第7話 観察

「アキ」


 僕はデスクトップの置いてある机に長い脚を投げ出して、椅子の背もたれに極限まで体重をかけて、天井を見上げる格好で分厚い学術書を読んでいる女性に声をかけた。


 カルと食事をとった後、僕はなんとなくアキを訪ねてしまった。自分でも理由がわからなかったが、多分、カルに仕事を拒否されたのが思いの外きつかったのかもしれない。


「先輩?私の研究室に来るなんて珍しいですねー」

「私の?アキが研究室の実権を握ってるの?」


 言葉の綾だとは分かっているが、どうしてもからかいたくなってしまう。


「みんなの研究室かも知れませんが、それなら私の、でも間違えてないじゃないですか。「みんなの」、は「私の」、の十分条件でしょ?」

「そうだけど、理屈がすぎるね」

「私もそう思うんですけど、屁理屈が飛んできたら屁理屈で返すのが礼儀って、お母さんが」


 僕は笑った。確かにアキの言う通り、言葉尻を捉えて理屈を言ったのは僕の方だ。アキがどんな返しをするのかが気になってしまって、いつもこうしてちょっかいを出してしまう。


 部屋を見渡すと、壁一面の本棚は経済学と心理学と統計の専門書でぎっしり埋まっている。アキが読んでいたのは、この中から適当に取ったものだろう。なんとなく、僕も本を手に取ってめくってみる。僕の専門領域と重ならないというわけでもないのだが、分野が違う本はどうもよそよそしい感じがする。そんなことを言っていたら、新しい勉強などできないのだが。


 ふと、アキがこちらを見ているのに気がついた。わざわざ滅多に来ないアキの研究室にまで来て、僕が本題を話始めないのを訝しんでいるのだろう。確かに普段の僕は何も用事がないのに雑談のために人を尋ねる人間ではない。探るようにアキは言った。


「何かあったんですか?」


 僕は言葉を探しながら、手元の本を繰っていた。その本に何か言うべきことが書いてあると言うかのように。だが、「幼馴染に仕事を断られてショックを受けた時に言うべきこと」というニッチな話題が、いかに専門書とは言え、一般に流通している本に書いてあるはずも無く、結局本を閉じて口を開いた。


「カルに、話してみたんだ。今やってる、仕事の件」

「なるほど、納得です。寂しがりのくせに、いつも用件だけ言って淡々と振る舞おうとする先輩が、今日は珍しい態度だとは思ってました」


 納得してもらえたのは嬉しい限りだったが、それより僕には気になったことがあった。


「僕のこと、そんな風に見てたの……」

「いや、変な意味じゃないですからね、勘違いしないでください」

「何をどう勘違いすればいいか、まず正解を教えてくれない?」


 今度はアキがくつくつ笑った。ずいぶん楽しそうだ。そうしていると、なんとなく僕も明るくなるように思えてきた。


 しばらくそうやって笑っていていたが、そう長くは続かなかった。彼女は静かな声で僕に言った。


「ねえ、先輩?カル先輩だって、先輩を悲しませようとしたわけじゃないんですよ」

「……」

「私は今のカル先輩も、好きですけど」

「そう……」

「探偵の仕事、昔のカル先輩なら受けてたでしょうけど……。でも、今のカル先輩だって楽しそうだし」


 それは、僕も思っていることだった。昔の彼女を望むからと言って、今の彼女を変えるのは間違えなんだろう。


 だけど一方で、カル本人が今のままでいいと思っているのか、という疑問が僕の頭から離れなかった。本当は、カルは昔の彼女に戻りたいんじゃないのか。それを放っておいていいのだろうか。助けが必要なんじゃないのか。近くにいる人間の、僕の助けが。


「先輩」


 思考の内側に入り込んでいた僕をアキが引き戻した。


「少しだけ、今のカル先輩を見ていてあげませんか?カル先輩が昔と比べてどう変わったか、ちゃんと。それに」


 アキが少し勝気な表情をした。


「それに、観察は私たちの得意分野でしょ?」

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