第38話 百鬼夜行

 これは、凡野蓮人が現実世界に帰還する数カ月前に起こった出来事である。


 ある嵐の夜、丑三つ時。


 三重県と滋賀県の県境、鈴風山すずかやまは大いに荒れていた。


 暗雲が天を覆い、雷が空を引き裂き、風があらゆるものを薙ぎ倒し、雨が大地を襲いし、そんな夜……。


 山に棲む生き物さえも息を潜める嵐の中を、一人の少女が山頂を目指して登る。


 背に布に包まれた細長いものを背負っていた。


 そして這って入れる程の小さな穴から、中に足を踏み入れる。


 中は洞窟だった。


 とても広く、人の手によって削り出された石段が下層へと伸びている。


 ここは古来より、山伏によって固く守られている場所だった。


 そんな隠された洞窟に這入った少女は、最深部を目指す。


 下へ進み、やがて雷鳴も風雨の音さえも聞こえなくなった頃、少女は目にした。


 山のように巨大な岩が、まるで生き物のように佇んでいる。


 大岩には注連縄が幾重にも巻かれ、周囲は地下水が溜まり池のようになっていた。


 ちゃぽん……。


 池に足を浸す。


 足首程の水深しかない。


 少女は大岩の目の前まで歩み出た。


 大岩を仰ぐ。


「さあ、はじめよう」


 誰もいない洞窟の中で、少女の声が木霊する。


 背負っていた長い布を解くと、中のものを取り出して、大岩に見せつけるように掲げた。


「これが、何か分かるか?」


 その声は、どこか愉快そうだった。


「ずっと昔、お前が奪われた二振りの剣だ。憶えているだろ?」


 どくぅん……。


 大岩の内側から、鈍い音が一度発され、洞窟に響く。池に波紋が広がった。


「思い出せ! あの時の屈辱を! 怒りを! 今一度、怒りに身を奮い立たせよ!」


 どくぅん、どくぅん、どくん、どくん……!


 鼓動のような音がどんどんと早鳴る。


 少女は剣を抜き放った。


「ワタシが解き放ってやろう」


 頭上高く構えた剣を一気に、振り下ろす。


 すぱりと注連縄は切れた。


「1200年の時を超え、目覚めるのだ! 偉大なる鬼──大嶽丸おおたけまるよ!!」


 どくん! どくん! どくん! どくん……!


 バチ────ンッ!!!!


 大岩に亀裂が走ると、次の瞬間に砕け散った。


 真っ黒な瘴気が岩のあちこちから噴出し、瞬く間に洞窟を包む。少女の身体に纏わりつき、その手から二振りの剣を奪い去った。


 瘴気は蜷局を巻きながら、洞窟の上へ上へと昇っていく。


 不気味な笑顔を湛え、少女もゆっくりとその後を追った。


 禍々しい瘴気が、洞窟の秘密の出入り口を破壊する。


 外へと飛び出すと、それは山頂へと集まった。


 巨大な人型を成し、瘴気は実体を得る。


 鈴風山の鬼、大嶽丸ここに顕現す。


「おおおおお────!!」


 凄まじい咆哮に、雨と風が同心円状に消し飛んだ。


 大嶽丸の後ろで、少女がそれを見つめる。


「もっとだ! 1200年間溜めに溜めたお前の怒りは憎悪は、そんなものなのか!? 憤怒に咆えよ、怨念を、叫べ!!」

「う、おおおおお────!!!!」


 天に、咆える。


 大地と空気が震えた。


「鬼の妖気よ、大波となって広がれ!! 禍々しき邪気よ、うねりとなって山を下り、この国を吞み込むのだ!!」


 雨に打たれながら、少女も叫ぶ。


 その目は妖しく光り、どこか遠くを見つめたまま、歯を剥き出して破顔していた。


「まずは一匹」


 ……それから数日後。


 岐阜県飛騨高山──禁足地である鍾乳洞の奥で、巫女たちは巨大な鍾乳石を前に息を呑んでいた。


 霊木を削って作られた柱が四本、鍾乳石を囲んでいる。表面には、魔を封じる祝詞が刻まれ、それぞれが注連縄で結ばれていた。


 この地の巫女たちが代々、鍾乳石の封印を守護してきたのだった。


 千年以上、封印は破られることがなく、平穏は明日も続くように思われた。


 だが、その終わりが今日だった。


 封印が、今まさに解かれようとしている。


 バチン!!


