塗炭別炭鉱への嫁入り
寝室でまどろんでいると、人の気配がして目が覚めた。
夫婦の寝室に入ってきたのは、高校二年生の娘だ。いつもの着古したパジャマ姿で、じっと立っていた。カーテンの隙間から射る強い月光に、左目が赤く反射していた。
こんな夜更けにどうしたのだろう。腹でもこわして病院に連れて行ってほしいのか。隣で寝ていた妻も起きて、どうしたのと訊いた。
娘は、お嫁にいきます、といった。
なに、と私が訊き返す。
八日後の金曜日に、塗炭別炭鉱(とたんべつたんこう)にお嫁にいきます。お父さん、お母さん、いままで育ててくれてありがとう、といって頭を下げた。
ふざけているのだと思った。
ふだんの娘は、そのようなしおらしい言葉など口にしたことがないし、どちらかというと、最近の女子高生らしく粗雑で野卑な言動を好んでいたからだ。
だいたい塗炭別炭鉱なんて、私の生まれる前に大規模な爆発事故をおこして閉山したはずだ。市内から車で一時間強ほどだが、塗炭別の炭鉱町まで行く道路はすでに閉鎖されて、いまでは森となっている。事故で死んだ者たちの幽霊が出ると噂になって、愚かな若者たちが行こうとするが、ロクな装備も持っていないので山の奥までは行けず、結局は引き返してくる。
ばかばかしい。
もういいから寝ろというと、娘は音もなく出て行った。妻が心配して追いかけようとしたが、放っておけといってやった。あの年頃は未熟な思いつきで行動してしまう。いちいち本気にするだけ無駄というものだ。
ところが娘は、次の日も、そのまた次の日も、私たちが寝ていると、いつの間にか部屋に入ってきた。そして塗炭別炭鉱へお嫁に行くと、同じ言葉を繰り返した。
どうして塗炭別炭鉱なんかに嫁入りするのだ、好きな男でもいるのかと訊ねた。たわごとだと思ったが、いちおう理由ぐらいは聞いてやることにした。
娘は、夫と一緒に切羽に行って採炭作業をするという。男一人がツルハシで石炭を削り、トロッコに乗せて運ぶのは苦労が多く稼ぎにもならない。わたしが行けば石炭とズリを選別できるし、トロッコも押せる。作業を分担できるから食うだけは稼げるというのだ。
なにを血迷っているのかと呆れた。いまどきツルハシを使って石炭など掘らないし、トロッコを押して人力で運ぶなど前世紀の話だ。そもそも塗炭別炭鉱は事故で半世紀以上も前に閉山している廃坑なのだ。すでに森となって久しいのに、そこで誰が働いているというのか。しかも坑内に入って肉体労働するなど、毎日スマホばっかりいじくっている女子高生ができるはずがない。悪ふざけも度が過ぎるというものだ。
いい加減にしないさいと妻も怒った。暗闇に立っていた娘は、お父さんお母さんはなにもわかってないと言い放ってから出て行った。私たちの態度によほど憤慨したのか、寝室には、彼女の酸っぱい体臭がわだかまっていた。
娘は次の日の夜もやってきた。今度はフンドシを買ってくれといってきた。
フンドシとはどういうことだ。祭りの神輿担ぎが履いているのを見たことはあるが、まさか思春期の女の子が身につけるものではないだろう。ハレンチにもほどがある。
そんなものをどうするのかと訊くと、坑道の最深部は暑くて粉塵だらけなので、炭鉱夫はみなフンドシ姿なのだそうだ。夫婦で一つの切羽を請け負うので、女房もフンドシ一枚にならなければ稼ぎにならないという。
年頃の女の子が、狭くて暗い穴の中でほぼ裸になって石炭を掘るなんてと、妻は心の底から呆れていた。
恥ずかしくないのかといってやった。すると娘は、命がけで稼がなければならないのに格好なんてかまっていられないと、やや怒ったように言い返してきた。けっこうな迫力で正論をいわれて、私たち黙ってしまった。どのような妄想であれ、彼女が真剣だというのはわかった。
