悟りを開いて無敵になりたい人へ
みなもとあるた
悟りを開いて無敵になりたい人へ
生きてると嫌なことがいっぱいありますよね。
嫌なことが起こっても、平然としていられるような強いメンタルが欲しい…
どんなことも楽しめる心の余裕が欲しい…
このハードな社会、そう思う人も多いのではないでしょうか?
そんなあなたに朗報です!
実は「悟り」というものを開くと、どんなに辛いことがあっても耐えられる無敵のメンタルが手に入るのです!
仕事が辛い?
人間関係が辛い?
将来が不安?
死ぬのが怖い?
大丈夫!「悟り」さえ開けば、そんな悩みは簡単に消すことができます!
さあ!あなたもこの文章を読んで「悟り」を開けるように私たちと頑張りましょう!
…という感じで信者を増やすのが宗教のやり方です。
いや、私は決してこれが悪いと言っているのではありませんよ。むしろこれ以上ないくらい正しい方法だと思っています。
実際にこれで苦しみから救われた方も多いでしょうし、私自身も「悟り」という概念に出会ってから精神的に楽になれたのは確かなのですから。
しかし結論から言うと、「悟り」という概念はそう簡単に理解できるものではないと言われています。
だから、こんなふうに信者を集めたところで「悟り」を本当に理解できる人間なんてほとんどいないでしょう。
でも、こうするしかしょうがないんです。
凡人に「悟り」という別次元の体験をさせるには、言葉で理解させても意味がないからです。
だからこうして、「苦しみがなくなるよ!」とか「悟りってとにかくすげぇよ!」という分かりやすいご褒美で釣るしかないんです。
はみがきを嫌がる3才児に対して、ご褒美を与えてでもはみがきをさせるのと同じです。
歯磨きの大切さを知っている大人からすれば、(めんどくさがってないでちゃんと歯を磨きなさい!)と思うだけかもしれませんが、歯磨きの大切さを知らない子供からすれば(めんどくさいなあ)と思ってしまうものでしょうから。
これは悟りについても同じことが言えると思います。
悟りを開いた偉人・教祖たちは、「悟ったら幸せになれるっていうご褒美があるよ~」という言葉で私たちを誘いながら、心の中では(早く修行して悟りを開いた方が絶対楽なのに!いつまで現世の下らないことで苦しむつもりだよ!)と思っているのかもしれません。
つまり「悟りを開いたら幸せになる」というのではなく、「悟りを開くまでは現世のことで無駄に悩んでしまう」というのが私の考えです。
悟りは常人の理解を超えたものですので、私自身も悟りがどんなものなのかは想像することしかできません。しかし、「偉い人がそんなにおススメするなら悟りを目指した方がいいのかなー」と思う人は多いのではないでしょうか。
ちなみに私が調べた限り、悟りを開いて後悔したという人はいませんでした。
悟りというものを体感した人は、皆「苦しみから開放された」、「これまでは無駄に苦しんでいたのだと分かった」、「素晴らしい体験をした」という感想を述べています。
だから少なくとも、悟りを開こうという目標を持つこと自体は悪いことではないと思っています。
話は変わりますが、正直に言うと私はこの文章の正しさを全く保証できません。
私自身も悟りを開いたわけではありませんし、本来悟りとは私のような凡人が説明できるような代物ではないからです。
なのでここから続く文章は、「そういう風に考える人もいるんだなぁ」くらいの気持ちで読んでください。
それどころか、もし偉いお坊さんとかがこれをお読みになったら「こんな適当な文章で悟りをバカにすんな!間違いだらけじゃねぇか!」とぶん殴られるかもしれません。
でも、私は書きたいから書きます。
私のような凡人は、書きたいという欲望を抑えられないからです。
そして、たとえ私の書いた文章が間違っていたとしても、いま人生に苦しんでいる方が読んだら哲学について考えるいいきっかけになるかもしれないからです。
というわけで、最初から間違っている宣言をしておいてなんですが、どうぞ適当によろしくお願いいたします。
【そもそも悟りって何?】
悟りとは、この世界の真実・真理に気付くことだと言われています。
これだけ聞くと変な宗教の講演みたいですが、ここで言う真実はおそらく皆さんが想像するものとは全く別次元のものでしょう(この辺りは私が以前に書いた文章でも触れていますね)。
