「そんな日常はごめんこうむるね」
「でも、あたう限りの誠実さを以って、疑いとバランスする日々はなかなかいいものですよ。実は悪くないと思ってます」
「向き不向きはありそうだと思うけれど、アキがそんなふうにしてるのは楽しそうだ」
アキは口元を緩めながら、少し俯いた。
「カル先輩の影響ですね、きっと」
僕は思わず黙ってしまった。アキは続ける。
「よく、私、先輩に言うじゃないですか。カル先輩が少し変わったこと、見守っててあげましょうって。でも、本当は私もどうしてカル先輩が変わっちゃったのかなって、思っちゃうんです」
僕はその答えを持っていなかった。
「なんでだろうね」
「ほんの少しなんですけどね、カル先輩が変わった部分って。言い表すの、難しいですけど」
「僕は昔より型にはまったって感じたよ。昔のカルは公平で、思慮深くて、集団に属するのをよしとしなかったところがあった」
「そうですね、昔はもっと中立な感じでしたね」
「今のカルはもっと…」
僕はなんて言ったものか迷った。アキはピンときた、みたいな顔をして言った。
「今のカル先輩は、人間らしくなりましたね」
「人間ね…」
「やっぱり、カル先輩は変わってよかったのかもしれませんよ?」
僕はアキに顔を向けた。彼女は少し遠くを見ていた。
「だって私たち、カル先輩に理想を押し付けてただけじゃないですか」
なんとなく、僕はアキが見ている方を向いた。ただ、窓の外にキャンパスの芝生が見えるだけだった。
◯
僕は気を取り直してアキに言った。
「とりあえず近々の案件について話し合おうか。さっき依頼主のサトコと話してきた」
「ようやく話せたんですね、どうでしたか?」
初めて電話を受けて以来、カルの携帯電話にはほとんど毎日アイリからの着信があった。カルは辟易としていたかも知れないが、それでも毎日アイリの電話に対応していた。僕はサトコを通じてアイリの両親に連絡を試みたが、うまくいかなかった。彼女はアイリの家族の連絡先など知らないという。
仕方ないのでサトコから大学に問い合わせてもらった。流石に僕から問い合わせるのは説明が難しい。アイリさんの問題について友人のサトコさんから依頼をうけた者です、という説明で大学の学生担当が個人情報を漏らすとは思えない。
結局、サトコがアイリの同級生であり、友人であることを説明し、彼女の実家の連絡先を得る事に成功した。その際、大学のメンタルケアの担当にも話をすることになったが、本人に直接来てもらわないとどうしようもないとのことだった。それはそうだとは思うが、もう少し親身に対応してもらいたいと思ってしまった。
だが、これは他人の仕事だから言えることだ。現にカルがアイリから厄介な電話を受けていることに対しては、これ以上親身になることはない、と思う。
僕はアキに、アイリの両親と連絡が取れたことを説明した。
「ご両親はなんて言ってたんですか?」
「それが、どうやらアイリの現状を受け入れてくれていないようなんだ」
「受け入れていない?」
「サトコに電話をかけてもらったんだけれど、うちの娘に問題があるわけがない、本当にあなたは友人なのか、とかなんとか言って聞き入れてくれない」
「困りましたね…」
「現状、サトコも元友達のよしみでアイリの相手をしている、みたいな意識のようなんだ」
「…まあ、気持ちは判りますけどね。友達とはいえ、ただの同級生のことで私たちに費用まで支払って解決を依頼して、おまけにご両親にまで報告したんですから、十分だと思っちゃいますよ」
そのため、現状でアイリに直接向き合っているのはカル一人ということになる。
「カル先輩はこの前、アイリさんに呼び出されてましたよね」
「そうだね。カルを心の支えにしている感じだ」
「慎重に扱わなきゃいけない案件だとしても、カル先輩の負担が大きすぎますね。何とかしなきゃいけません」
「確かに」
僕はアキに同意しながらも、なんとなく、最近は昔のカルに戻ってきているようで少し嬉しく思っていた。誰かの為に公平さをもって、思慮深さをもって、優しさを持つ。それが昔のカルだった。
確かに、アキが言っていたように僕はカルに理想を押し付けているのかもしれない。だが、ある人間を尊敬したり、目標にしたりすることはそんなに悪いことじゃないはずだろう。
「アイリさんの様子はカル先輩から聞いてますか」
「相変わらず、アイリは自分の話ばかりで、周りの人を敵対視しているみたいだ」
「自傷の心配は?」
「カルはアイリが落ち着いている、と言っていたから問題はないと思う」
アキは僕の返答を聞くと、少しだけうつむいて逡巡した後、こう言った。
「カル先輩が言うなら間違いないかもしれませんね」
多分、そのときすでにアキは何かを嗅ぎ取っていたのかもしれない。だが彼女自身にも、ましてや僕にもそれはつかめないまま、事態は進んでいった。
〇
アキは研究室にて作業が残っているらしい。僕は一人で事務所に戻った。雑居ビルの廊下にオレンジ色の夕日が差しているのが見えた。廊下に窓はない。どこかの部屋のドアが開いていて、その部屋の窓から夕日が差し込んでいるのだろう。
僕は、自分たちの事務所の扉が少し開いているのに気が付いた。不思議に思い、扉に手をかけて事務所の中を見る。中には夕日に照らされた人影が見えた。後ろ姿が夕日の影になっている。その影は外をしばらく見つめていた。
そこにはカルが立っていた。カルは僕に気づくと、少し微笑んだ。弱々しい笑みだった。
「あら、こんにちは」
「カル…どうしたの?」
カルはより一層笑みを浮かべた。僕には彼女が泣き出しそうに見えた。
「失敗したの」
僕はカルの正面に立った。夕日の陰になっていた彼女の姿が今、ようやく見えた。
彼女はプレップな恰好をしており、トップスは白いブラウスだった。そこにはオレンジ色の夕日が模様を作っていた。
ややあって、その模様が夕日だけで描かれているわけではないことに気が付いた。そこには、赤黒い、大きなシミのようなものがあった。
「カル…?」
カルは何も答えず、僕の方をじっと見ていた。さっきまであった笑みはいつの間にか消えていた。
カルは突然崩れ落ちた。僕はカルに駆け寄った。彼女の嗚咽が聞こえた。僕は床に崩れ落ちそうな彼女を支えようとした。僕のシャツが生暖かく湿るのを感じた。
僕はもう一度聞いた。
「何があったの?」
ついにカルは子供みたいに泣き出した。カルは一言だけ、僕の質問に答えようとした。
「アイリさんが…」
その一言で、僕は最悪の事態が起こったことを悟った。
カルは泣き止まなかった。
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