第10話 松本あいな

「凡野くーん!」


 一人の少女が手を振りながら小走りに近づいてきた。


「やっぱり! 凡野くんだ!」

「松本、さん……」


 彼女の顔を見た瞬間に、胸が痛いほど大きく動いた。


「久しぶりじゃん!」

「イテ」


 肩を叩かれる。


「学校、出て来てたんだね。今日から?」

「あ、ああ」

「身体の具合はもういいの?」

「ああ、平気だ」


 そう答えると、彼女が俺の顔を覗き込んできた。


「じ~……」


 不信感たっぷりのジト目で、まじまじと見つめられる。


 俺は思わず仰け反った。


「な、なに?」

「ホントに?」

「本当だよ」

「ホントに、ホントにぃ?」

「ああ、本当だ」


 やや困惑気味に、俺は頷いた。


 じっと俺の目を見つめた後、松本さんも急に笑顔になって「そっか」と頷いた。


「ずっとお休みしてたからさ、心配してたんだ」

「別に、俺は大丈夫だ」

「そ? 良かった」


 今度は安心したように笑う。


「あいな~、授業遅れるよー!」


 奥から女子数人が松本さんを呼んだ。


 松本さんも背伸びするようにして、手を振り返す。


「それじゃあね」


 友だちの元へと駆けて行く。


 が、急ブレーキで止まるとくるりと俺を振り返った。


「なにか悩み事があったら、いつでもわたしが相談に乗ってあげるからね!」


 胸元で小さくガッツポーズをして見せた。


「それじゃあ!」

「……」


 彼女の名前は松本まつもとあいな。


 俺が思いを寄せていた、ただ一人の女性ひとだ。


 中学時代、男子からだけではなくほぼすべての女子からも俺は蔑まれていた。


 けれど唯一、そんな俺に対して対等に接してくれたのが彼女だった。


 きっかけは一年の時──


 当時から俺は女子から無視をされていた。挨拶をしても言葉が返ってくることはなく、必要があって話しかけると、嫌悪感丸出しで顔を歪められる。


 まるで不快害虫のような扱い。


 そんなある日、俺は誰かに足を引っかけられて盛大に転び、筆記用具などを廊下にぶちまけてしまった。逃げたり避けたりする人はいても、誰も拾うのを手伝ってはくれなかった。そんな人はいないと、もう期待さえもしていなかったが。


「はい」

「……え?」


 そんな俺に笑顔でボールペンを渡してくれたのが、彼女だった。


「だいじょうぶ?」

「う、うん……」


 彼女は、廊下に散らばった筆記用具を一緒に拾ってくれた。


「なくなってるものとかない?」

「あ、うん」

「そ? 良かったね」


 たったそれだけだ。たったその一度きりだったけれど、それ以来、俺は彼女に特別な思いを抱くようになった。


 彼女にとって、それが俺に対しての特別な感情ではないことくらい、当時の俺も理解していた。


 彼女は、誰に対しても優しかったからな。


 だからこそ、俺はそんな彼女に惹かれて、好きになったんだ。


 廊下の奥に消える彼女の背中を見つめながら、遠い昔の恋心を思い出す。


 それと同時に、何か不安めいたものも心の奥底からふつふつと湧き上がって来た。


 まただ。信吾の時と同じ。なんだ、この焦りや恐怖に似た感覚は……。恐怖など、久しく感じることのなかった感情だっていうのに。


 この感情の正体は、俺のまだ思い出せない記憶と関係しているのか?


 俺は一体、何に怯えているって言うんだ?

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