 鍾乳石から激しい風が吹き出し、注連縄が切れる。


 巫女たちの衣装も激しくはためいていた。


 先頭に立つ少女が、風に目を細める。


「なんて力!」


 バチン!!


 霊木の柱を結ぶ注連縄が、また一本、弾け飛んだ。


「そんな!?」

かなえ様の霊力を持ってすら、封じきれないと言うの!?」


 巫女たちが慄きながらそう言った。


 瑞浪みずなみかなえ、当代きっての霊力を誇ると謳われし巫女の名である。


「諦めてはだめよ!」


 先頭に立つ叶が、ほかの巫女たちを鼓舞する。


「私たちで食い止めるの! いいわね!」

「はい!」

「はい、叶様!」


 祝詞を唱えながら、叶に霊力を注ぐ。


 ゴォォオ!!


 吹き荒れる風が強くなる。


 バチン!!


 三本目が切れた。


「くっ!! ここで……、ここで、この鬼まで解き放たれたら……!!」


 叶は唇を噛みしめた。


 巫女として、先人たちが守り継いできた鍾乳石の封印を、自分の代で終わらせるわけにはいかなかった。


 最大限の霊力を注ぐ。


 鍾乳石を縛り付けた。


「む、だ、だ」

「!!」


 鍾乳石から、声が聞こえた。


 それと同時に、地響きが起こりはじめる。


 巫女たちは動揺していた。


 皆、恐怖に顔が引き攣っている。


「負けてはだめよ、みんな!」


 巫女たちを見やり、叶は叫んでいた。


「鈴風山では大嶽丸が、京では酒呑童子も復活してしまった! 今、岐阜のこの鬼まで復活してしまったら……」


 京ではすでに、多くの陰陽師が犠牲になったと聞く。


 だからこそ、ここだけは食い止めないと……!


 だが叶のそんな思いとは裏腹に、巫女たちの霊力も祝詞の力も弱まっていた。


 そして──


 バチン!!


 遂に最後の一本が、切れる。


 途端に地響きが大きくなった。


「きゃあっ!?」

「ああっ!」


 立っていられなくなり、巫女たちが腰をかがめた。


「がああああ!!」


 鍾乳石から聞こえたのは、怒り狂った猛獣のような唸り声だった。


 ピシ! メシッ!!


 四本の柱に、亀裂が生じ始める。


「か、叶様……」

「もうこれ以上は……」


 巫女たちが叶に縋りつく。


「ダメ、絶対。この場所だけは死守しなきゃ……」

「もう無理にございます、叶様!」


 メシッ……!


 柱が最後の悲鳴を上げる。


「ぅがおおおおお────!!!!」


 ッパ──ン!!!!


