なんでもないもの

「べんじょ川、ベンジョ川、便所川って、どこなのよ」

 新月の真夜中、やや湿った風がじんわりとまとわりつく闇夜。港湾沿いの工業地帯を一人の女子中学生がさ迷っていた。

「ニオイ、そうよ、臭いよ。臭いのがいいの。臭い川じゃなければダメなの」

 一人でブツブツ言いながら焦っていた。手に持っているケイタイの電池が残り少ない。しかしサイトを灯し続けなければ、目論見はご破算となってしまう。

「どこだ、死ぬほどきったなくて、吐きたくなるほど臭い川はどこよ。便所みたいな川はどこなんだって」

 その明確な場所を彼女は知らない。ケイタイには地図情報が表示されているのだが、大まか過ぎて目的地が絞れないでいた。

「あの、あの、すみません。この辺に便所川ってありますか。すごく汚い川なんですけど」

 港湾の一角に空き地があって、大小さまざまなゴミが放置されていた。工業地帯なので、大きな土管や消波ブロックコンクリートの瓦礫、重機の残骸などだ。

 そこにホームレスのオヤジが住み着いていた。女子中学生は、ブルーシートでできた簡易テントを無遠慮に開けた。寝ていたホームレスを叩き起こして、川についての質問をぶつけていた。

「うるせえなあ。なんだ、ガキじゃねえか」

 無精ひげのホームレスは、小さな電灯をつけて、セーラー服姿の少女を眠たそうに見上げた。

「いま時間に、こんなとこウロついてたら、さらわれて売りとばされるぞ」 

「おっちゃん、わたしのことはいいから、便所川ってどこにあんのよ」

 貧民街の安アパートに住む貧困家庭な少女は、身の危険についてわりと無頓着だった。

「便所川って、ああ、あの臭え川か。あそこには近寄んじゃねえ。川岸に立っただけで、腹下して下痢が止まらんぞ。ひでえ臭いで、鼻どころかノドもやられちまう。一滴でも目に入ったら、失明すっぞ」

 少女が探す便所川とは、熟練ホームレスが警告するほどの汚れた川らしい。

「いいから、どこにあるか教えてよ。ほら、お金あげるから」

 やせっぽちなセーラー服少女が、スカートのポケットから薄っぺらな財布を取り出して、その中のすべてを渡した。

「金って、おめえ、1000円もねえじゃんか」

 1000円とは大げさな金額で、じっさいは百二十円しかなかった。

「早く教えて。お金あげたでしょっ」

 語尾が跳ねあがっていた。これはよほど危急なことでもあるのだろうと、ホームレスは判断した。

「あそこに大型ダンプがとまってるだろう。その手前に左に曲がる小道があるから、そこをひたすら真っすぐ行くんだ。二十分くらい歩くと左手に木製の小屋があるから、ぐるっと回ってちょっと進むと土手があって、左端に人が通れるトンネルがあるから、そこを出て少し歩くと問題の川だ」

「わかった、ありがと」

 女子中学生は走り出した。

「おーい、真っ暗だからな。気をつけて行くんだぞ」

 ホームレスは暗闇に向かって注意を促すが、すでに少女の姿は漆黒にまぎれて見えなかった。

「くっさいくっさい便所川、あははは」

 ケイタイのバックライトで先を照らしながら、灯りを求める蛾のようにセーラー服が舞い、ホームレスが教えた順路通りに進む。すると、よく繁茂した草むらの中に、小さな川を発見した。 

「これが便所川ね。ほんと、ウワサ通りにくっさいわ」

 その川は、幅が人の背丈ほどしかない。でも深さは相当にありそうで、バックライトで照らされた水面は、どんよりと淀んでいた。腐った溜池のように悪臭が漂い、水はまったく流れていなかった。

「モノさん、モノさん、モノモノさん」

 女子中学生は、さっそく呪文を唱え始めた。

「ええーっと、なんでもないモノを呼び出すには、ここからどうするんだっけ」

 ケイタイの画面には、その手順が記されていた。

「そうか、呪いの言葉を言ってから、血をささげるんだっけ」

 漫画や都市伝説などでよく知られている呪いの言葉が放たれた。それから小さなカッターで、小指の先っぽを切った。かなり遠慮がちになされたので血の量はほんの少しだったが、鉄臭くて真っ赤な数滴が、足元の水面へと滴った。