次の日の夜、娘は焦っていた。フンドシがなければ採炭作業はできない。夫婦で稼ぐことができなければ、その日食べるものにも困ってしまう。子供を産むこともできず、誰からも認められない。みじめだみじめだと、暗闇の中で喚いていた。炭鉱に行かずとも高校を卒業したらいくらでも働けるだろうと諭すと、学校は辞めたといった。まさかと思ったが、妻が寂しそうに頷くのだ。ここに至っては、彼女の希望通りにするしかなさそうだ。
娘とフンドシを買いに出かけた。近所で既製品を見つけるのは困難なので、ネットで探そうかと思った。だが一人娘の仕事着であるので、良いものを買い与えたい。これから厳しい環境に身を置くのだ。自分たちの目で品質を確かめて、丈夫で動きやすいものを購入したい。幸いにも、近所の呉服屋で話をすると特別に作ってもらえることになった。
ほどなくして、フンドシが三つ納品された。特別注文なので安くはなかったが、出来は上々であり、娘は喜んだ。お父さんありがとう、と何度も礼をいってくれた。娘に買ってやる物の最後が、きらびやかな晴れ着ではなくフンドシだというのが、なんとも切なかった。
嫁入りの日となった。塗炭別炭鉱からの迎えはない。こちらから出向かなければならないのだ。
娘と妻を車に乗せて、塗炭別の廃墟町へと車を走らせた。朝から氷のような冷たい雨が降っている。なにも晩秋に行かなくとも呟くと、坑道の中は暖かいから大丈夫だと、後部座席の娘がいう。フンドシ一枚しか身につけないのでは、これから冬になるのに大変ではないかと問うと、自分たち夫婦の採炭場所は塗炭別炭鉱の最深部なので、一年中暖かいと答えた。それ以上いうことがなくなったので、しばし無言で運転することにした。
ほらほら塗炭別だよと、後部座席から娘が身を乗り出してきた。車は国道から外れて山道を走っている。舗装道路はなくなり、砂利道は轍が深く草が生い茂っていた 両側からデタラメに繁茂した木々が枝をたらし、葉が落ちて骸骨のようになったそれらでバシバシと車体を叩く。妻は帰りたいと泣きごとをいっているが、娘は溌溂として前方を指さしていた。
深山の入り口に行きつくと、いよいよ道がなくなってしまった。そこから先は深い森であり、葉が落ちて緑はなくなっていたが平坦な道はなく、足元は木の根と岩で歩きにくかった。灰黒色の雲が山々を覆っている。みぞれが降りしきる中、私たちは車を降りて歩きだした。
嫁入り道具は三つの箱に収めて、それぞれが背負った。娘が背負った箱にはフンドシやカンテラ、手ぬぐいが入っていて、仕事道具のツルハシが括り付けられていた。
私と妻が背負った箱には、米や味噌、醤油のボトル、焼酎などだ。十七年間手塩にかけて育ててきたが、最後に持たせてあげられる物は多くなかった。せめて金だけでもと少なくない額を渡そうとしたが、きっぱりと断られてしまった。塗炭別の町では、採炭して稼いだ金しか使えないとのことだ。
山の斜面が急で、足だけではなく手を使わないと登れない。凍える手で岩を掴んだ時に、軍手を買っていないことに気づいた。それを娘に告げると、必要ないとの返答だった。毎日毎日ツルハシを振るのに、軍手がなければ手を痛めてしまうと心配したが、毎日毎日ツルハシを振ると手の皮が分厚くなるから大丈夫だといって、後ろを振り返って笑みを浮かべた。みぞれが長い髪の毛をべったりと濡らしている。どうしようもなく寒いのに娘の足取りは軽く、逆に私たち夫婦がもたついていた。
初めての山道に、妻は遅れ気味であった。背負った箱の中には、大量の米や味噌などが入っているので重量はかなりのものだ。華奢な身体にズシリと重く圧し掛かっているうえに、ふだんは主婦業一筋で運動などしたことがない。二時間ほど歩くと動けなくなった。苦しい苦しいと、荒い呼吸を繰り返しながら呟いていた。
こんなところで休んではダメだと、娘は無情にも言い放つ。どうしてだ、母さんは疲れきって動けないんだ、少し休んでからにしようと提案するが、そんなことは絶対にダメだというのだ。
