ギフト
四
夕暮れ時に差し掛かった中途半端な時間帯、アスファルトで舗装された
俺と遠野さんとの間に会話らしい会話もなかった。やがて自宅がある団地までやって来ると、不意に遠野さんは道脇へと自転車を停めた。難しい顔をしているあたり、別れの
「納得いきませんか」
「まあね」
「仮に悪戯でなかったとしても、勧誘カードが剥がされてしまった以上、どうしようもありませんよ。別に、人様に害を与えるようなことはしていませんしね」
遠野さんは
「犯人なんてどうだっていい」
と言った。
「俺は
「買い被りですよ」
遠野さんは苦笑していた。まるで心が見透かされているかのようだ。
「
「何か、とは何でしょうか」
「俺が気になっていること、だよ。越渡君はまた、都合の悪いことを呑み込もうとしている。それは悪いことだ」
隠す気はなかった。けれど、指摘されなければ伝えるつもりはなかった。それが隠すという行為なのであれば、俺は遠野さんに真相を隠そうとしていたのだろう。
俺はくしゃくしゃになった勧誘カードを取り出し、じっと見つめた。名刺サイズほどの用紙に手書きされた【社会奉仕部 部員募集中】と【二〇〇八年四月一日】の文字。そして、右上に押印された『基』と『広報委員会』。基先生の証言が全て真実であるとするならば、真相は一つしかない。
「この勧誘カードを貼ったのは昨年度の社会奉仕部の方でしょう。作成方法は先ほどお伝えしたとおり、去年のポスターの右上部分を切り取ったものと考えられます」
遠野さんは納得いかない面持ちで反論する。
「だが、先輩方は先月卒業した。先生の話では、卒業式の次の日に違反物は
「では、美化委員会の活動後に貼ったのでしょう」
「だが、四月になればまた剥がされちまうじゃないか」
「いえ、剥がされません。在校生の春休みは入学式がある四月七日まで。美化委員会はその翌日八日に行われます。その頃には既に仮入部期間に入っていますから、勧誘ポスターの類が貼られていたとしてもルール違反にはなりません」
「つま。三月の見回り後なら、いつ貼っても剥がされることはなかったということか」
遠野さんは
「そうは言うが、先生は卒業式以降に卒業生は来ていなかったと証言したぜ?」
「正確には、『私が把握する限り、卒業式以降に卒業生は不要な訪問をしていない』と仰っていました。わざわざ『不要な訪問』と表現したのは何故でしょう」
遠野さんはしばし考える素振りを見せ、
「そうか。条件付けして、嘘を避けたのか」
と声を上げた。
遠野さんは頭が良い。多少抜けているところはあるけれど、順序立てて話せば情報を組み立てられる。
「はい。
仮にそういった信条がなかったとしても、一生徒に対し、自らの不利益を避けるために嘘を吐くというのは、教育者としてあるまじき行為だ。
「基先生
卒業式以降、卒業生が学校を訪問する正当な理由。遠野さんはハッとして顔を上げた。
「受験の結果報告か」
俺はこくりと
国公立大学の合格発表は三月の下旬に行われることが多い。そして基先生は、社会奉仕部の部員が大学の合格報告に来たと言っていた。ならば、そのタイミングで勧誘カードを掲示板に貼ることができる。
「だが、わからんことがあるな」
「意図ですか」
単に、かつて自身が所属していた社会奉仕部の未来を
黙ってやることには意味がある。後ろ暗い気持ちがある時、驚かせたい時、そして、面と向かうと照れくさくなってしまう時だ。
「この勧誘カードは、残された部員への贈り物ですよ」
遠野さんは意表を突かれたようで、目を丸くした。
「残された部員? 今の社会奉仕部は部員ゼロだろう?」
「いえ、一人だけ残されています」
遠野さんは息を呑んだ。
「……基先生」
辺りが暗くなり、街灯が
「顧問教師が勧誘ポスターを作成する場合、副顧問の承認印が必要になります。書類上、社会奉仕部にも副顧問がいるのでしょう。ですが、部員がおらず廃部寸前の部活動の顧問が、勧誘ポスターを作成することなどできるでしょうか。業務上の負担を考えれば、ほとんどの教師がしないでしょう」