「モノさん、モノさん、モノモノさん。どうかわたしの前に姿をあらわしてください。願いを叶えてください」

 そう言いながら、少女は両方の手のひらを顔の前でくっ付けて合掌のポーズをとる。眉間に太い皺をつくり、あらん限りの気合を込めていた。

 すると、悪臭漂う水面が揺れ始めた。川の底から何かが湧きだしているのか、ぼこぼことあぶくが弾けた。

「キエーっ」

 少女が奇声を発した。ケイタイの、{なんでもないモノ}召喚マニュアルには特にそのような記載はない行為だが、気持ちが高ぶっていたために自然と出てしまった。

「うわあ、臭い、臭い、なによー、これ」

 耐えがたい悪臭だった。十分に熟成された真夏のドブに糞尿を混ぜ込んだような、とても強烈なものだった。

 水面から、なにかが浮かび上がってきた。暗くてはっきりとしないので、少女はケイタイのライトを当てた。

「ええーっと、っと」

 水面に汚いモノが立っていた。高さと幅は大人の男性ほどだが、見た目は異様だ。

ドロッとしていて真っ黒であり、頭や顔、手足といった、ハッキリとした輪郭がなかった。ボーリングのピンを巨大にして、上からドロドロのコールタールをぶっかけたようだ。

「つうか、くさっ。やっぱり臭い」

「ネガイヲイエ」と、それが言った。どこに口があるのか不明であるが、声が発せられたさいは、気が変になりそうなほどの激臭だった。

「うう、えっとー、まずはお父さんをください。できれば、カッコイイお父さんがいいです」と、自分の心にしまい込んでいた願望を言った。

「うち、母子家庭なんです。お母さんは結婚もしてなくて、わたしが生まれる前にわかれたんだって。だから、お父さんが欲しいの。お父さんと遊びに行きたい。お願い」

 女子中学生は母子家庭であった。古くて安いアパートで、母親と二人で暮らしていた。

「チュー、シロ」

「え」

 ドロドロの、悪臭ボーリングピンが要求した。水面から草地へと滑るように移動し、すぐ目の前にやって来た。願いをかなえてもらう代償がなんであるか、年頃の女子中学生はすぐさま理解した。

「キスかよ、マジか。わたし、まだ誰ともしたことないのに」

 初キッスの相手が、糞便臭漂うドロドロなのである。躊躇するかと思いきや、少女は中心部に口をつけた。

「どこが顔だかわかんないけど、これでいいでしょう」

 そう言って、口に付着した黒いドロリを手の甲で拭った。吐きそうになっていたが、願いが叶えられたであろう期待感で何とか押しとどめている。黒いドロドロは接地感のない動きでドブ川に戻ると、そのまま水の中に沈んでしまった。

 暗闇の中を、女子中学生は全速力で走った。来た道を戻って安アパートに帰る。自分の部屋に入ると布団に体を投げ出して、ケイタイの画面を見た。願いは、次の日の朝になって叶うとあった。ふふふ、とほくそ笑んで眠りについた。


「おはよう」

 次の日の朝、部屋を出ると見知らぬ男に声をかけられた。女子中学生は、ドギマギしながら「おはよう」と返した。

「あら、もう起きたの。お父さんにあいさつしたかしら」

 別れた男とよりを戻したと、彼女の母が言った。それは女子中学生の血のつながった父親である。年のわりには、なかなかのイケメンであった。

「うん」と元気よく頷く。

 家族三人での朝食をとっているあいだも、少女はずっと父親を見ていた。この団らんの時が心地よくて、気持ちがほんわかとしている。

「ちょっと、あんた歯を磨いたの。口が臭いよ」

 母親は娘の口臭が気になっていた。ドブのような、そして排せつ物のように厳しい臭いなのだ。

「あ、うん。そんなに」

 慌てて自分の手に息を吐き出して、どれくらいのものか確かめた。

「わあ、なんなの、これ」

 ひどい臭気だった。口の前の空気が茶色く濁りそうな勢いだ。学校に行かなければならないので何度も歯磨きするが、臭いはいつまでも残った。

「マスクマスク」

 マスクをつけて、口臭予防のタブレットを噛み続けて、ようやく胡麻化すことができた。教室ではなるべく目立たないように、隅っこにいた。ただし、そういう態度は少女にとっての日常だった。