塗炭別の山には人喰いの羆がいる。歩けない者を見つけると、襲って食べるそうだ。最後の肉片になっても死ねないように、それはひどくいやらしくて残酷な咀嚼をする。骸骨と心臓だけになっても生きていて、自分の頭蓋骨から脳ミソを引きずり出される音を聞きながら絶命するのだという。
とても痛いよ、と娘がいった。あれは人が経験してはいけない苦痛なんだと、とても真剣な表情だった。顔に叩きつけるみぞれが体温で溶けて幾筋もの水流となるが、気にすることもなかった。
肉を削ぎ切りそうな岩場に妻は座っていた。氷のような水滴に体温を奪われ、険しい山歩きの疲労でぐったりとしている。血の気の引いた顔でこれ以上進めないと、消え入りそうな声だった。
いったん引き返えそうと提案するが、塗炭別炭鉱への嫁入りは今日でなければならないと、娘は頑なだった。母さんが動けないのだから仕方ないだろうというと、そう、お母さんは仕方がないのと哀しい目で見下ろしている。
そうか。先方の都合があるのに、こちらの勝手な事情だけで嫁入りを遅らせるわけにはいかないのだ。私は、凍えきって震えが止まらない妻に申し訳ないと謝った。深山の冷徹さは、すでに素肌まで達しているだろう。すべての温もりを奪い取るまで、いくばくかの時間も残されてはいない。
お母さん、ここでさよならです。いままでありがとう。
娘の声は、サーと降りしきる氷雨に紛れて冷たかった。妻は半ば口を開けて見上げていたが、それが別れのあいさつであり、自分がこの場に置いていかれるのだと悟った。すまないともう一度声をかけると、いいのよ、私はここまでだからと力なくいった。
妻が背負っていた箱の中身は置いていくことにした。またここに戻ってくるまでの食料になると考えたが、お母さんは羆に食べられて死ぬから関係ないと娘がいった。
妻は最後の肉片になるまで苦悶の海で溺れるのだと思うと、とても胸が痛んだ。姥捨て山に捨てられる老婆のように、がっくりとうなだれる彼女が不憫である。娘はすでに背を向けて歩き出していた。私も後に続いた。
塗炭別の奥地をさ迷ってから、どれくらいの時が経ったかわからない。近いと思われた炭鉱町だが、その気配さえ見せてくれなかった。
幾日も山歩きをしているうちに、嫁入り道具に持ってきた米や味噌をすべて食べつくしてしまった。そのことを娘に詫びると、かえって身軽になってよかったといってくれた。母さんは今頃どうしているだろうと呟いてしまったが、彼女は答えなかった。
明日の夕陽は過酷なことになるよ、と娘がいった。どうしてだと訊くと、鉱山事故で死んだたくさんの炭鉱夫たちが天に旅立つのだそうだ。その際に怪我を負った箇所から血を噴き出させる。膿が混じった血のままでは天を歩けないからだ。血混じりの空はとても臭くなって鼻が曲がると、娘はさも嫌そうにしかめっ面をしていた。
じゃあ、おまえもいつか天に旅立つのか。その途中で空に汚れた血をばら撒くのか。不気味なほどの朱色に焼け爛れた空を見ながら訊ねてみた。
天に行けるのは一生懸命に働いた炭鉱夫だけだよ。女は行けないんだよ、という返答だった。
では、どこに行くのか。
炭鉱婦はね、下だよ。地獄に落とされるんだ。赤くて熱くて、怖い鬼がたくさんいるの。そこで苦しいことをいっぱいされる。死んでも死んでも、容赦なく責められるんだよ。
ふざけるな。どうして女だけが死んでも苦しまなければならないのだ。そんなの不公平じゃないか。
だって、昔からそう決められているから仕方ないの。怒っても、どうにもならないんだよ、お父さん。
娘は、たとえ地獄に落ちてもフンドシがあるから恥ずかしくはないと続けた。全裸で責め苦を受けるのは恥辱だが フンドシがあれば耐えられる。千年でも万年でも我慢すると笑顔を見せた。この子がなぜ地獄に落とされ責め続けられるのか、まったく合点がいかない。地獄の鬼どもを憎んだ。
ほらお父さん、ここだよ。
