第9話 面会
「あなた達が来た理由、私分かるわよ。私のこと、おかしいって思っているんでしょ?サトコの入れ知恵ね。余計なお世話よ、私がどんな人間か知らないくせに。パパも、ママも、同じように私を責めたわ。私は悪くないのに。あなた達も私を責めるんでしょ?あんた達はどうせサトコから私のありもしないイカレ話を聞かされたんでしょうけどね…」
目の前の彼女は僕らと顔を合わすや、十五分くらいずっとこの調子でしゃべり続けていた。立て板に水という慣用句が思い出されたけれど、その水をポンプで吸い上げて繰り返し板に流しかけているようだった。つまり、彼女はずっと同じ単語を使いまわして、ほとんど中身がないことを繰り返ししゃべっていた。要約すれば「周りの人間は私のことを責めるけど、私は被害者」というものだ。彼女が何をして、何故責められたのか、どうして彼女が被害者なのか、そのすべては謎のまま彼女はしゃべっていた。
僕らが面会の場所に選んだのは、大学の近くにあったファミリーレストランだった。僕は面会場所を大学のカフェテリアにしなくて正解だったと思った。彼女の主張の是非はともかくとして、この騒がしい女性と一緒にいるところを同じ研究科の学生や先生に見られたくなかったからだ。
僕は隣の席にいるカルに目配せした。カルはアイリに話しかけた。
「突然で驚かせてしまったね、ごめんなさい。ただ、カミキタさんがあなたのこと心配していたから、話を聞いてあげてほしいと頼まれたの」
「サトコはどうせ私の悪口を言ってたんでしょう?」
「そんなこと言ってないよ。クラタさんのこと心配してた」
「私のことなんて…」
アイリはそう言いつつもカルの言葉に少しだけ態度を軟化させているように思えた。カルは僕よりずいぶん冷静に見えた。僕が話すより、このままカルに任せた方がいいだろう。
カルが話している間、僕はアイリを観察する。手入れをあまりしていないであろう、伸び放題の長い黒髪に長い爪。服装はかわいらしいブラウスにスカートだったが、所々シワが付いている。足元にも視線を向けたが、黒い皮のローファーには汚れがついていた。顔は美形と言ってもいいぐらいに整っており、化粧もしていたが、ほかの部分への無頓着さが、かえってアイリの無精を際立たせており、精神的な安定を欠くような印象を与えていた。
彼女はカルに対し、ほとんどずっと泣き言と恨み言を足して二で割ったような言葉を吐いていた。なかなか聞くに堪えない戯言ではあるが、それでも仕事と割り切り分析を試みる。彼女の主語はずっと「私」だし、もっと言えば「かわいそうな私」だ。誰彼構わずアイリに対して悪意を持ち、陥れようとしているという被害者意識を持っている。
しばらく問答があったが、結局カルが最後に話をまとめた。
「もし、何か力になれることがあったら、教えてね。とにかく、今度もう一度お話しましょう、ね?」
アイリは曖昧にうなずいた。
僕はアイリが危険な状態だという判断を見送った。すぐに心理学のモデルに当てはめるのは危険だが、それでも僕はいくつかあたりを付けた。話している感じでは、確かにかなり感情的になってはいるが、度が過ぎて自分を責めているわけではなさそうだし、支離滅裂な会話というわけでもない。差し当たって、早急に心療内科等の専門機関にいく必要はなさそうだと判断した。
今になって思えば僕は大きく判断を誤っていたわけだ。やはりそれは間抜けと言わざるを得ない。学士を卒業していたとは言え、僕は生兵法を試すべきではなかったのだ。なぜなら、第一に気にするべき事項を見落としていたからだ。精神的な問題を抱えている人を相手にするときに、一番に確認しなければならない、自傷他害の可能性を。
彼女は、シワが入っていたブラウスで左手首の位置のいくつもの筋のような傷を隠していた。その時僕はそれに気が付かなかった。
〇
前に研究室でアキと話し合った数日後、カルをもう一度この件に誘った。カルはやはり渋ったけれど、僕はこの仕事にはカルが必要だという事を何度も強調して、結局カルは参加を決めた。その時カルは、「やってみるよ」とだけ言った。
その時の彼女がどのように考えてその結論に至ったのかは分からないけれど、僕はとにかく彼女がこの仕事を一緒にやってくれることを喜んだ。この仕事は他人の問題に足を踏み入れる必要がある。だからこそ、公平性を持った人間が最適なのだ。それは昔のカルが持っていた性質だった。この仕事を通して、カルが昔のようになってくれると期待した。公平で、思慮深く、優しい、あの時のカルに戻るのではないかと思ったのだ。今のカルが悪いわけではないのだけれど。
僕とカルは依頼主のカミキタ サトコから、問題のクラタ アイリの話を聞いた。サトコはジーンズとTシャツという比較的地味な恰好をしていたが、くっきりした目鼻立ちは黒髪のショートカットと相まって利発で優秀そうな印象を与える。
サトコの話によると、アイリはもともと同じ学科の同級生だったそうだ。少し変わった子だとは認識されていたようだが、アイリが学科内で特に悪目立ちするという事はなかったらしい。だが、学年を重ねてしばらく付き合っていると、彼女にはある種異常なほど被害者妄想のようなものがあるという事に気が付いた。
アイリは同級生が数人で集まって遊ぶという時に決まって参加したがったが、そのあと必ずと言っていいほど何かしらの理由をつけて結局行かない、というのがほとんどだった。その理由は遊びに行くメンバーの誰其れが私を嫌ってるだとか、自分だけ仲間はずれにされていると言ったものだった。
例えば、学科のメンバーで温泉旅行を計画したことがあったそうだが、直前になってアイリが行きたくないと言った。彼女曰く、メンバーの自分への言動に不信感があり、そんな状態で旅行など楽しめないということだった。元々他のメンバーはアイリに参加してほしいとお願いしたわけではなかったので別に彼女が不参加でもいいのだが、彼女がいることで宿や移動手段の手配の変更などの面倒事も増えるのには辟易としていた。そのため、学年が上がるにつれ、彼女はそれとなく嫌厭されるようになった。まあ、当然だとは思うけれど。不思議なのは何故かサトコはアイリと付き合いを断たなかったことくらいだろうか。
そして三回生に入った数か月間、授業に来なくなった。聞けば休学していたようだと後から聞いた。しばらくして、サトコはアイリの部屋に見舞いに行ったが、どうやら様子がおかしいことに気が付いた。元からずっとおかしい部分はあったが、それに輪をかけるようになったのだ。だが、サトコはアイリの状態が本当に異常と言えるのか自信がなかった。ただの友人の身で、勝手に専門機関に相談するのも違う気がするが、とはいえ友人をほっとくのも躊躇われる。そうやって常識と良識の間で迷った挙句、僕らの存在と評判を聞いたらしい。
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