 なんでもないモノのおかげで父親を得たが、少女にはまだ不満なことがあった。家が貧乏なのだ。両親の収入を合わせても食べていくのがやっとであり、慢性的な金欠である。家族旅行で温泉宿に泊まったり、遊園地で遊ぶこともできない。

「モノさんモノさん、モノモノさん」

 新月の夜、再び便所川にやってきて、なんでもないモノを呼び出した。

「どうか、わたしの願いをかなえてください」

 前回と同じようなことを言って、指先をカッターで切る。ドブ川に血をたらして、何でもないモノの出現を待った。川は、以前よりも悪臭が和らいだ感じだった。

 はたして、そいつが現れた。黒いドロドロの巨大なボーリングピンだ。

「あれえ、手があるじゃん」

 ただし、今回は様子が違っていた。左右に腕があるのだ。

「まあ、いいや」

 金持ちになることで頭がいっぱいで、小さな変化など気にしなかった。

「なんでもないモノさん、家が貧乏なんです。お金持ちにしてください」

 両目を瞑り、両手を合わせて、お願いですと呟く。心の中は、小銭がジャラジャラ、たくさんのお札が舞っていた。

「ダキツケー」

 それは代償を要求した。しめたとばかりに、少女がほくそ笑む。

「ハグなんか、楽勝」

 躊躇せず抱き着いた。キスよりは全然マシだと、おもいっきりの抱擁だった。服にドロドロが付着して汚れてしまったが、家に帰って洗濯すればいいくらいにしか感じていなかった。

 なんでもないモノが川の中へと消え、少女が家に帰った。次の日は日曜日で学校は休日となる。少女は昼前まで寝ていた。なぜだか疲れ切って、体が泥のように重かったのだ。

「やったあ、おじさんの遺産が入ったぞ」

 少女がようやく起きると、父親が踊るように大喜びしていた。天涯孤独な叔父が死に、その遺産が入ったとのことだった。母親もいつになく満面の笑顔で、うれしさをまき散らしていた。家族はボロアパートから新しい住居に引っ越し、経済的に満ち足りた生活となった。

「なんかさあ、さいきん臭いねえ」

「うん、これ、ヤバい臭いだよ」

「絶対に、アレ系だって」

 このところ、教室内に悪臭が漂っていた。ドブと糞便を合わせたような臭気が、あの女子生徒からムンムンと発せられるのだ。

「ふんっ、なにさ。こんな学校、辞めてやる。ばっかじゃないの」

 少女の口臭と体臭がひどくなった。気持ち悪がって誰も近づこうとはせず、完全に孤立してしまった。学校なんかどうでもいいと不登校になり、毎日を部屋で過ごした。家族さえいればいいと開き直っていた。

 だが、家族は思わぬ方向に走り出した。あぶく銭が入ったために、父親は遊び耽るようになり、母親も浮気をして家に寄り付かなくなった。少女は一人で家に残される日々が続いた。

 たった人で食事をとり、一人でしゃべり、一人で寝る毎日だった。孤独が彼女の心を蝕み、良心やモラルを維持することが困難になった。気がつくと、久しぶりに真夜中の便所川のほとりに立っていた。

「モノさんモノさん、モノモノさん。どうかわたしの願いを叶えてください」

 それは、三度目の出現だった。相変わらずのドロドロまみれだが、今度は両手のみならず両足もあった。明らかな変化だったが、願いをかなえてもらうことしか頭にない少女は気にもしてなかった。

「両親を殺してください。そして、家と財産はわたしが引き継ぎます」

「ノメー」

 それは、顔のあたりから黒くて臭いゲル状の液体を吐き出した。少女は迷うことなく口を開けて受けた。ゴクゴクゴクゴクと喉を鳴らして、尽きることのない濁流を腹いっぱいに詰め込んだ。鼓動が続く限り、息を吸うのも忘れて飲み続けるのだ。

「ぐっは」

 相当な量が少女の胃袋を満たした。さすがに苦しくなったので、体を仰け反った。顎や喉に黒くて臭い汁がべっとりと付いている。手の甲でぬぐうが、何回やってもぬぐいきれない。いつまでもベトベトしているのだ。