娘が坑道の入り口に立っていた。骨っぽい木々が生い茂った山の斜面に、半円形の入り口が突き出していた。コンクリート製で、いかにも頑丈そうである。
坑道の中はひたすら真っ暗で、どこまでも深い闇が続いている。周囲は枯れ果てた樹木と岩盤が露出しているだけで、他の建造物らしきものは見当たらない。雨はまだ降っていた。
一人娘の嫁入りなのに、相手方は誰も迎えに来ていない。たしかに、持参していた米や味噌を食べつくしてしまったのは申し訳ないが、待ちわびた花嫁が到着したのに失礼ではないか。塗炭別の連中は礼儀もないのかと頭にきてしまった。
娘が服を脱ぎ始めた。ここで着替えるのかと訊くと、そのほうがすぐに働けるからといった。フンドシ姿になった娘の裸体はきれいだった。ただし思ったよりも骨太で、ずんぐりとした印象だ。なるほど、これならば数年もすれば良い炭鉱婦になるだろう。夫とともに稼ぎを得られるはずだ。何十年も重い石炭を担いでいれば肩の皮膚に毛が生えてくる。そうなれば、もう一人前だ。
フンドシ姿の娘が、真っ黒な半円形の真ん中に立って見下ろしていた。背負った荷物の中からカンテラを持ち、手拭いを首に巻いてツルハシを肩にかけた。お父さん、ありがとうと、頭を軽く下げてから坑道の中へと入っていった。
これが娘との別れとなった。十七年間、私は父親として彼女の傍にいた。幼いころは愛らしくて溺愛もしたが、思春期になって生意気な口をきくようになると、わざと無視したり何日も話さないことがあった。平均的な父親のつもりであったが、いま思えば、狭量で子供じみた態度をしたものだ。嫁入りだというのに相手方に持参するはずの米や味噌まで食ってしまった。親としての私は、どうしようもないほどの大バカ者である。
娘はフンドシ姿で底へと下っているだろう。真っ暗で湿った穴の奥で、粉炭にまみれて働き続けなければならない。苦労の先にあるのは、ほんのわずかな身銭と矜持、死して待ち受ける地獄の窯だ。
私は泣いた。オイオイと涙を流しながら、冷たい雨が降りしきる山の中を歩いている。娘に不憫なおもいをさせてしまったという気持ちが集中力を失わせ、道に迷ってしまった。どこを通って山を下ればいいのか、さっぱりとわからない。雨は降りしきるし、身体はたいがいに濡れて寒い。替えの下着を持ってくればと後悔した。
腹がへったが、すでに米や味噌を食べ尽くしてしまった。下山には何日もかかるのに、食い物がないのは致命的となる。私は鹿や兎ではないので、草木を齧っては生きていけない。
温かいものが食べたいと切に願った。娘が気の向いたときに作ってくれた味噌汁を思い出した。出汁をとっていないので味が薄く具だけ大量なのだが、不思議と身体が温まった。この期に及んで嫁入りした子供の手料理が食いたくなるとは、なんて皮肉なのだろう。
妻を置き去りにして猛獣の餌食としてしまった。一人娘はフンドシ姿のまま坑道の底へと沈んでいった。いつも心のどこかで孤独に浸りきってしまいたいと願っていたが、現実にそうなると、つらくて仕方がない。家族と暮らしていくということが、どれほどの温もりを得ていたのか、いまさらながらに思い知ることとなった。
ハッとした。
ひどく獣臭い空気が鼻をついた。晩秋の氷雨でも消しきれないこの生臭さは、考えられるかぎり不吉だ。振り向くことに躊躇いがあったが、そうしなければならない。
巨大だった。
立ち上がった羆は、夜の建築現場に屹立する重機のように厳めしかった。濡れた毛皮から汚らしい汁が滴り、その真っ黒な体躯から放たれる臭気は圧倒的である。
咆哮する獣の口にぶら下がっているのは、人の髪の毛だ。血でべっとりしたその束から、ほんのりと妻の匂いが落ちてきた。ああ、やっぱり喰われたのだな、さぞや生き地獄だったのだろうと思いながら、じっと待っていた。
おわり
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