真実と言っても、「この世界は神様が作ったんだ!」とか「愛こそが幸せになるカギだったんだ!」みたいな、「○○は××だ!」と一言で表せる分かりやすいものではありません。
世界はそんなに単純じゃないのです。映画やドラマじゃありませんから。
「悟り」とはそもそも、言葉で表せないものとされています。
音楽の美しさや料理の美味しさが文字だけでは100パーセント伝えられないのと同じように、悟りを他のもので表現しても上手く伝わりません。
「カレーの味がする音楽を演奏してよ」と言われているのと同じようなものです。どんな料理人でも音楽家でも、そんなことはできないでしょう。
これと同じで、「悟り」を言葉で伝えようとしてもそもそも無理があります。
なぜかと言うと、言葉自体が人間の作った不完全なものだからです。
言葉とは人間が進化する過程で人間の知能により作られたもの。
そして私たちはいつも、人間の知能は絶対に正しいと思って過ごしています。
でも本当にそうでしょうか?本当に人間の知能は常に正しくて、人間の使う言葉は正確なものなのでしょうか?
百億年を超える歴史があるとされる宇宙の中で、人間の文明や知能が積み重ねてきた歴史はたった数万年程度です。
そんなちっぽけなもので、巨大な宇宙の仕組みを本当に説明できるのでしょうか?
これはまるで、東大の中に一歩足を踏み入れた人が、「私は東大に存在する全ての知識を理解したぞ!」と言っているようなものです。
なので私は、人間の知能や感覚は全く信用できないと考えています。
という風に考えている私の脳さえも、今は疑っています。
人間の脳なんてぜーんぜん信用できません。
適当に電流を流したら適当にコントロールされ、いい感じの薬を投与されたらいい感じになる。
体調によっては意味もなく不機嫌になったり、不安になったりする。その程度の適当なものです。
だから、人間の脳が判断していることは全くあてにならないと私は考えています。
人間である私が考えていること、例えば「宇宙は○○だ」とか「世界を支配しているのは○○という法則だ」とかそんなような内容も、自分では絶対に正しいと感じていてもきっと間違っているはずです。
ましてや、我々が普段抱える悩みである、人間関係が辛いとか、働くのが大変とか、お金がなくて困るとか、宇宙に比べたらちっぽけなそんな悩み事が、本当に正しい悩みなのでしょうか。
確かに、「仕事が上手く行くか心配だなあ…」といったような悩みを抱えることは私もよくありますが、冷静に考えると、正確かどうかもわからない人間の脳が心配していることが本当に正しいのか?という疑問が浮かんできます。
これはまるで、性能の悪いコンピューターに難しい計算をさせて、それを無条件に信じるようなものです。その計算結果はとても信用できるものではないのに。
では、脳が信用できないのであれば、脳を使わずに何かを考えるなんてことができるのでしょうか?
結論から言うと、それが「悟る」ための方法と言われています。
抽象的な話になってしまいますが、脳みそに頼らず、考えずに感じることこそが「悟る」ための手段になるのだそうです。
「悟り」は言葉で表せないものなのですから、どれだけたくさんの言葉を使って脳で考えても理解できるはずがありません。
だから「悟る」ために難しく考えるのはむしろ逆効果。本当に「悟り」を開きたいのであれば、考えずに感じる手段を取るしかありません。
この方法が、例えば座禅であったり瞑想であったりといったような仏教の方法になります。
脳が働くことによって起こる感覚、例えば不安や明日の予定なんかに関することを、真面目に受け取らないようにする。これが瞑想の手法の一つです。
人間は放っておいても、何かを勝手に考え始めます。その現象に対して、「あー、また脳が何か考え始めたなー」と冷静に分析し、あまりとらわれないようにするのがコツだそうです。
そういった修行を長年続けた方は、これまで自分の抱えてきた様々な悩みが、脳によって自動的に作られていた物であると実感できるとのこと。
こんな風に、脳という不確かな存在に頼らないようにすることが悟りを開く方法なのではないかと私は考えます。
さて、悟りがどんなものかを説明するのはこれくらいにしておいて、実際に悟りを開いたらどうなるのでしょうか?
