第1話 電車
季節外れの香りがした。冷たい空気とそれに似つかわしくない華やかな香り。
すぐには思い当たらなかったけれど、ややあってそれが金木犀の香りだと気がついた。
駅のプラットホームに立っているといつも似たような景色が待っているのに、今日は匂いだけが違う。
古い車両が、通過列車にしてはすこし低速で駅を通り抜ける。あまり速くないのに、後から追ってくる風はとても凶暴で、くすんだ色を撒き散らしていった。凶暴な風に、この空気を変えてくれることを期待したけれど、金木犀の香りは相変わらずそこに居続けた。
僕は金木犀が嫌いだった。
理由は簡単。ある人が好きな匂いだった。だから嫌いになった。
ラショナルな理由ではないけれど、嗜好性の決定なんてこれで十分だろう。少なくとも僕はそんな風に思える程度に寛容になった。曖昧模糊な言い訳に対して。
それもおそらく、金木犀の匂いを嫌いになったのと同じものが原因だろう。
◯
結局何本か電車をやり過ごしたあと、駅を離れることにした。ホームに入るときに買った1140円分のチケットを払い戻して、出口の階段を降りる。
おりた先に、小さな女の子が立っていて、花束のようなものを持っていた。なんとなく僕にお祝いをしてくれると期待してみたけれど、そんな訳はなかった。その女の子は僕のことを知らないし、花束に見えたのは、どうやら近くで貰ったらしいバルーンアートで出来た剣だったからだ。
女の子は階段上にいる僕を純真そうな目で見つめてくる。そのように見られても困る理由などないのに、やはり困ってしまうものだ。多分、僕とこの娘の年齢の差分だけ、僕は後ろめたさを積もらせてきたのかも知れない。そばを通り抜けて、駅の正面のビルに入った。
ビルの中の喫茶店。赤色のビロードのソファと黒い硬質の素材で出来たテーブル。午後の丁度良い時間だから、そこそこの客入りで、心なしか皆、しっかりした格好をしていた。
僕は灰色の薄手のタートルネックとジーンズ、黒い革のサイドゴアブーツを身につけており、つまりはシンプルな服装なので良くも悪くも目立たない格好をしていた。
だが、僕が向かう席に座っている女性ときたら、真っ黒でボロボロのワンピースに、真っ黒なしっかりしたジャケット、魔女が履くみたいな真っ黒なヒール付きのブーツを身につけていた。おまけに彼女は前髪が鼻のあたりまで伸びており、少々癖のあるショートカットだったので、全体的にアンニュイな感じが拭えない。そんな見た目で頬杖をついて窓の外を物憂げに見つめている。その虚空には彼女にしか見えない何かがあるというかの様に。
とりあえず僕はその席に近づき、その娘が、気がつく前に頭をワシャワシャと撫でてやった。
「なにするんですかっ、先輩!せっかく毎日半時間かけてセットしてる髪ですよ。弁償して下さい、私は先輩のペットじゃないんですよ、まったく」
「しらん」
本当に信じられない、などとぶつぶつ言いつつ、僕に喫茶店のメニューを渡してくる。いい奴だ。
「やっぱりいかなかったんですね。先輩」
「具合が悪かったんだ」
「意気地なしですね」
僕は聞こえないふりをした。ここのお店はコーヒーが美味いらしい。甘いものと一緒に嗜むとしよう。
「何回目ですか。もう。毎回付いてくる私も私ですけど、そろそろ知りませんよ」
「すみませーん。注文いいですかー」
愚痴は流すに限る。
僕がモンブランとホットコーヒーを頼む。すると、その娘もチーズケーキとアイスココアを追加で注文した。食べかけのショートケーキが残っているにもかかわらず。
「…なんですか」
「よく食べるなと思って」
「悪いですか」
「悪くないよ。ただ、これだけ大量に甘いものを食べる女の子を知らないからね。びっくりした」
「長い付き合いの割に私のことはほとんど知らないですね、先輩は」
「興味ないからな」
「ぶっとばしますよ」
「冗談だよ。興味はある。でも知る機会がなかった。よく覚えておくよ。
「今日は朝とお昼食べてないんです。先輩だって少しは太ったらどうですか。その方が意気地もつくでしょうに」
憎まれ口をたたく割に声音は暖かい。僕はアキと呼んだが本名はシュウだ。
僕と同じ高校出身でいまは都内の大学に在籍している。アキとは高校の部活が一緒だった。
「腐れ縁ですけどね」
よくアキはそう言う。
また、こうも言う。
「先輩は人のことよく見てるくせに、見てないふりするんです。そういうところは良くないです」
ちなみにこのアキの見解は正しくない。親しい人のことはよく見ていて、見ないふりをする。
親しくない人のことは本当に見ていない。
アキが僕の観察能力を認識していると言うことは、アキは僕と親しいということになる。異論はあるが、一方でかなり世話になった後輩だ。だからそれなりに恩返しをしようという気ではいる。
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