 咆哮と同時、鍾乳石が縦にぱっくりと裂ける。四本の柱は木っ端微塵に弾け飛んだ。


 巫女たちの悲鳴が響き渡る。


「そんな!」


 鍾乳石から赤黒い瘴気が噴出しはじめる。それが何なのか、巫女たちは当然知っていた。


「ああ、目覚めてしまった……」

「逃げましょう、叶様!!」

「早くっ!!」

「目覚めてしまった、1600年の眠りから。最凶最悪の鬼──両面宿儺がっ!!」


 その日、瑞浪叶を筆頭とする鬼鎮めの巫女たちの目の前で、伝説の鬼が復活した。


 鈴風山の大嶽丸、京の酒吞童子、そして飛騨高山の両面宿儺……。


 ほんの数日で発生した伝説の三鬼の復活は、この国に深刻な因果的同時性シンクロニシティを発生させる。


 そう。封じられているのはこの三鬼だけでもなければだけでも、無い。




 ──栃木県那須川岳なすかわだけ


 平地では春の訪れを感じる三月の初め、荒涼とした山岳地帯にはまだ雪が積もっていた。


 月の光冴え渡る深夜に、大小様々な岩々が転がる場所を、二人の少女が登っていた。


 当然、登山客などではない。


 巨大な岩を軽々と飛び越え、足場の悪い場所を音もなく滑るように駆ける。


 二人とも夜目が利くのか、腰に下げた小さな灯り一つで、躓く事すらなかった。


 その身のこなしは、只者ではなかった。


 姉の佐野さの十和子とわこと妹の明里あかり──その道では名の通った栃木の陰陽少女である。


 だが、先を急ぐ二人の表情はどこか切迫していた。


「見えてきたよ!」

「間に合ったか!?」


 妹、明里の言葉に姉の十和子が応じる。


 二人して、前方を見やる。


 雪をかぶった岩肌の中に、ひと際目を引く一つの岩があった。


 形の良い丸く大きな岩である。雪をかぶってはいるが、その岩にもまた、注連縄が施されていた。


「いくぞ、明里!」

「はい、姉様!」


 十和子が装束の懐より護符を取り出す。


 明里は杖を構えなおした。


 ぶわ……っ。


「!?」


 肌を刺すような山風が、変わる。


 生温く、どこか湿った風が吹いてきた。


 ハッとして立ち止まる。


 陰陽師としての才と修行によって身に着けた感覚で、二人は察知した。


 妖気が、溢れ出ている。


 ビュオ──ッ!!


 丸い岩とその周囲だけ、急に雪が舞い上がった。


「そんな!?」

「ここでも間に合わなかったのかっ!?」


 ピチンッ!


 突如、小さな破裂音が響いた。


「ああっ、殺生石に罅が!」


 明里が思わず叫ぶ。


 ピチッ! ピキンッ!!


 破裂音と共に、殺生石の表面が剥落していく。


 時間がない。


 二人は焦った。


「明里、早く封印の方陣を張って!!」

「はい、姉様!」

「私が時間を稼ぐ──ハアッ!!」


 十和子が護符を放つ。


 意思を持ったかの如く、護符が岩目がけて飛んでいく。


 岩に貼り付いた、かと思いきや。


 ジリッ……、バシュン!!


 一瞬で焼き切れてしまった。


「そんなっ!? なんて妖力なの!?」


 ぼふぅん──!!


 鳥肌が立つような生温い風と共に、空気が大きく振動し、波動が広がった。


「うわ!」

「きゃっ!」


 パチンッ!!!!


 そしてひときわ大きな音が響き、遂に岩が真っ二つに割れる。


 割れ目が眩く輝きはじめた。


 思わず姉妹も、目を細める。


「ギュロロロ~!!」


 甲高い鳴き声が空へと木霊す。


「ああ」

「そんな」


 二人がハッとして顔を上げる。


 岩の前に光り輝く九尾の狐が顕現していた。


「間に合わなかった」

玉藻前たまものまえ、平安の都を混乱に陥れた大妖怪がまた一匹、解き放たれてしまった……!」


 呆然とする二人を前にして、九尾の狐は宙をひと蹴りし、天高く跳躍した。


 そのまま飛ぶように岩山の奥へと姿を隠す。


「待てっ!」

「待ちなさい、明里!」


 追おうとする妹を、十和子が止める。


「玉藻前は大妖怪。復活した以上、私たちの手に負える相手ではないかもしれない」

「けれど、姉様」

「一度戻って報告しましょう。これは私たちだけの問題でも栃木だけの問題でもないんだから」

「そうだよね……」


 明里が緊張から解放されたように、ふっと溜息を漏らす。


 大嶽丸に始まる伝説の三鬼の復活は、妖気邪気の大波を起こして全国へと波及していた。


 まさに連鎖反応によって、各地の鬼や妖怪たちの封印が次々に解かれ、復活を果たしていく。


 山伏、陰陽師、鬼鎮めの巫女……、平安の御代より千年以上、日本の裏世界を護って来た者たちが予想だにしなかった、大いなる災いが訪れようとしていた。


 立ち尽くす明里の横で、妖狐が消えた先を睨み、十和子は歯を噛みしめた。


「やはり始まってしまうのか……、令和のこの時代に、がっ!!」

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