【悟りを開いた人の話】
以前ポッドキャストのとある哲学系番組に、悟りを開いた方が出ていらっしゃった回がありました。
その方は偉いお坊さんというわけではなく、話を聞く限りではどこにでもいるような一般的な男性でした。
特別な修行などは行わず普通に生活をされていたそうですが、仕事のストレスが限界に達した結果として、「もうなるようになれ!」というある意味ではヤケのような状態になり、あるがままの世界を受け入れる覚悟を無意識のうちに決めたそうです。
その結果、何が起きても心が揺るがないような状態になっていることに気付き、現実をありのままに受け取れるようになったのです。
こうしてこの方は今までに持っていた価値観にとらわれなくなり、例えば「他の人より偉くならなきゃ」とか「立派な人間にならなきゃ」という欲求に全く意味がないことを実感し、そういったことで悩むことが無くなりました。
人間の悩み事は大抵、欲望があることによって生まれます。逆に言うと、欲望のない状態になれば悩み事は自然となくなることになります。
欲望とは「こうなってほしい!」と願うことで、悩み事のほとんどはその願望が叶わないことによるものです。理想と現実に差があるのに、どうにかして現実を理想通りにしようと悩んでしまうから、人は苦しむのです。
悟りを開いたこの方は世界のありのままを受け入れられるようになったことで、「こうなってほしい!」という理想を持つこと自体が無くなりました。何が起きても現実を受け入れられるのであれば、そもそも世界に何かを望むことがないからです。
そしてこの方の態度が実に面白いんですよね。
一言で言うと欲がない状態なので、ラジオの中でも「悟ってるから俺は偉い!」とか「何か面白いことを言ってやろう」みたいな態度は全然取りません。
そんな感じなので、ラジオに出演する他のメンバーから「悟りって〇〇という哲学者の〇〇という考え方に似てると思いますが、実際どうですか?」というような質問をされたときも、「いや、僕は学がないんで難しい話は良くわかんないっす(笑)」と素直に答えるような人でした。もはやカッコつけようという欲もないんですね。
また、「悟りが好きですか?」という質問に対して「好きとか嫌いとかそういう問題の話ではない気がする」と答えていたのが印象的でした。
脳で考えてしまう我々一般人は、「悟ることはいい事だ!」と悟りに対する欲望を持ってしまいがちですが、悟りを開いた場合は良いとか悪いとかいう人間基準の価値観にすらとらわれなくなるため、一般人とは違う考え方を持つようです。
このように、実際に悟りを開いた方はそれまでとは別次元の感覚を持つようになります。
何事に対しても良いとか悪いとかの偏見を持たず、ただありのままの世界を落ち着いた心で過ごします。
現実に不満を持たないため、理想と現実の差に悩むこともありません。
だから、生活の不安や、日々の様々な悩み事で苦しめられることはもうありません。
私もぜひこんなふうになってみたいと思うものです(これ自体欲望なのでホントは良くないんですが)。
【まとめ】
ここまでいろんなことを偉そうに語ってまいりましたが、私も結局は脳みそで考えている人間ですので、間違ったこともたくさん言っていると思います。
そもそも、「悟り」は言葉で表せないと言っておきながら文章で説明しようとすること自体が間違っているんですから。
悟りがどんなものなのかは、読者の皆さん自身でなんとなく感じ取ってください。
もしそれで悟りに興味を持たれたならば、ご自身で調べてみるのも良いでしょう。
いずれにしても、我々が普段苦しんでいるたくさんの悩み事は、悟りを開いたら消えるものと言われています。これは、これまでに悟りを開いた偉いお坊さんなどの様々な人物たちが教えてくれていることです。
不完全な脳みそが、目の前の出来事を勝手に判断して苦しみと認識している。