「な、なによこれ、ぜんぜんとれないじゃない。うわあ、臭い、くさい、くさっ」

 少女の全身が真っ黒だった。コールタールを頭から、しかも大量にぶっかけたような有り様だった。

「わあーわあー」と叫んだ。

 一刻も早く家に帰ろうと、全速力で走った。背後では、汚いものをすべて吐き出した全裸の女が、のっそりと歩いていた。

 家に帰って、すぐさま二階の自室に引きこもった。風呂に入ろうとしないのは、まるで数百キロの泥が、全身にまとわりついたかのように疲れきっていたからだ。

 次の日の深夜になるまで、少女は死んだように眠っていた。ようやくまどろみの泥沼から目覚めて、立ち上ろうとしたときだった。

 足がもつれた。両方の足がぴったりと合わさって開かないのだ。さらに両腕も体の側面にくっ付いて離れなかった。まるで、手足を体に縫い付けたかのようだった。

「ンンー」

 パニックになりながらも、少女は部屋を出て階段を降りようとしたが、手足がくっ付いているので容易ではなかった。ピョンピョンと跳びながら、転げ落ちないよう一段一段慎重に降りた。居間に行くと、父親と母親がいた。二人でワインを飲みながらテレビを見ていた。ソファーに座る夫婦は、仲睦ましく見えた。

 お父さん、お母さんと声をかけようとした時だった。

突然、わあわあと喚きながら、素っ裸の女が乱入してきた。右手には錆びたチェーンを、左手には巨大なナタを持っている。

 悲鳴と怒号が交錯した。最初に父親が引き裂かれた。チェーンが叩きつけられて皮膚に大きな裂け目ができて、そこめがけてナタが何度も振り下ろされた。殺人と表現するには、ひどく乱暴な解体となった。

 母親も、見るも無残な姿にされた。夫婦の死体は損傷具合がデタラメで、まるで何かの工作機械に巻き込まれたかのようにバラバラにされてしまった。深紅の血だまりが、真っ白な照明の光をほどよく反射していた。

 少女は呆然として立っていた。あまりにも惨たらしい光景を見せつけられてしまい、ショックで脳の処理が感情へと伝わらないのだ。

 誰かがやって来る気配がした。少女が我に返る。ドタドタと家にあがりこんできたのは、近所の男たちだ。騒ぎを聞いて駆けつけたのだ。全裸の女はいなくなっていた。

「うわあ、なんだこれ」

「あぎゃ」

 滅茶苦茶に破壊された夫婦を見て、男たちは腰を抜かさんばかりに驚いていた。

「お、おまえは誰だ」

「なんだ、なんだ」

 彼らは、すぐそばに全身が黒いドロドロで覆われたモノがいることに気づいた。

「わ、わたしは、なんでもないよ。なんでもないの」

 少女は、両親の殺害に自分はいっさい関与していないことをアピールする。無実であることを知ってもらわなければならないが、その声は一言も伝わらなかった。

「だから、なんでもないんだって。なんでもない、なんでもない」

 驚愕して動けない男たちの横を、真っ黒でねっとりした汁だらけのモノが、滑るように通り過ぎ、家を出た。

「きゃあ、くっさ」

「なんだ。死体か」

「臭い、臭い、オエー」

 すれ違う通行人から悲鳴があがる。泥だらけの巨大なボーリングピンから、凄まじい悪臭が放たれていたからだ。

「なんでもないから、なんでもないから」

 言い訳をしながら、少女は逃げた。接地感がまったくなく、まるで幽霊が宙に浮いているかのように滑ってゆく。

 家にはかえることができない。かといってほかに行く当てもなく、気づけばあの川へと来ていた。真っ黒な水面は流れていなかったが、悪臭はまったくなかった。

 背後からたくさんの気配が迫っていた。殺人事件の容疑者を追ってきたのだ。

「なんでもないから、ホントにわたしはなんでもないんだって」と呟きながら、そのドロドロなボーリングピンが川の中へと沈んでゆく。その場に追跡者が到着したときは、汲み取り便所のような悪臭を放つ汚らしい小川があるだけだった。



「モノさんモノさん、モノモノさん」 

 新月の深夜、港湾地区の隅を流れる汚れた川のほとりで、一人の女の子がケイタイを見ながら呪文を唱えていた。

「私はイジメられています。イジメたやつを殺してください」

 水面が揺らぎ始め、強烈な悪臭を放ちながら、それは現れた。

 

                                  おわり

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