また、そんなことをすれば、周りから奇異の目で見られることは明らかだ。自ら業務を増やすような同僚を見て、顔をしかめない人間など皆無だろう。
「基先生は違うのか?」
「はい、そう考えられます。話を整理しましょうか。今回の件は、三つの可能性が考えられます。愉快犯による
このうち、愉快犯による悪戯は、勧誘カードが手書きであるという点から除外できます。『基』と『広報委員会』という印まで用意したのに、手書きで作成する理由がありません。去年のポスターを流用したと考えるほうが自然です。
残り二つですが、正直
「同じ?」
俺は
「もし基先生が作成者の場合、先生自身が新入部員を望んでいたことになります。そして、卒業生が作成者の場合、卒業生が新入部員を望んでいたことになります。
ですが、考えてもみてください。四月ならまだしも、三月のうちはまだ勧誘ポスターを貼れません。掲示板には多くの余白があったはずです。いくら隅に貼られていたとしても、自分の名前の印が押された掲示物を一か月もの間、見逃すでしょうか」
自分に関わる数字や文字というものは不思議なもので、日常の中でふとした瞬間に目につく。カクテルパーティー効果の視覚版とでも言えるだろうか。
「基先生は勧誘カードに気付いていながら、知らないフリをしました。それは、新入部員を望んでいたからです。きっと、卒業生の方は先生の本心に気付いていたのでしょう。一人だけ残された部活動。廃部寸前であるのに、勧誘活動もできないとなれば、先生の歯がゆさは想像に
そこで、卒業生の方は勧誘カードを貼ることにしました。先生に相談してしまえば、先生はそれを見逃すわけにはいきません。規則は規則ですから、剥がさなくてはなりません。恐らく先生は広報委員会の顧問教師です。
「単に卒業生が廃部を恐れて貼った勧誘カードを、先生が見逃したという可能性はないのか? 誰だって思い出の場所がなくなるのは無念だろう」
「可能性はあります。ですが、見逃したという時点で、先生も少なからず部員を望んでいたと考えられます。無くしたいなら、卒業生もいないんですから、そっと剝がせばいいでしょう」
「卒業生の意図がどうであれ、基先生の意図は変わらないってことか」
「ただ、やはり俺には先生へ向けた贈り物に思えます。卒業生が黙って実行したことが何よりの証拠でしょう」
基先生に勧誘ポスターを託す手段もあった。そうすれば、三月中に貼る必要も、昨年のポスターを名刺サイズにしてまで流用する必要もなかった。そうしなかったのは、先生に言えなかったからだ。託す理由はいくらでもこじつけられるけれど、基先生に限って小手先の嘘が通じるとは思えない。まさか自分のための勧誘ポスターなど、基先生の性格からして受け取れるわけがないのだ。
「卒業生は、先生のために部の存続を願っていたのか」
「あるいは、基先生へ向けたメッセージなのかもしれません。部の存続という名の贈り物であると同時に、先生と同じように、自分たちも社会奉仕部を大切に想っていたというメッセージ」
思い出づくりというのは行動だ。その結果生み出されたものは残された者へと贈られる。卒業生は勧誘カードという名の思い出をつくり、基先生は思い出という名の贈り物を受け取る。
「たとえ廃部になったとしても、思い出は無くなりません。基先生も、それは承知していたはずです。それでも、語り継ぐ相手がいないことは寂しいことなのでしょう。思い出が思い出のまま綺麗であるのは、共有する仲間がいるからではないでしょうか」
廃部という孤独に塗り潰されれば、先生の中の思い出は綺麗なままではいられない。
俺は勧誘カードを見つめ、物悲しい想いに駆られた。
「ですが、やはり先生に相談していれば良かったと思います。そうすれば、こんな紙切れを使うことも、基先生がこうして剥がすこともなかったでしょうから」
俺はカードを胸ポケットにそっと仕舞い、
「後の祭りですがね」
と締めくくった。
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