この世界にあるすべての苦しみは、結局は脳みその勘違い・幻なのです。
この考え方を、仏教では「色即是空 空即是色」と表します。
これは「この世の出来事はすべて幻のようなものである」という意味で、「そんな幻みたいなことにいちいち苦しむ必要はないよ」という教えでもあります。
まあ「悟り」がどんなものであるとか「悟り」を開くにはどうしたらよいかみたいなことは一旦置いておいて、いま悩みを抱えて苦しんでいる人はこの考え方を信じてみてはいかがでしょうか。
【あとがき】
最近読んだ心理学系の本で、「才能というものは開花するまでは狂気にしか見えない」という言葉が心に響きました。
確かにそうですよね。例えばさかなクンさんは魚に超詳しい専門家として有名ですが、もしテレビなどで有名になっていなければ、近所の人から魚オタクの変なおじさんと呼ばれるだけだったかもしれません。
周りの人から「あの人は頭おかしい」と思われるくらいのレベルで何かを究めることで、それは世間に才能として認められるようになるのかもしれません。
だとしたら、冗談抜きで毎日死や悟りや世界について考えている私もいつかは認められるようになるでしょうかね?
まあ確かに初対面の人とかに、「休日何してんの?」って言われると言葉に詰まるときもあります。他の人が趣味とか友人との交友とかに使っている時間の一部を、私は生きる意味だとか悟りだとかについて考えるために使っているのですから。
もしこんなことを正直に人に話したら、「あの人なんかおかしい」と思われて当然でしょう。数年間にわたって悟りのことを考え続けている人間なんてお坊さんを除けば多くはないでしょうし。
だったらもういっそのこと開き直って、これが自分の才能だと思ってやる、と考える今日この頃です。
皆さんも何か、狂気と呼ばれるレベルで究めてることってありますかね?
それを大事にしていたら、いつか良いことがあるかもしれませんよ。
【余談】
死んだら意識がなくなる、というのが一般的な考え方ですが、本当にそうなんでしょうか?
正直、昔の私はこれがずっと怖くて、死んだら意識がなくなると思うと眠れなくなるくらいでした。
でもまあ、死んだことがある人なんていないのに、死んだら意識がなくなると言い切るのもおかしな話ですよね。
それなのに、我々はいつからか「死んだら意識がなくなる」と信じ込んでいます。
そういえばどこからこんな考えを持つようになったのでしょうね。
私の中でもまだまとまっていない考え方ではありますが、意識と記憶は密接な関係にあると思っています。ただ、今の私ではまだ上手く説明できなさそうなので解説はやめておきます。
意識や記憶について考えているとなにかひらめきがありそうなので、そのうち何かに気付いたら記事を書こうと思います。
【余談2】
悟りを開くと悩みがなくなるので、悟りを開いた人は残りの人生を心穏やかに過ごすそうです。
ただし、どう生きるかは人によって異なります。
ある人はただ楽しく日々を生き、ある人はこれまで通りの日常を落ち着いた心で生き、ある人は自分の体験を誰かに伝えようとします。
もし私が悟るようなことがあれば、その体験をなるべく言葉にして伝えたいなーと思っています。
なので私が悟れるように応援をお願いします。
いや、もしかしたらこれを読んでいる方の中に悟る人がいるかもしれませんね。
悟りを開けるかどうかは、頭の良さや哲学知識の多さとは関係がありませんから、哲学について全くの素人だった方が突然悟ることだって全然不思議ではありません。
もしどなたか悟ったら、私にその体験を詳しく教えて下さいね。
悟りを開いて無敵になりたい人へ みなもとあるた @minamoto_aruta
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